死とは、師

2019/03/01

夫が亡くなってもうすぐ3年経ちます。

この3年は、おとむらいにどっぷり浸かった日々でした。

私にとっては、亡くなった夫のことに思いを馳せることはとても自然なことですが、周囲の人にとっては、死というものが日常生活とあまりにもかけ離れているのだと気づきました。

3年経ち、おとむらいの旅が今少し収束に向かおうとしているのが分かります。替わって始まりそうなのが、「死」の旅。

同じようでいて、少し違います。

おとむらいは、亡くなった夫への責任感と純粋な哀れみから、私が生きる活動として行なってきたことでした。

死を考えることは、自分自身の死を考えることにつながります。

死とは、はじめ私にとって「断絶」でした。

夫の肉体を荼毘にふし、肉体がなくなってしまうということを目撃したのが衝撃で、底知れぬ「断絶」を感じました。

次に、日常に戻った私にとって、死とは「憂い」でした。空に雲がかかるように、生きる虚しさに気づかされる存在でした。

今わかるのは、その生きる虚しさを感じているということは、同時に生きる喜びを感じているということです。生きる喜びを感じているからこそ、虚しさも覚える。その人生の陰陽、かげひなたというバランスを学びました。

そして今、死とは「師匠」のような存在です。自分自身の死をも考えることによって、生きることそのものについて深く考える事になるからです。

夫の死がもたらした私の変化とは、自分の人生に対する姿勢です。夫の死によって、私は自分の人生の大切さ、輝かしさに目覚めさせられました。その境地に至るには、サバイバーズギルトなどの紆余曲折があるのですが、今は、自分の人生は本当にかけがえのない、ダイヤモンドのように輝く大切な一本道だと感じています。

生きる喜び。

遺品を整理していて、夫のスマホに愛知トリエンナーレでオノ・ヨーコが発表した作品の写真が出てきました。白い看板の上にただ一言、「生きる喜び」と書いてある。

夫はこれを見て、写真におさめて、何を思ったのだろう。

そのときは何気なくいい作品と思ったのかもしれない。

でも死が迫るにつれて、生きる喜びが限られた身と知りながら、何を求めたのだろうと今でも考えます。

私にとって生きる喜びはとても小さく、身近で、味わうのに簡単なものです。

それは、朝の光。

一杯のコーヒー。

丁寧にファンデーションを塗ること。

人との挨拶。

休憩時間。

人の役に立つこと。

入浴剤の香り。

アボガドを刻むこと。

眠りの誘い。

日常生活が愛おしいです。

行いを味わい、営みを楽しみ、生きるを喜ぶ。

これが、死という師匠が私に教えてくれた最大の学びです。

もし、近くに喪失(死別)体験をした方がいらっしゃったら、是非お話をしてみたいと思います。紹介していただければ幸甚です。

死とは、そんなに毛嫌いするべきものではないと、私は実感しています。

死とは、師。

皆さんの中で、死というものがひたすら恐怖の対象であるよりももっと、生きるのにお役にたてる存在になるといいなと思います。


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