見出し画像

熊野三山のこと④

熊野三山と関係の深い社寺について調べてみました。
今回は熊野那智大社に関連する社寺を見ていきます。

青岸渡寺(せいがんとじ)

青岸渡寺

⇧クリックorタップでHPへ

熊野那智大社のすぐ隣に境内を構えるお寺です。
西国三十三ヶ所観音霊場第一番札所に位置づけられています。

縁起では、仁徳天皇の時代にインドから熊野に漂着した裸形(らぎょう)上人が那智の滝で修行を積み、八寸の観音菩薩を感得し、草庵を結んで安置したことに始まるといいます。※1
その後推古天皇の時代(593~628年)に、生仏(しょうぶつ)上人が椿の大木に如意輪観音像を刻み、その胸に八寸の観音を納めて本尊としました。※2

Seiganto-ji, Hondo (Main Hall) -1 (June 2014)

もとは那智大社と一体をなしていましたが、明治の神仏分離令により袂を分かちました。
現在の本堂・如意輪堂も一時廃堂となりましたが、明治7(1874)年に信者により本尊が再び安置され、翌年天台宗 青岸渡寺として再興されました。※3

補陀洛山寺(ふだらくせんじ)

画像2

⇧クリックorタップでHPへ

那智湾の海岸近くにあり、補陀洛渡海の起点となったお寺です。
寺伝によると、青岸渡寺と同時期に裸形上人によって開かれたとされています。※4
明治に入り那智山が廃仏毀釈の憂き目にあった時、その仏像仏具類が補陀洛山寺に運びこまれ難を逃れました。

画像3

隣には熊野三所大神(おおみわ)社があり、かつては浜の宮王子と呼ばれ熊野詣での際に立ち寄る九十九王子のひとつに数えられていました。
九十九王子はまた別の機会に詳しくお話ししたいと思いますが、簡単に言えば熊野の参詣道のところどころにある小社や小祠のことです。
神仏習合の時代には補陀洛山寺と一体の存在でした。

画像4

補陀洛渡海

画像5

補陀洛山寺には補陀洛渡海の記念碑と渡海船の復元模型があります。
記念碑には渡海した僧ら25人の名が刻まれています。
その中には平家物語で浜の宮王子から船出し入水したとされる平維盛(これもり)の名もあります。
裏山には渡海上人らの墓とともに平維盛の供養塔があります。

画像6

また、那智湾には補陀洛渡海と縁の深い島がいくつかあります。
山成(やまなり)島は平維盛が入水した島です。
また渡海船の帆を揚げた帆立島、曳舟の綱を切った綱切島、渡海の最中に恐れをなし逃げ出した僧侶・金光坊(こんこうぼう)が上陸した金光坊島などがあります。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?