お便さんと一緒

2020/2/5

今朝、Twitterで「摘便」について知った。

自力の排泄が難しい人の肛門に、看護師さんなどが指を入れて便を搔き出すことだという。

記憶をたどると、夫の末期、ホスピスでこの摘便をしてもらった記憶がない。

夫は抗がん剤の副作用のためずっと便秘で、自力で排泄がしたくて、ホスピスの個室に入ってからも看護師さん5人がかりで抱えてもらって便器でうなったりしていた。

摘便をしてもらえばよかった。

私は、夫の死の直後、末期の水として唇を湿らせてあげられなかったこともすごく後悔している。

うんこと水。

それが本当に大事だった。

ここからは、少し批判覚悟で問題提起したい。

読んで、薄情だなぁとか、強いなぁとか、「あまり」「もう」夫を愛していないのでは、と私に憤慨する人もいるかもしれない。

むしろ逆で、強いのではないく絶望から強くなったのだし、

「あまり」「もう」夫を愛していない訳でもない。

むしろ逆で、夫が力強く私の背中を押すのを感じる。

だからこそ、発信したいと思う。

近頃、がんの話題を多く目にする。

がんまわりの話がキラキラ語られていて、私はどうもなじめない。

疎外感と違和感を覚える。

疎外感は、死についての世間一般の姿勢から感じる。

実際に会うがんサバイバーさんたちは、生きる喜びを体現していたり、病気の経験に自分の使命を重ねたり、その上で人の役に立とうとすごく熱心に活動していたりする。

私は、思わず笑みがこぼれるくらい、本当に尊いなと思う。

でも、亡くなった夫のことを思うと、そこに疎外を覚える。

確かに、がんサバイバーさんたちは病気に「勝った」かもしれない。だからこそ、「特別」な経験をされているのかもしれない。

私の中で、浮かぶ思いは、

「じゃあ、死んだ人は?」

というものだ。

敗者なのか?

世間一般でよく、「死んだら終わり」という言葉を聞く。

私はこれに憤りを感じる。

「死んだら終わり」ではなく、「死んだら別の始まり」だと思うから。

死んだら。自分が関わった人たちの心の中で、人は生きていく。それが全てというだけで、人の存在価値は変わらない。今でも夫は、尊い。

サバイバーのみなさんを責めたい訳ではないんです。

「病に打ち“勝って”特別な経験をした、特別な存在」とあまりにも声高に宣言されると、私は夫のことを思って胸をえぐられるようです。

彼は、敗者じゃない。

人間はみな誰しも、どこかで「自分は特別な存在だ」と認知してほしいものだと思う。そしてそれはある意味真実だと思う。

でも、今のがんまわりのキラキラした世界は、死を垣間見た人間を遠ざけ、死そのものを忌避したいという深層心理が見え隠れしているように思える。

「死について語るな。空気読めよ。」みたいな。

死んでいく人たちは誰かって考えたら、そりゃ生きている人全員だよ。

そこに例外はないし、確実だ。私も死ぬ。

がんのサバイバーさんに、「まあ、亡くなる人もいますね」と例外視されると、改めて胸がえぐられて、疎外感は増すばかりだ。

あるいは、人は死について、涙を誘うカタルシスのための物語にしがちだ。

夫の死は、尊厳あふれるものだった。

そして、淡々と訪れた。

私は、がん患者の遺族としてではなく、個人としてアイデンティティを持っている。

夫も、がん患者としてというよりも、弁護士としてのアイデンティティに重きを置いていたと思う。

夫がいるから、とか、夫が特別な体験をしたから、私の人生がある訳でもないし、存在が特別視される訳でもないと思う。

それでも世間は、夫を思い続ける聖未亡人として、不幸に涙するカタルシスを求める。

私は、夫の死についてもう涙で語りたくはない。

むしろ、尊厳の話をしたい。

死という、尊厳あふれる人間活動の話をしたい。

夫は誇り高い勇者として、今でも私の中で息づいているのだから。

違和感は、患者の家族だった経験から生じる。

私は基本的に、

愛、家族、本能、自然、国家という言葉と、

そのコンセプトを危険だと思っている。

今のがんの世界は、家族によるケアを当然の前提としてはいないか。

それには女性の犠牲を伴うことが多いと思う。

妻(女)は夫(男/家族)を支えるもので、女は無条件に身を捧げなくてはならない、それが聖なる愛、という文化的で一時的な性別役割分業を、当然の本能してとらえないでほしい。

現実には、計り知れないほどの苦悩や葛藤があった。

私が肝臓をあげようと思っていたのは、あくまで個人の決断であって、それをたとえば無言の圧力で強要するような社会であってはいけない。

女に、とくに家庭の内部で自己犠牲によるケアとサポートを求めてはいけない。

自己犠牲と思わない人もいると思う。

それくらい思いが溢れるのは家族として自然だと言う人もいるかもしれない。

とくに、自分の子どもが患者の場合はそうだと思う。

だからこそ、プロによるケアを家の外に確保し、もっと活用できて、(あえて言うが)ケアから「解放された」家族が絆のもとに精神的な支えとなれる仕組みが必要なのではないだろうか?

ケアの社会化の話をすると、子育て経験がないことを責める人もいると思う。それは一方で正しい。

今私は闘病について語っているけれど、今女性たちが自分の存在意義をかけて抱え込んでいる、あるいは仕事との両立にてんてこ舞いでいる子育てにも、どこか共通するところがあるかもしれない。

もうひとつ思うのは、そんなに人って聖人君子だろうか? ということだ。

患者を支えている家族だって、ああ今日は疲れたなぁと思うことがあるのではないか。

あまりにもがん患者さんの生還後の人生のキラキラ感を追うのに邁進しすぎて、家族の疲れたなぁという気持ちを、蓋をして隠していないか?

本当はこちらも泣きたいよ、という呟きをかき消していないか。

私はもっと、患者さんの家族にも、「コーヒーでも飲んで一息ついてください」って言ってあげたいと思う。

これは、共に生きるという問題だ。

みんな逆に考えている人がほとんどだと思うけど、社会からのケアが当然であって、家族からのケアが実は当然ではなく、自発的な意志の力を必要とするのではないか。

だからこそ、プロのケアラーともっと日常的に、密接に関われるシステムやインフラが必要だと思う。

車椅子の方と移動していたとき、駅にたどり着くやいなや、一緒にいた看護師さんが猛ダッシュし始めて何事かと思った。

そしたら、車椅子の方のためにエレベーターを探し出してくれていた。

あまりにも愚鈍な私は言葉にならず感動して、これがプロフェッショナルの心意気なんだなぁと思った。

入院したときは、いつも朝看護師さんが患者さんの排泄物を黙々と片付けていて、ありがたすぎて泣いた。

そこにいた「佐藤さん」という看護師さんは、夜中眠れなかった私の身の上話を夜勤の合間に聞いてくれて、今でも忘れていない。

今語られるがんの話が、ときにキラキラしすぎていて現実との齟齬を感じる日々。

夫のことを、「隠される死者」に、

私のことを、涙のみ許される不可視の「家族」にしないでほしい。

現実は、うんこの問題だったりするから。

そしてうんこの問題は何よりも大事かもしれないから。

うんこよ、ありがとう

それはつまり命に、命の営みに感謝すること。

今日も明日も、お便さんと一緒。

お便さんに感謝。

(※タイトルの元ネタは、お母さんと一緒ではなく、私の大好きなお源さんと一緒なのです。もじったものをもじってしまい、恥ずかしい感じなのですが、そのまんま掲載します。決して、世のお母さま方をdisるつもりはありません。)


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