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熊野深掘り用語集①

熊野御幸(くまのごこう)

平安時代から鎌倉時代にかけての院政期を中心に、法皇・上皇の熊野詣でが盛んに行われ熊野御幸と呼ばれました。
延喜7(907)年の宇多法皇に始まり、総勢9名で合計100回以上もの熊野御幸が行われました。

宇多院(887-897) 1回
花山院(984-986) 2回
白河院(1072-1086) 12回
鳥羽院(1107-1123) 23回
崇徳院(1123-1141) 1回
後白河院(1155-1158) 34回
後鳥羽院(1183-1198) 29回
後嵯峨院(1242-1246) 3回
亀山院(1259-1274) 1回
※歴代法皇・上皇の熊野御幸の回数については諸説あります。

熊野御幸

末法(まっぽう)思想

後鳥羽院の熊野御幸
出典:『紀伊国名所図会』後編・二之巻(国立国会図書館デジタルアーカイブ〔https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563500?tocOpened=1〕, コマ番号5)

熊野御幸が盛んに行われた時期、世の中では末法という終末思想が浸透していました。
末法とは釈迦が入滅してから2000年後に訪れる、仏教の教えの実践がなされない世のことを言います。
当時、西暦1052年が末法元年と考えられていたため、その時が近づくにつれて人々は仏教の新たな衰退期の訪れに恐れをなすようになりました。
そこから阿弥陀如来が統べる極楽浄土への往生を願う浄土信仰が流行していきます。
そんな時勢のなかで熊野権現のおわす熊野への旅を切望するようになったのでしょうか。
熊野詣では来世への徳を積む行いでした。
その回数が足りないと徳が足りないということになりますから、当時の皇族や貴族を中心に人々はこぞって熊野を目指したのでした。

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