汀にて
2019/6/15
今日は夫の3回目の命日です。
最近、暴力による事件が後を絶ちません。
このような事件の一連の報道により、死に対し、「暴力的」なイメージが付与されていると思います。
私は、そう感じていません。死は暴力的でも、暴力そのものでもないのです。
1年4ヶ月の闘病を経験し、私はむしろ病や医療に対して暴力的だといった感があります。
病は、台風や津波のような自然の暴力。医療は対抗暴力といったイメージです。
死は、出航の瞬間でした。
忍土からの出航。
船着き場から、すっと舟が出て行くような、それを見送るような汀での出来事。
死との境界は、波が砂に描く線のようで、行きつ戻りつ、定まらずたゆたっている。
その境界に足を浸して、私は夫を想い、祈る。
船旅がのんびりと快適で、心地好いものでありますようにと。
私は、エンバーミングの最中ずっと微笑んでそれを見ていました。
夫の母と姉は泣きじゃくっていました。
私が微笑んでいたのは、闘病中に、夫が図書館で借りてきた映画『おくりびと』を観ていたからでした。
今思えば、夫は死について事前学習をしていたのです。
あるとき、二人で畳に寝っころがりながら話していると、彼がこう言いました。
「天国に行ったらレジュメが配られて、説明会があるに違いない」
二人で声をあげて笑いましたが、思えばそれも、死へのささやかな準備体操でした。
闘病中の苛烈な日々。
私はいつの間にか生理が止まりました。
密室介護だったと思います。
生温い言葉では表しきれない葛藤がありました。
その中で、二人、人間性が暴発しかけたことも、したこともあります。
そんなときに、地獄に蓮の花が咲くように、人間としての尊厳の光を見た。
夫が自らの生き様、死に様で見せてくれました。それだけでも感謝しています。
夫の死から30分も経たないうちに、なんと生理が始まりました。
今でも不思議に思う体験です。
亡くなった人への強い想いを抱いているということを、人はもしかしたら不幸と思うかもしれません。
でも実際は、豊かなことです。
亡くなった人のことを思う涙も、すごくあたたかくて、心を癒し、潤す。
それ自体に生き物が住んでいそうなくらい、豊穣の海の水のようです。
さまざまな感情の紆余曲折があったけれど、さみしさとは少し違うところに今私はいます。
胸の中に確かにいる夫の存在を反芻し、その肖像を繰り返しあたためる日々。実はとても貴重で、心豊かな経験をしていると思います。
死とは、ケガレでしょうか。古い、怖い、痛い、忘れるべき、忌むべきものでしょうか。
私の見た死の一部始終は違った。
夫は私に「はばたいて」と言い遺しました。
だからこそ、死が社会の中でどのような意味をもつのか、もっと考えていきたいと思います。
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