人は学び舎
2019/9/23
先週の三連休、大阪に行ってきました。
済生会吹田病院で行なわれる、精巣腫瘍患者友の会主催の公開講座に出席するためです。
当日は、夏の名残を感じる日差し豊かな暑い日。
カラコロとスーツケースを携えて、東京から新幹線でたどり着きました。
ここで、コンテンツにはなかったものの、数日前にお誘いいただき、少しだけ私の体験談をお話することになっていました。
パワーポイントも作らず、メモを見ながら話し始めたのですが・・・
結果、うまく話せませんでした。
どうしても、そこに出席されていた3人の患者さんたちの視線が痛くて、つらくて・・・
皆一様に抗がん剤治療中ということが一目で分かる風貌で、副作用のしびれによる手足の震えも見て取れました。
話の冒頭でも、「私は異質な存在です」と宣言した通り、「治りたい」と思っている患者さん御本人や、「治すためにはどうしたらいいか」と思っている患者さんのご家族、「治ってよかった」と思っているサバイバーの皆様、そして医療関係者の方々とは全く別箇の存在です。
「遺族」ですから。
患者の家族は第二の患者とは思わないこと、闘病中には、ソーシャルワーカーのような立場の人たちのサポートが必要じゃないかということ、患者本人も、患者の家族も「グリーフ」を経験するため、グリーフケアが必要だということ、などなど、自分の考えを話せば話すほど、患者さんたちの気持ちが気になってしまい、途中、頭の中が真っ白になってしまいました。
そして、最期の方は、要領を得ない、伝えたいことがあるのに言葉がすらすらと紡ぎだせないジレンマを抱えた子どものような状態に。
患者さんに嫌な思いをさせていないだろうか、俺たちが死んだ後のことを喋っているんじゃないか、俺たちは生きているのに、と思ってはいないかと、すごくすごくつらかったです。
この中で、どう話すか。
大事なことは、話し方と話す内容の2つの側面にあると思います。
話す内容が確立され、反応はどうあれ自分の中で納得していると、自然に話し方も落ち着いてくる。
話す内容は、まとめているときとそうでないときがあるかもしれないけれども、日頃から考えていることが、自然と具に現れる。
だから、普段から自分の考えを熟成させ、発酵させ、その場のインプロビゼーションで料理できるように腕を鍛えているとよいのだなと思います。
まだまだ、考えが足りない。
考え抜いたことを、穏やかに、人を安心させる話し方で伝えることも大事。
今回のように、話しているときに相手の心情を慮りすぎると、テンパってしまう。かといって、すべからく何を話してもよいかと言われると、そうではない。
こうした医療のイベントには、本当にさまざまな気持ちを抱えた人たちがいるから、その人たちのことを考えながら、言葉を選ぼうと思います。
精巣腫瘍は、8割方、治るがんです。
治っても、生殖の問題など様々な悩みに直面します。
治るため、治すため、そしてその後生きるために闘う人々がいます。
そして、悲しく、くやしいことに、人生を去っていかねばいけない人たちもいます。
私がこの活動を行うのは、やはり必要だと思うからです。
家族として闘うとき、あるいは、別れるとき。
そこにある様々な葛藤を乗り越え、人と人との絆の中で、死の訪れを経験することは、患者さんにとってもその家族にとっても大事だと思います。
私は、生き残った私の方が夫よりも不幸だなんて、微塵も思っていません。
でも、死別の前後は、どうしても、自分自身が不幸だと感じてしまいます。
身が引きちぎられるような、荒れ狂う嵐のさなかに放り込まれたような、凄まじい、凄惨な喪失感にとらわれるからです。
半身を失ったような、欠落感につきまとわれます。
それでも、喪の作業、おとむらいをしていけば、その欠落しているにも関わらず「与える」、「捧げる」という行為を通して体が漲ってくることを感じてきます。自分の人生の尊さ、命の重さ、生きる喜びを改めてしみじみと深く感じられるようになって初めて、夫の失ったものの巨大さに気づかされ、自分が「不幸」だと思うことは、夫やすべての死者に対して失礼だと思えてきます。
そこでやっと、自分のつらさ、苦しさ、痛み、悔しさ、寂しさ、どんな感情よりも、夫への純粋な哀れみが泉のように湧き出る心になったのです。
それは、喪失の後に、おとむらいという贅沢で豊かで切ない時間を過ごしたからこそやっとたどり着く境地。
自分の人生が大切だからこそ、真に夫の人生のかけがえのなさが痛いほど身に染みるのです。
ダライ・ラマが“Compassion”が大事だと繰り返し説いていました。
Com(共に)、passion(苦しむ)ということ。意味は、同情する、哀れむということです。
私は、死者がこの世で(あの世を含めて)一番の弱者だと思っています。
二番目が、死にいく人たち。
Compassionという指針が、夫からの命を懸けた教えだったと思います。
私もそうだったように、患者さんの家族はやはり自分のつらさを感じている。そして、それを押し殺している苦痛にもあえいでいる。
天台宗の宗祖、最澄が説いた「忘己利他」(己を忘れて他を利する)という精神が、死にむかう人たちに相対するとき必要とされます。
でも、難しい。
こんなに難しいことはない。
だからこそ、そんな家族の人たちをそっと支えることができたらなと思います。
夜、新大阪の街を、古谷さんと歩いていました。
古谷さんは、車椅子を使っています。
隣で、古谷さんの車椅子がガタンッと鳴るので、日本の道路には段差が多いのだなと思いました。
帰京後、私の最寄り駅にはエスカレーターがなく、エレベーターも分かりにくいところにある上に激混みだということを今更ながら不便だなと気づく。
そして、駅の出口近くにあるコンビニの入り口に、2段の段差があるのに初めて気づきました。
この段差が境界になってしまうのだな、と考えていました。
たった2段。
健康な人にはたった2段でも、そこに境界を感じる人もいる。大きな学びでした。
写真は、私の学び舎。
今日、散歩してきました。
3号館の前で、外国人の男性に声をかけられる。
男性 Why is everything closed?
私 Because it’s public holiday today.
男性 What kind of holiday?
そこで咄嗟に出た答えが、
It’s a celebration for coming-Autumn.
でしたので、秋を寿いでいきたいと思います。
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