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【雑記】ディストピアの条件#14

SF小説の中でも、ディストピアものは人気のジャンルです。
コテコテな作品を言えば、『1984年』『すばらしい新世界』『われら』などが挙げられます。

自分もディストピア小説が好きで、伊藤計劃さんの『ハーモニー』を大学時代に読み、そこからSFを読み始めました。
なので、ディストピア小説に対する思い入れはそこそこあるのですが、『侍女の物語』や『誓願』の翻訳者である鴻巣友季子さんの『文学は予言する』という本の中でディストピアのルーツや歴史が振り返られていました。

ディストピア好きとして共感できる点もありながら、自分の考えはちょっと違う観点かなあと思うことがあるので、今回はそれを徒然に書いていこうと思います。

なお、『文学は予言する』の一部がwebで公開されています。

『文学は予言する』

『文学は予言する』の中でティストピアの起源はトマス・モアの『ユートピア』にあると指摘しています。
執筆当時ではユートピアと思われていたものが、現代の視点ではディストピアとして見ることができるかもしれないとし、当時の市民の価値観にもよるが、支配者による国民への管理は行き過ぎれば、抑圧、弾圧につながるとし、ディストピアはユートピアの対応概念ではなく、拡張概念であると考え、両者は表裏一体であるとしています。

そして、ディストピアの本質を以下のように説明しています。

ディストピアの本質は、ユートピアを装った管理監視社会の暗部を抉り出し、その体制の危うさや欺瞞、虚偽性を暴くことにある。

鴻巣友季子,『文学は予言する』, 新潮社,2022,66ページ

また、ディストピア文学に書かれる国家や社会には共通した制度や政策があるとして、ディストピア3原則(以下、「3原則」と言います)を提唱しています。

  1. 国民の婚姻・生殖・子育てへの介入

  2. 知と言語(リテラシー)の抑制

  3. 文化・芸術・学術への弾圧

ディストピアとユートピアに関する私見

ディストピアってそもそもなんなんだろうという話は結構好きなのですが、あまりそういう話は人とできないので、こういった本が出てとても嬉しかったです。
ふむふむ、そうだよなと思う部分もありつつ、考えが違うなというところも結構多いので、私見としてのディストピアの①本質、②原則、③ユートピアの関係を紹介できればと思います。

自分としては、これらはディストピアの起源から考えることができるのではないかと思います。
ディストピアの起源は、さっきも書いたように『ユートピア』から始まります。ユートピアとディストピアは、いずれも本質は同じです。
それは現代の社会に対する批判です。その批判を理想を描くことで批判するか、より極端に描写することで批判するかの差はありはしますが、本質としては同じです。

そこで、ディストピアの本質は何かと問われるならば、自分としては、
「現代の社会にある、特定の価値観を極端に描くことで問題提起を行うこと」
になるのではないかと思います。

それを踏まえると、ディストピアの原則は以下の2点と言えるのではないでしょうか。

  1. 社会の安定性

  2. ある特定の善の追求

1点目の社会の安定性というのは、ただ単に嫌な未来ということではなく、ディストピアという社会の極致という特性からのものです。
例えば、発展途上であったり、社会からの異議申し立てだったりで社会の価値観が揺らぐ余地があるという不安定な社会においては、変更可能性ある点で、ディストピアという極致に適していないと考えることができます。
これはユートピアと共通する原則です。ユートピアは理想という極致にあるので、これ以上改善の余地がないはずです。そのため、いずれにしても社会の究極性ということで、ユートピアにも共通するディストピアの原則として、社会の安定性が考えることができます。

2点目のある特定の善の追求というのは、『文学は予言する』で示された3原則をより抽象化したものと言えるかもしれません。(そのため、別に3原則と全く違うというわけではなく、定義のレベルが違うだけかと思います。)

そもそも、3原則はいずれも自由・権利の制限と言い換えることができますが、仮に国民をただ統制するためだけの思想なき統制ではディストピアものとしては、あまり面白みを欠くように感じますし、物語としてはその統制には背景や目的があるはずです。
ディストピア小説は、物語の目的が物語の面白さの核心にもなっていると思います。その目的というのが、まさに善の追求と言えます。

良いこと、善、っていうのは、突き詰めれば「ある何かの価値観を持続させる」ための意志なんだよ。
(中略)
自然には本来、善も悪もないんだ。すべてが変化するから。すべてがいつかは滅び去るから。それがいままで「善」がこの世界を覆い尽くすのを食い止めてきた。善の力で人間が傲慢になるのをぎりぎりのところで防いできた。
(中略)
「健康」って価値観がすべてを蹂躙しようとしている。それってどういうことだと思う?この世界が「善」に覆い尽くされることなんだよ。
(中略)
これほど人間が「善」に律されたセカイはなかった。
これほど人間が「善」に身を寄せたセカイはなかった。

伊藤計劃,『ハーモニー』,2010,早川書房,179~180ページ

そして、ディストピアとユートピアを分けるのが、この善に対する読者の価値観となります。小説の中の人たちと一緒でこの価値観に共感できるのであれば、それはユートピアと言えるのです。

そのように考えるとディストピアかユートピアなのかは主観的な問題であり、ディストピアとユートピアの関係は、拡張概念というよりも、コインの表と裏の関係と言えます。

ディストピアを定義するということは、ディストピアの本質、テーマを理解するのに大きく役立ちのではないでしょうか。ぜひ、みなさんのディストピアの定義も教えて欲しいです。

今回は最近にわかに仕事が忙しくなってきてしまい、読書している時間がなかったため、徒然なるままに書いてしまいましたが、SF百科全書をつくるにあたりちゃんとディストピアというテーマについて、いつかまとめようと思っています。

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