うな重の秘密


コロナ先生の生活指導

最近、コロナ禍でおうちごもりの日々が続いて、自分を内省せざるを得なかった。でも、そのおかけで憑き物が落ちて、人生のくびきから解放されたように感じている。

在宅勤務が始まってからずっと、とある資格の勉強をしていて、筋トレもしていて、自分にストイックに過ごしていた。必要な情報には日経でアクセスしていたけれど、テレビのニュースもSNSも、ほとんど見ていなかった。

でも、宣言解除になってからも在宅勤務が続くことになって、ああ世の中は変わってしまったし、変わっていくんだなと感じた。そして、これは自分も変わらなければならないな、とはっきり腹落ちした。少し、気が抜けている。

思い出すのは、母

そんな日々の中で、母のことを考えた。

自分の家にずっといる生活は、母が過ごしたそれと似ているからだ。

正直に言うと、私はずっと、母のことを尊敬できなかった。

そもそも、私たち姉妹には経済的に自立するよう、ことあるごとに強く言いきかせておきながら、自分は専業主婦で・・・正直口だけだなって思っていた。中学生くらいの頃、お母さんに「パートしたら?」って言ったことがある。でも、母は雇ってくれるとこがないって言っていた。

そのときは、甘えで言い訳だと思ってたけれど、今、社会に出ていろいろ経験した後で、高校しか出ていない母が、40過ぎに、祖母も抱えている中、働くことは難しかっただろうなって、世間知らずで浅知恵しかなく、幼かった私に愕然とする。

母のことを、美しいとも思えなかった。
よく似てるって言われてたから、自分も母みたいに太ってしまって、老いていくのかと思うとすごく怖かった。母はもともと体が弱かっただろうし、長年心臓の病気も抱えてたから、ありのままで全然問題なんかなかった。自分は母とは違う人間だから、自分なりの年の取り方もするだろうに、私は何が怖かったんだろう?
後から母の写真を見たら、とても柔和で美しかったし、姉がくれた写真の中でも、仏さまのような笑顔だった。

人生が重なるとき

ここんところずっと、在宅で仕事はしているとは言え、基本的に家か自宅周辺にいて、家事をまわし、買い物をし、贅沢や人との交流というハレの活動より、健全な日常生活というケに重きを置いて過ごしていた。

母が、ずっとそうしていたように。

そうしていたら、とある夜、自分がこのコロナ禍の日々を、とても怯えて暮らしていることに気づいた。それに気づいたとき、思わず声を上げて泣いてしまった。もしかしたらそれは、世界に蔓延している病気に対する恐怖心かもしれない。

でも、私が感じたのは、もっと根っこの部分で「怯えている」という自認だ。
同時に、この怯えは、きっと母も生涯感じてたことなんじゃないか、と目が覚めるような思いがした。

生きる自信がなくて、自然の猛威はもちろん、他者や社会悪に蹂躙されるのがこわくて、怯えて、私的空間でしか自分を表現できないもどかしさ。

そういう気持ちをずっと心の深いところに、私の母は感じていたのではないだろうか。そう思った。そしてそれは、多かれ少なかれ、この世界を生きている女性が感じていることなのではないか、と・・・

涙の散歩

一人で生きてる私が、母と同じ怯えを感じているということが分かったとき、そしてそれが同じ女性として根源的な感情なのではないかと思ったとき、改めて母のことを思った。

そんな怯えの中、母は私を懸命に育ててくれたのか。

食事の世話、洗濯、掃除、あらゆる家事一般、学校や塾など日常の用事、話を聞いてくれること。今、私が1人でやっていることを、全部母がやってくれていた。三浦さんと結婚してからも、相談にのってくれ、闘病のときはご飯をつくってくれた。

私が1番覚えているのは、高校受験のため夜遅くまで塾に通い詰めてた頃、母が必ず車で迎えにきてくれたこと。すごく疲れて、頭も目もパンパンでぐったりしてたけど、帰ったらお風呂にも入れた。

あのとき、塾までは自転車でも行ける距離だったけど、毎日欠かさず安全のために送り迎えしてくれたことは、今から考えると本当に感謝でしかない。私は当時、考えなしに短いスカートをひらひらさせて、これみよがしなルーズソックスを履いていたけれど、母のおかげで性被害にも合わないですんだ。

なぜ、母が私を守ってくれていたことに、すぐ気がつかなかったのだろう。

そうして私は、念願叶って筑波にも入れたし、大好きな早稲田に入れて、大好きな三浦さんにも出会えて、今、一人前みたいな顔をしている。
これは全て、母がしっかりと私を育て、支えてくれたからだった。

そのことにやっと気づいたとき、散歩の途中に涙が出てきた。

母は、もう亡くなってしまったのだ。

それは、三浦さんが亡くなってから1年半くらい後のことで、そのときの私は三浦さんをおとむらいすることで正直精一杯だった。

今思うのは、母がいさぎよくこの世を去ったことで、逆に私は自立を促され、こうして時間が経ってから母と再会するように想いが募るということは、母が、自分へのおとむらいを後回しにしても、私の人生を前に進ませたのではないかとすら思う。そんな母だったと思う。

母のことを思いながら、泣きながら歩いて向かった先は、母校だった。たどり着いたcafeで見上げた大隈庭園の緑は、とてもきれいでまぶしかった。

長年の母に対する浅はかなわだかまりが溶けて、とても感謝の気持ちでいっぱいで、いつか自分が天国行って会えたら、お礼がしたくてたまらない。生きている間は、一生懸命生きることで母の恩に報いたい。

私は女性

こうして、自分の女性性をちゃんと受け入れて、尊重して、大事にするということが、私の中でより大きなテーマになった。それは、母から受け継いだものだから。

それまでは、男社会で生き抜くためにはどうしたらいいのか、どう自分を「高め」たらいいのか、どうしたらサバイブできるのか、ということばかり考えていた・・・

今は、男性を相手に相対的な女性性を感じるというよりも、つまり、男性がいるからこそ、または男性から女性として見られるからこそ、自分は女性なのだと感じるのではなく、自分の中に、母から受け継いだ絶対的な女性性を感じる。感じられる。とても大事にあたためてる。

母のことを好きになれなかったから、自分の女性性、つまり母からのギフトをうまく大事にできてなかった。自分と向き合った今、それは本当に最良の知性だったのだ。

この社会で生きていくために、女性としての自分自身を変える必要って、本当にあるのだろうか? 変えるべきは、やはり他にあるのではないのか・・・? たとえばそれは実は、健康な壮年の男性だけを一人前の市民の規範としている社会の在り方なのではないか・・・? もっと言えば、「規格外」の市民が望むように生き、幸せになれる社会の在り方とはどんなものだろうか? と、今は疑問を抱いている。もっともっと考えてみたい。

全てはギフト

いつか、神様からもらった最大のギフトは、自由なんだな、と気付いたことがある。

神様は、何をしても、失敗して砕け散っても、その傷あとを癒すだけではなく、責めることなく、矯正することもなく、あるがまま生かしてくれる。導きだ。

そして今、親からもらった最大のギフトは、信頼だったのか、と分かった。投資、だなんて冷静な言葉を使わずに、未来に向けて日々心を傾け労ってくれること。2番目のギフトは、教育かもしれない。

ひたすら信じて、くたびれたら宿を提供し、打ちのめされたらまた宿と食事を提供し、外へ送り出す。こんな深い信頼に基づいた育ち方をしたんだな、と今やっと振り返ることができた。

信頼する方の気苦労を茶化したことはあっても、私の親が深刻に愚痴ったことは、一度もない。
母が、笑っている気がする。いつか分かる、と思っていたよ、と。 

生き様

父についても、少し語ろうと思う。

私は、父が弱音を吐いているのを聞いたことがない。

私が高校生の頃、親戚の中で太陽のように明るい笑顔の好青年だったいとこが自死を選んで、家族女3人が呆然としていたり、泣き散らしているときも、父は、トイレに入って鼻を幾度か噛んだあと毅然と出てきた。
母が死んだときに泣いてるのを見たのが、父の弱い部分をかいま見た初めてのときだったかもしれない。

三浦さんが亡くなる直前、父が彼を鰻屋さんに連れて行った。
うなぎは、三浦さんの大好物だった。
そのとき、男2人で何を話したのか、私は知ることはないと思う。

その後、家族の中で一悶着あったし、亡くなった後も私が経済問題や血縁問題に翻弄されているのを知っても、父は常に冷静であった。

今落ち着いて、直感で思うと、あの鰻屋での密約は、何だったのだろう。
父に問うてもはぐらかすだろう。

三浦さんがとうとう亡くなったとき、父が一言つぶやいたのは、
「無念だな」

そのとき私は、本当に三浦さんの気持ちが無念だなと思ったし、父もそれを意味したのだろうと思っていた。
でも、父も無念だったのかもしれない、と今は思う。

昔っから口ばっかり達者で、今もそういうところがあるけれど、私は言葉を振りかざしがちで、言いえてることで悦に入りがち。
そんな私をあっさり論派して、そのうえブラックジョークでゲラゲラ笑わせることまでできた婿を失って、父はどんな気持ちだったんだろう。
三浦さんとの間にもいろいろあったけれど、無念だったのは父も同じではないかと、やっと思い至るようになった。

そもそも父は幼い頃からの苦労人で、業の深い産まれ育ちをしてるのだが、私がそれを知っていることを父が知っているかは分からない。同じく苦労人の母が、こっそり教えてくれたことだ。
そして、父は語らない。

過敏な思春期にありがちな、父の不在という悩みテーマには私も例にもれずひっかかったけど、父の生い立ちをこっそり話してくれた母が、そうして父をやんわりかばわなかったら、私も父と洗濯物を一緒にするな!と、暴れていたかもしれない。

思い出も、グラスに

私は、三浦さんの闘病中、いつしか、自分は三浦さんの父親にならねばならない、と思うようになった。
父親のように守りきらなければいけない、と感じた。
守りきれなかった。

今、思い返して、父が涙を、そして鰻屋での会話を頑なに隠すことで、男の人が女性を守るとき、「隠す」んだな、と気づいた。

その女性を世間の荒波から隠すときもあるし、その女性から何かを隠すときもある。

三浦さんも、今振り返って、弱音も涙も震えるほどの慟哭も、隠していたなとやっと気付いた。すごく、三浦さんらしかった。地獄を抱えて自分が朽ち果てていくのに、何食わぬ顔で私を守っていた。
私は、それに気づくまでに、ゆっくりとしか成長できないんだな。

会社で働いていても、実はよくあること。
男の人が隠すのは、秘密にするためではなく、飲み込むためなのだ。

だから、お酒がいるのかな。
そしてきっと母は、そんなお酒を作るのが上手な、優しい女性だったんだ。
父がグラスに隠して飲み込んだものの影を、母が受け止めて、浄化していたのだろう。

そして私

私はあのとき、父親にならなければと思っていたし、死別という結果に凄惨に打ちのめされていた。
私はコゼットじゃないんだ、むしろジャン・バルジャンでしかないんだ、と、勝手に絶望していた。
私の人生は、終わったと。
ほとんど無実の罪で投獄されて、一生日陰に隠れて暮らすのだ、と。
女性として輝くことは、許されない運命なのだと、思い込んでいた。

そうじゃなかった。
私は、ちゃんと娘であったし、妻だったのだ。
うな重だけが、知っている。
そして、その場にいなくても、
母は全てを知っている。

レミゼの最後で、人を愛することは神の顔を見ることだと高らかに歌うけれど、私がモルヒネパッチに怯えていた間に三浦さんはとっくに神の顔を見ていた。
たぶん、父も一緒だった。
母は、その二人をも見ていた。

墓場まで持ってく隠しごとを、男の人はいくつ持っているんだろう。
そしてそれを、女の人はいくつ秘密にしているんだろう。

私が天国に行くときには、うな重をお土産にしたいくらいだ。
母には、大好きだったあんこのお菓子を持っていきたいのだけれど。
そのときの私は、努力と遊び心で、人生の艱難辛苦と喜びを存分に謳歌した後だろう。

これからは、三浦さんが出来なかったことを代わりに、復讐のようにするのではなく、今はもういない三浦さんに、未練たっぷりに尽くすようなことをするのではなく、三浦さんが、「私が」できる、と信じたことを私はしたい。
はばたいて、と言った三浦さんの気持ちは、そういうことだったんじゃないかな。
そしてその信頼は、父からも母からも、注がれたものと同じなのではないかな。

今の気持ち

未熟だった、未熟だった、と痛感していたけれど、私はまだまだ未熟で、そんな私を、大空と大地と築35年の家は包み込んでくれる。
未熟だけど、色づいていたりして、人生が愛おしいなぁ。
毎日毎日、何かを感じて、それをじんわり味わって、心の中のぬか床で漬け込んで、栄養にして生きていくのは、本当に楽しいな。
生きていくのは、本当に素晴らしいな。

こんな気持ちを、ミュージシャンなら音楽に、画家なら絵画にするのだろうけど、私はiPhoneでメモってる。
それも、楽しいなぁ。

偉大な家族のもとに産まれてよかったし、尊い結婚生活だった。
料理の妙味とは、食事を共にする人がスパイスだ。人生もまた然り、なのだ。

佐藤錦

天国のお母さん、ありがとう。

父に、こんな心境の変化を伝えたら、
「お母さんは、仕事の面接にこぎつけても、自分より生活が苦しい人がいると、自ら身をひいて譲ってしまう人だった」
と、教えてくれた。

そりゃあ、生活に苦労してないからだろう、と鼻白むこともできる。
もしかしたら、自分なんて・・・と謙遜しすぎて、自己肯定感が低いからものごとを達成できないではないの? と勘ぐることもできる。

でも、私はこう思う。

お母さん、あなたは、自分が恵まれていることを自覚し、恵みを正面から受けとり、それに満足し、感謝できる賢者だったのですね。

もっと、もっと、と欲深く果実を追い、業を深めることも人はできる。
でも、自分への恵みに感謝していなければ、人により大きい利得を譲ることはできない。それほどまでに、自分に満足できていないからだ。

お金を稼ぐことに執着するためにプライドがあるのではなく、他の人に分け与えて生きるために、誇りはあるのですね。

だからあなたは、ブランド品も買わず、自分の楽しみは本を読むばっかりで、その本すら、切り分けた使い古しのカレンダーの裏紙にメモった新刊のリストをわざわざ図書館でリクエストして借りて、貰い物はほとんどを人にお裾分けし、引っ越しで積み込めない荷物も保育園や福祉施設に寄付し、毎年こつこつとユニセフに寄付していたのですね。しかも、自分のお小遣いの中から。

母の偉大さ。

私が、見知らぬ土地で喪主を勤め上げることができたのも、夫の骨を拾うことができたのも、あなたから人に尽くす勇気を受け継いでいたからです。
失敗も後悔も、懺悔もあるけれど。

葬式にかけつけてくれたとき、周りをはばかりながら、ヒソヒソ声で「よくやった」とつぶやいてくれましたね。それは、本当に必要な一言だった。娘の私を、ずっと見ていてくれたのですね。逆の立場だったら、私がそう言えたかどうか分からない。本当に理解と包容力のある一言でした。自分の苦労なんか、おくびにも出さないで・・・

その言葉で初めて、張りつめていた私は素直に泣けました。
その思い出も、今やっと、鮮明に思い出せる。

三浦さん、50年くらい経ったらまたおしゃべりしようね。
会いたいけど、のんびり行くわ。
話したいことが山ほどある。
ちょっと待ってて。
茗荷谷の寮に、2限を終えた私がバスで着くのを、待っていてくれたように。

父とは、実はいろいろ禍根もあったりする。
父も、突き放すような言葉遣いで、私たちを叱咤激励することもある。

ただ、母について語り合ったLINEの最後には、こうあった。
「お父さんは、あんたたちには迷惑かけずに老いていくつもりだよ」

任侠入ってるヤバい父親だ。
サクランボを送った。


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