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【古代日本語】高天原語と五十表音文字・古代の筆記用具【最強アドバイザー天津神】〜古書から日本の歴史を学ぶ〜

※この文章はYouTubeで無料で視聴できます


こんにちは、今回は高天原語の文字の改良と古代の筆記用具についてお話しさせて頂きます、よろしくお願い致します。

【ウエツフミ19の綴(つづり)10の2】

ホノニニギノ尊は、アメノコヤネノ尊、アメノフトタマノ尊、ヤココロオモヰカネノ尊の臣達に「この豊地ガ原、千秋の瑞穂ノ国の言葉は、大御親(おおみおや)の大神が、この豊地ガ原にお広めになったけれども、未だに乱れているようだ、そこで高天ノ原の神の言葉を天ガ下に振りまいて、麗(うるわ)しい言葉にしたいものである」と仰せられました。

この言葉を聞いた臣達は八柱の神達を選抜して

「国という国、島という島を残らず巡り歩き、人民に高天ノ原の言葉の使い方を教え授けて、人民が立派な言葉を話すように努めなさい」と伝えました。

そして選抜された神達は夫婦1組となって、それぞれ任務を開始します。

ヤココロオモヰカネノ尊は「高天ノ原の言葉は甚だ滑らかで且つ清らかである。それ故吾が高天ノ原の言葉を人々が各々自然に話すように教え導けと言語司神(ことばかみ)から命があった。よって私はこの言霊之緒を書くことにしよう」と申して、口の形を絵に書いて五声の声をわけ、口の形のまま自然に出る音を「あ」として、低い引き音を「い」、押し出す音を「う」、押し上げる音を「え」、丸くして出す音を「お」としました。

このように書いて、五音の文字を定めたのです。

これに基づいて、国照大御神の御子、オオヤビコノ尊はこの五母音の各系列を十音づつ連ねて五十音(いそね)を組み立て、これらの形を書き、千万の符号と定めました。それ故この大神を五十建尊(いそたけるのみこと)といい、別名を五十言建尊(いそことたけるのみこと)五十音建尊(いそねたけるのみこと)五十連尊(いそつらのみこと)とも云います。

オオクニ シロヌデノ尊はこの五十表音文字を用いて様々な伝承、物語を綴り、天皇に献上しました。そして天皇は大変喜ばれ、ツミハヤエ コトシロヌシノ尊という讃名を賜りました。つまりオオクニヌシノ尊の御子、オオクニ シロヌデノ尊の別名がツミハヤエ コトシロヌシノ尊ということです。オオクニヌシからコトシロヌシになるパターンです。

ちなみに、最初の名前であるオオクニ シロヌデノ尊のシロヌデとは、母親であるカムヤタテヒメノ尊がシロヌデノ尊を産む時に、空から白ヌデが家の屋根の最も高い場所に落ちてきたため、この名前になったと云います。ヌデは白膠木(ぬるで)の古名でウルシ科落葉性の植物です。

新しい名前を賜ったツミハヤエ コトシロヌシノ尊はどんどん伝承を五十表音文字で綴り、天皇に献上します。

この記録をご覧になった天皇は毎回機嫌が良くなったそうで「この神伝の記録は大変立派にもじったものである、過ぎ去った言葉を再びここに見る」と仰せられました。故にこのもじった絵のことを文字と云います、再び見ることが出来るため再見(ふたみ)と呼ばれ、さらに略されて伝わり「ふみ」という言葉になります。

ウエツフミ19の綴には、ツミハヤエ コトシロヌシノ尊が組み立てた五十表音文字はある絵を参考にして書いたと云います。

それがヤココロオモヰカネノ尊が書いた五声(いこわ)で、これは天地と共に自然に生まれ出た人間の言葉の始まりである、と記されています。

この五声を組み立て、仮名を付けたのがツミハヤエ コトシロヌシノ尊です。

天地間における全ての形あるものは形絵(かたえ)とし、形のないものは借絵(かりえ)として、合わせて五十路絵(いそぢえ)と云います。

ツミハヤエ コトシロヌシノ尊はこの五十声音の絵画(象形神字)を用いて、様々な言霊を写し、ことの次第を書き綴り再見が出来るようにしました。

しかし、この絵画を使って記録するには、かなり時間がかかって煩わしい、ということで、ツミハヤエ コトシロヌシノ尊をはじめ他五柱の朝臣達は書き易くするように文字の改良に取り組みます。

この文字の改良プロジェクトは、想像以上に大変な作業でした。そこで二柱の朝臣が天津神言(あまつかみごと)をして神から助言をもらうことになりました。

天津神言を行うには先ず、棚付きの船に乗り、大分の速吸門(はやすいのと)の向津島にある、国の御柱石の辺りに行きます。昼の間に3度海水を浴びて思念をこらし、八・九の拍手を三度打ち鳴らし、忌火(いみび)を灯します。

※ 忌火=神道で「清浄な火」という意味

次にこの海で採れた海の幸をミテクラシロとして神前に供え、左手に青和幣(あおにぎて)を持ち、右手に白和幣(しろにぎて)を持って打ち振り、祈儀事(ねぎごと)の太祝を唱え、太占の御卜を行うことを天津神達にお願いします。

昼は11日間、夜は10日の間神楽を奏上し、神の天意を求めます。

すると天津神が出現し、「汝(なんじ)は真に忠実である。五十声音は然々と書き連ねよ。このようにつらねるならば、いと書き易いであろう。また静・濁の文字(モジリ)と添字(ソヘモジリ)とを編み

弥足(やた)らして作れよ」と仰せられました。

二柱の朝臣はこの天津神の仰せに従って文字(モジリ)を改良し、清音字、濁音字、仮名の文字、その濁音字20字と添字(ソヘモジリ)2字、併せて72の文字を作りました。

この出来上がった72の文字を使って紙に文字(モジリ)を書きます。この紙は先の御代にカヂスキタカヒコネノ尊(別名アヂスキタカヒコネノ尊)という御柱が天津神に教わって作ったものです、さらにミヲススミノ尊が作った筆と墨を使いました。

カヂスキタカヒコネノ尊が天津神に教わって作った紙の作り方もウエツフミに記載されていますのでご紹介します、まずカヂスキタカヒコネノ尊は天津神から青和幣と白和幣の御幣帛(みてくら)を献上した際に、楮(こうぞ)というクワ科の植物のカナギ(要木)の根元と先端を切ってその皮を剥いで叩き、聖水に浸して竹簀(たけす)を編み、その上にこれを漉(す)いて楮(こうぞ)の紙を造りました。

ミヲススミノ尊が作った墨は、ケキを火で焼き、いぶした炭にクロキの油を混ぜて造ります。筆は去年生えた大竹を八寸づつに切り取り、灰水の こし水に数日浸し、その先を叩き潰して造ります。この筆のことを再見手といい、次第にふみてと略され、現在はふでと呼びます。

筆に墨をつけ、楮の紙に言葉を書き綴り記録しました。

これを見た朝臣達は手をたたきシタリと賞賛した。と記載されています。シタリはでかしたという意味です。

文字の改良や筆記用具作成について、ウエツフミでは天津神との共同作業であったことが読み取れます。当時の記録から、何か困ったことがあると神を降ろして神意を求めたり太占で占ったりしています。この神を降臨させるための祭具や依代は神社や神道の中にたくさん残っていますね。

さらに詳しく知りたい方は参考書籍もぜひ読んで見て下さい。

最後まで読んで頂きありがとうございました。


参考書籍

吾郷清彦「古史精伝ウエツフミ原文併記全訳」
「古事記以前の書」
国立図書館コレクション「上記」


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