とても個人的で、実は政治的なこと

2019/12/25

メリークリスマス!

先ほど、【AYA世代のがんの家族(特に親)支援について】というタイトルで、古谷さんがFacebookに次のような投稿をあげていました。引用については、御本人から許可をいただいています。

精巣腫瘍の好発年齢は20~30歳代であり、AYA世代の定義ではど真ん中のがんです。精巣腫瘍のピアサポートを9年とインタビューをしてきて思うのは、あたりまえなことだと思いますが親御さんがとても熱心なことです。

中略

最近思うのは、他のAYA世代の支援を見ていると、当事者向けの支援が多いような気がします。

中略

親がキーパーソンになることが多いAYA世代だからこそ親御さんの支援はしていかないといけないと思います。

私は、古谷さんの意見に多いに賛同します。

やはり、がん患者さんご本人への全面的バックアップとともに、患者さんの家族の方への第三者からの社会的な支援も必要だと思っています。

これは、社会が個人に対するケアを担うということ。そして、社会がケアをする人をサポートするということです。

なぜか。

それは、ひとえに患者さんが必要なケアを無理なく届けるためです。つまり、家族の誰か、とくに女性の犠牲や過大な負担の上に患者さんをケアするのではなく、まっすぐな愛情のもとに人間関係を構築し、共に生きていくということです。

これは、「患者さん」の部分を「高齢者」や「子ども」や「障がい者(障がいという言葉があまり適切だと思わないので何かベターな表現があったら教えてください)」などと置き換えてもいいと思う。

ケアを社会化するということです。

「個人的なことは政治的である」と歴代のフェミニストたちは言ったけれど、実感を伴って真実だと思います。

旧来の、保守的に言えば「伝統的」に、家族をひと単位としてとらえる社会のあり方では、当事者の家族、主に女性、とくに「お母さん」のような無業の女性に物理的にも精神的にもケアを依存していて、心身ともに苦しめているし、追い込んでいるし、場合によっては搾取していると思います。

「個人」を社会の単位として明確にとらえ、第三者や社会全体で患者さんと患者さんに寄り添う人をケアする、またはケア自体をばっちりサポートするのがベストな社会の仕組みだと思います。

(ここでちゃっかりうっかり表明しておきますが、私は以上のような実体験を伴った価値観から、自民党による、保守的で、彼らのふりかざす「伝統的」家族観を絶対善とした改憲には断固として反対です)

家族ががんになったら・・

もっと考えれば、子どもががんになったら・・・

いてもたってもいられません。

とことん、相手を(子どもだとしてもパートナーだとしても)サポートしようと思います。

だからこそ、そういうケアが必要になったときに、右手にソーシャルワーカー、左手にFPさん、はたまたバックに患者友の会、もちろん前面には医療戦隊医者レンジャー!みたいな、がっちり固めたケア体制が社会的に当たり前になってほしいと思います。

そういう仕組みが、インフラとして世の中に当たり前に整っているといいなと思います。

以前、タレントの磯野貴理子さんが離婚しました。

その理由は、比較的年齢高めな磯野さんに対して、夫が「実の子どもがほしい」と言ったからだと報道されました。

それに対して、非難が続出しました。

そんな理由で離婚するなんて、磯野さんに対して失礼だ、とか、男として結婚を誓った覚悟が足りない、とか、主に磯野さんへの同情論が飛び交いました。

私は、思うのです。(ここからちょっと批判覚悟で)

磯野さんの元パートナーの方は、そんなに身勝手でしょうか?

私の夫が生きていたらどうでしょう?

たとえば、夫の闘病後、私たちが離婚していたら世間はどう思うでしょうか?

夫は、抗がん剤治療で妊よう性が低減していたはず。

もし私が、「妊娠、出産したい」と思い、夫に離婚を切り出したとしたら・・・身勝手でしょうか?

そのように思う方が多くいると思うのですが、磯野さんのケースとは違い、私に対して「女性だからそう思うよね」と同情する気持ちを持つ方も現れるのではないでしょうか?

夫のがんは、肝臓に転移していました。

私は、肝移植ができるなら自分の肝臓をあげようと決意していたし、自分の命を捧げてでも夫を助けてほしいと天に祈りながら東京メトロの電車の中で号泣したことは数えきれません。

そんな私でも、夫の末期には、現実を受け止めきれず、逃げようとしたこともあります。(その詳細はまた別途書く気でいるのですが)

今、思うのは、もし夫が生きていたら、私の場合は、出産と子育ての機会を失うことより、三浦忠司という人間の人格や人徳や存在そのものを失うことの方が確実につらいということです。

もし私が夫に、闘病後、離婚したいと言ったら、夫は私の話を聞いて、自分の意見もはっきり言って、ふたりで納得の行く結論を出したと思います。

私は夫とずっと一緒にいたかったのですが、たとえ離婚したとしても「家族」の美名のもとに非難をしないということは、個人が対等な関係で、自立した人生を歩むことを自明のものとして考えるということです。

むしろ、そのようにして個人を(あえて強調しますが女性も一個人として)尊重した、個人を基本単位とした社会のほうが、たとえ権利と権利がぶつかりあう運命だとしても、隣人を大切に、愛情もって接することができるのではないかと私は思います。

今年の秋、20代からの懸念だった婦人科の疾患に対し、手術をしました。

(ちょっとしたカミングアウト)

ひとりで、会社を休ませてもらい、淡々と病院のお世話になったのですが、やはり、手術後の生活の注意点とか、受付に1時間待たされなくても(大病院だったので)医療者にもっと気軽に聞けたり、ちょっと心にひっかかる心配事などをソーシャルワーカーさんに相談したり、保険に入ってはいるものの、折りをみてお金の相談したり、社会的なケアを包括的に享受できたらいいなぁと改めて思った次第です。

「個人的なことは政治的である」

本当にその通りです。

なまくら政治学士をかすめとった身ですが、まだまだ勉強することも、考えていくことも、そして何より行動していくべきこともあります。

そんなことを思った、仕事納めイブなのでした。


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