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キャンプ

 秋が深まった頃、影郎と左人志さんの三人で隣の市のキャンプ場へ出掛けた。前日まで雨が降っていたが、打って変わっていい天気だった。左人志さんのレオーネ エステートバンで行った。影郎はこの車が好きらしく、左人志さんが買い替える話をすると頻りに反対している。
「まだ乗れるのに、なんで買い替えるの?」
「乗れるゆうても、あっちゃこっちゃ故障してるんだよ。旧車なんだからもう寿命だて」
「今度はどんなのにするんですか」
「グロリアにしようかと思ってるんだけど、スカイラインも棄て難くてねえ」
「ハコスカですか?」
「そうそう」
「あれ、いいですよね。この間、シャンパンゴールドのが走っているのを見ましたよ。たぶん、塗装し直してあるんだと思いますけど」
「ハコスカは時々見るな、ケンメリは見かけんけど」
「ケンメリはぼくも見たことないですね」
 車のことが判らない影郎は黙って窓の外を見ていた。こんな話はつまらないかと訊ねたら、つまらない、と正直に答える。左人志さんが笑って、「なら車見に行く時、おまえもつき合えよ。意見聞いてやるから」と云ったら、ぱっと顔を輝かせると助手席へ身を乗り出し、「ほんと?」と云った。
「木下君が教えてくれたイマイ・オートに来週行くから、都合つけてこいや」
「午間は閑にしてるから、いつでもいいよ」
「ほんなら迎えに行くわ。ちゃんと待っとけや」
 影郎はその言葉に子供のように「うん」と嬉しそうに応えた。ぼくはその様子を微笑ましく眺めていた。兄と弟の関係は、こんなものなのかな、と思っていたが、彼らは従兄弟同士である。こうした関係は、稀有なのかも知れない。
 秋の陽射しが一面に降りそそぎ、車は片田舎の街中を通り抜け、田圃や畑が広がる長閑な風景の中を走って行った。キャンプ場は、それほど遠いところではなく、一時間足らずで着く。飯森オート・キャンプ場というところで、赤い屋根の東屋のようなものが点々とあり、まださほど寒くないから、そこでシュラフを使えば宿泊出来るようになっていた。
 近くには川が流れている。釣り人もちらほら居る。水がとても澄んでいて、街中にしか出掛けないぼくは、近くにこんな場所があるとは知らなかった。左人志さんは頻りにカメラのシャッターを切っている。影郎は車から荷物を降ろし、もう鍋やら何やら並べていた。木立から鳥の啼き声がたまに聞こえてくる。
「紅葉がきれいだな」
「ええ、こんな良い処があるなんて知りませんでした」
「ぼくは大学のサークルの奴らと時々、来たよ」
「そうなんですか。ぼくはサークルに参加していなかったんです。今、思うと、やっておけば良かったと思いますね」
「まあな。好みはどうあれ、ああいうことが出来るのは学生の時分だけだからなあ」
「本当に、今となってはそう思います。社会人になったらあんな学生時代の勢いは、二度と味わえないですからね」
「馬鹿騒ぎしなくても、学生時代のノリってあるもんな。浮ついた奴らはどうか知らんけど、ぼくは山岳部だから、山登りばっかしてたな。山登らんでも、こうしたとこでキャンプしてたわ」
「いいですねえ。キャンプとか、実はやりたいと思ってました」
「こんなことは小さい子でも出来るよ。子供はめっちゃ、おもろがるわ」
「そうでしょうね」
「山登りはな、今どきの子ぉはすぐにあかんようになるらしいわ」
「忍耐力がないんですかね」
「んー、どうかねえ。簡単に行けて、綺麗なとこは幾らでもあるんだけどなあ」
「上高地には行ったことがありますよ」
「あそこはきれいだよな。歩くのもそうしんどくないし」
「結構、疲れました」
「体力ないんだなあ」
「そうですねえ、どちらかというとインドア派なんで」
「……まあ、そんな感じだな。どうした風の吹き廻しでキャンプなんか行く気になったの」
「ああ、影郎の店の近くにアウトドア用品が揃ってる雑貨屋があって、そこを見てたらキャンプしてみたくなって……」
「そんな店があるんか」
「雑貨屋なんで、本格的なものじゃないと思うんですけどね。なんか、女の子が好きそうな」
「ああ、そういうんか。キャンプ用品は実用に堪えるものじゃないといかんよ」
「コールマンのものとかありましたけど」
「彼処のは割と何処にでもあるからな。……影郎は何やってんだ」
 調理器具は左人志さんの飯盒と、影郎が買ったダッチオーブンがあった。薪は管理事務所が無料で提供してくれる。子供に戻ったようにわくわくしてきた。野外で何かをしたことなど、これまで一度もないのだ。左人志さんは手慣れた様子で薪を積み上げており、ぼくは影郎を手伝って水を汲んできたりした。
「なんか愉しいね、こういうの」
「そうだね。やったことなかったけど、子供に戻ったみたいで面白い」
「紘君には向いてないような気がしたけど、楽しめるなら良かった」
「影郎はこういうこと好きなの?」
「庭でバーベキューはよくしたよ」
「ああ、結構広いもんね」
「紘君、サングラス掛けると別人みたい」
「運転するのに眩しかったんで……」
「度が入ってるの?」
「入ってないよ、目は悪くないから」
「貸して」
「……有り得ないほど似合わない」
「ひどーい」
 本当に似合っていなかったのではっきり云ってしまったが、思った以上に影郎はショックを受けていた。どうしたものかと思っていたら、
「ちょっと休んでビールでも飲もか」
 と、タイミングよく左人志さんが声を掛けてきた。救われたようにぼくは、
「あ、いいですね」
 と、返事をしていた。
 秋の爽やかな空気の中で飲むビールは格別だった。ビールは夏が一番似合うと思っていたが、この日飲んだ味を超えるものはない。影郎が作ってきた鮭のオイル漬けと胡瓜の浅漬けを摘みながら、どうでもいいようなことを語り合った。
「此処、魚釣れるんですか」
「釣れるよ。でも、かかるのはブラックバスやブルーギルばっかだけどな」
「最近、何処でもそうみたいですね」
「食べられるの?」
「普通は放しちゃうけど、喰えるよ」
「食べられるんですか」
「うん。食べたことはないけど、なんかの番組で焼いて喰ってた」
「美味しいのかな」
「ブルーギルは兎も角、ブラックバスは鱸と同じ種類だから旨いんじゃないか」
「鱸って食べたことない」
「あんまり売ってないからねえ」
 影郎は魚料理の話をした。子供の頃は可哀想で捌けなかったが、最近平気でやれるようになったのは、感覚が麻痺してきたのだろうか、冷酷な人間になってしまったのだろうかと。彼は小心者という訳ではないが、実に心優しい人間で、蟲すら殺すのを嫌った。
 幼なじみの甘利さんが子供の頃飼っていた蛇にやる為に頼まれて獲ってきた蛙を、可哀想に思いこっそり家に持ち帰り飼ったけれども死んでしまい、庭に墓を作り毎日花を供えてお経を唱えてやっていたそうだ。ぼくがはじめて家を訪れた時も、その墓に手を合わせていた。
 ふたりで暮らすようになってすぐに猫を飼うようになったが、舐めるように可愛がっていた。猫の方も彼のあとをついて廻り、いつも一緒に居た。
「そういや、釣りの好きな奴がアマゾンまで行ったなあ」
「アマゾンまで釣りをしに?」
「そう。なんか開高健のエッセイに影響受けて」
「それ知ってる、『オーパ!』っていうの」
「おまえ、本なんか読むんか」
「それは写真が多かったし、現地のことが詳しく書いてあって面白かったから。ピラニアが鰐食べた写真が載ってた」
「どんなの?」
「お腹開いた鰐を川に浮かべといたんだったかな? 沈めたんだったかなあ。兎に角、三十分くらいで寄って集って食べちゃったみたい」
「恐いねえ」
 身振り手振りを交えて喋る影郎は子供のようで、好奇心一杯の目をきらきらさせている。ぼくはもう、あんな眼差しは出来ないだろう。少し彼が羨ましかった。
「まあ、アマゾンは魚が豊富で入れ喰いらしいわ。スプーンでも釣れるらしい」
「スプーンで?」
「それも書いてあったよ。川沿いに住んでる主婦が晩ご飯にするんで、スプーンをルアー代わりにして釣るんだって」
「凄いねえ。玄関先で食料調達出来ちゃうのか」
「そういえば、食材は何を持ってきたんだ?」
「鶏肉と玉葱とトマトの缶詰と……」
「何を作るの」
「鶏肉のカチャトーラ風煮込み」
「なんじゃ、そら」

鶏肉のカチャトーラ風煮込み
 玉葱はみじん切りと輪切りにする。
 パプリカは縦に六等分にする。
 鶏肉に塩胡椒をして暫く置く。
 ダッチオーブンを火にかけ、みじん切りの大蒜と玉葱の輪切り、パプリカを炒め、一端皿に取る。
 玉葱のみじん切りを炒め、透明になったらトマトソースを加え、そこへ更に水も加える。
 煮立ったら塩胡椒、オレガノ、コンソメを入れ、鶏肉と炒めた野菜を加え、蓋をして十五分ほど煮込む。

 鶏肉を取り分け、ホイル焼きにした空豆でビールを飲む。影郎は午に飲んだので、ウーロン茶を飲んでいた。彼は酒に弱いのだ。そうでなくてもすぐ仆れるから飲ませる訳にはいかない。他のキャンプ客の笑い声が聞こえる。酔っているのだろう。
 影郎が車に積んであったギターを持ってきて爪弾きだした。すると、若者がビールを片手に「上手いですね」と話し掛けてきた。影郎は笑って、たいしたことないよ、と云っていた。
 リクエストされた曲を弾いているうちに、その青年の友人達もやって来て、皆で歌を唄いだした。爽やかな秋の宵、冴え冴えとした月明かりの中、調子外れの酔った唄い声が川面を滑ってゆく。
 ランタンの朧な灯火でシュラフに体をもぐり込ませ、夜遅くまで三人で喋っていた。それは学生時代の合宿のようで、心騒ぐ気分を十数年振りに感じた。左人志さんはぼくよりひとつ年上で、影郎はみっつ下である。
 大した違いに思えないけれども、経験した環境から、出来事に対する反応や、そもそも感情の発露すら違うような気がする。

     +

 朝は少し肌寒かった。影郎のシュラフは空っぽで、探しに行ったら川縁にしゃがんで、何かをじっと見ている。その後ろ姿がふと、景色に紛れて消え入るように思えた。
 それが何か途轍もなく恐ろしく感じられ、体が硬直してしまいそうなほどだった。しかし、現実的に体が鉛に変化するでもなく、意志の力で行動に移すことが出来る。出来なかったらすぐさま救急車を呼び、適切な処置を施してもらわなくてはならない。
「影郎、何してるの?」
「あ、起きたの」
「ちょっと寒いね」
「もう十月だから」
「川の傍だっていうのもあるんじゃないかな」
「水の流れって、なんか恐い」
「そうかな。なんで?」
「あとからあとから絶え間なく流れてきて、何処かへ行っちゃう」
「海へ流れ込んで生命の源になるんだから、恐くなんかないよ」
 ぼくの言葉を聞いているのか聞いていないのか、影郎は身を竦めるようにしゃがんだまま、川の水面を眺めていた。
 朝食はバゲットに昨日の残りの鶏肉と卵の薫製を食べた。卵の薫製は影郎がダッチオーブンを買ってきた時に作ったものである。そんなものが家で出来るのかと思ったが、茶殻とアルミホイルを使い、簡単に作ってしまった。日本茶はぼくの実家が静岡なので、掃いて捨てるほどあるのだ。
「これ、影郎が作ったんですよ」
「薫製なんて家で作れるんか」
「このダッチオーブンで作った」
「はあ、おまえはなんでも作るなあ」
「簡単だよ」
「まあ、時間掛ければなんでも作れるけどな。サークルの奴がソーセージ作ってたし」
「ソーセージも作ってみたいんだよね」
「そうなんでもかんでも作らんでええて、ふたり暮らしなんだし。売ってるもんは買って済ませ」
「売ってるのは塩分多いし、添加物も多いじゃん」
「喰うたところで死ぬことはないじゃろがい」
「溜まり溜まれば、死んじゃうかも知れないよ」
「そうそう死なんわ」

     +

 影郎が居なくなって同じ秋、左人志さんと連れ立ってキャンプ場を訪れた。安価で利用出来るそこは、家族連れや学生らしき若者で賑わっている。去年、此処でぼくらもああして楽しんでいたのだ。影郎は本当に愉しそうにしていた。色んだ落ち葉をぼくの頭にかけたりして、笑っていた。
「懐かしいのう。ちゅうても、去年の話か」
「なんだか、もの凄く昔の気がしますね」
「そうじゃのう。もう、記憶の遥か彼方にあるような感じやわ」
「あの時、本当に愉しそうにしていましたね」
「あいつはどんなことでも喜ぶ奴じゃったでのう」
「そうですね」
 川の流れがさらさらと聞こえてくる。子供がはしゃぐ声や、酒に酔った大人たちの高い話し声が耳に響く。去年のこの季節、ぼくらも同じようになんでもない話をして、笑い合っていた。それが遠い昔のことように思えるのは、悲しみが薄らいだということなのだろうか。
 それは影郎がどんどん記憶の中に仕舞い込まれ、過去のものになってしまい、アルバムの写真のように、たまに眺めて思い出すだけの存在になるということなのだろうか。いつかは他人事のように、何処かで見た記憶のように、ただ懐かしいだけの事柄になってしまうのだろうか。
 そんな風にはしたくない。
「こないだ、木下君が来たんだわ」
「そうなんですか」
「葬式の時にちょっとおかしな奴に絡まれてのう、あの子が追っ払ってくれたんじゃけえど……」
「そんなことがあったんですか」
「ああ、なんか目つきの悪い三十代半ばくらいの奴じゃったがの。木下君、凄むとえろう恐えな」
「彼、巫山戯たこと云ったりしなければ、あの顔ですからね」
「優男じゃけぇど、あんな恐そうな奴相手に啖呵切って、消え失せろとか云うちょったわ」
「影郎の知り合いなんですよね」
「そうじゃろうな。まったく、あいつはどんなつき合いしとったんじゃろうのう」
「ぼくと暮らしてる間は、ほんとに真面目でしたよ」
「君のお陰やわ。あいつの親も感謝ちょったで」
「何もしていませんよ」
「あの子も君に出会えて、幸せやった思うわ」
「だったらいいんですけどね」
 影郎は二十七年の短い人生の中で、何を感じとっていたのだろうか。子供のように無邪気でひとを疑うこともせず、たくさんの友人に囲まれていた。それなのに、ぼくと暮らしている間は殆どの時間を家で過ごしていた。猫と遊び、台所で料理を作り、ソファーに座ってぼくと映画を観た。
 店に送ってゆくと、帰って慾しくなさそうな素振りをするので、よく開店するまでコーヒーを飲んでお喋りをした。カウンターのスツールに並んで腰を掛け、ひとの噂話に花を咲かせることもなく、店のことやぼくの職場のこと、最近あったことなど、取り留めもない話をしたものである。
 ぼくは彼にあまり質問をしなかった。もっと色んなことを訊ねれば良かった。たくさん質問をして、どんなことが好きなのか、何をしたいのか、何処へ行きたいのか、それを聞いて叶えてやりたかった。あんなに早く死んでしまうのなら、どれだけ金が掛かっても好きなことをさせてやれば良かった。
 後悔だけが押し寄せる。
 夢の中で訊いてみる。何がしたかったのか、何が好きだったのか、何を求めていたのか——満足していたのか。
 彼は、いいことばっかだったよ、何も不満はなかったよ、愉しかったよと云う。
 そうなのだろうか。生きていれば厭なことなど幾らでもある。やりたいこともやれない。好ましくない出来事に遭遇する。それでも彼は、仕合せだったと云う。自分もそう生きるべきだと思った。

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