日本のうた。
幼い頃から音楽に親しんでいる。父親がクラシック音楽が好きで、勤め人の傍らクラシック・ギター教室なるものを開いていた。わたし自身、ピアノやギターを習ったりした。
が、どちらも長続きしなかった。
ピアノの方は、名古屋に住んでいる時の先生は良かったのだが、引っ越し先の教師が性悪で、その厭味な教え方に音を上げ、ギターをやるから辞めさせてくれと頼み込んだ。
が、父は教師としては最低の人間であった。
ギターは好きだったが、それは父が弾く『禁じられた遊び』や『アルハンブラの思い出』であり、スケールや童謡ではない。
そう、父は自分でアレンジした(アレンジなどと謂うほどものではない)童謡を練習曲にしたのである。
一日三十分スケール(ドレミファソラシドをひたすら一定のリズムで弾く)、課題の童謡を三十分弾く。
飽きる。
『カラスの子』
みーみれみー、みれどれどー、ベン(親指で弾くベース音)、みれみれみみそー、べんべん。
面白い訳あらすか。
普通のギター練習曲はそこそこに弾き甲斐がある。それを教えんかい。
一年で辞めた。ど叱られた。
だが、童謡は好きだ。これで嫌ったら逆恨みと謂うものであろう。
しかし、日本の童謡は陰湿で暗いものが多い。
『カナリヤ』などは、SMの世界である。 作詞は童謡を能く書いた西条八十。
歌を忘れたカナリヤは
うしろの山にすてましょか(棄てるのかよ)
いえいえそれは
なりませぬ(当たり前だ)
歌を忘れたカナリヤは
せどのこやぶにうめましょか(埋めるのかい)
いえいえそれは
なりませぬ
歌を忘れたカナリヤは
柳のむちでぶちましょか(おまえ、サディストだろ)
いえいえそれは
なりませぬ
歌を忘れたカナリヤは(転調)
ぞうげの船に銀のかい
月夜の海に浮かべれば
忘れた歌を思い出す(流石にな)
一番好きだったのは、北原白秋作詞の、『この道』。
この道はいつか来た道
ああ そうだよ
アカシヤの花が咲いている
あの丘はいつか見た丘
ああ そうだよ
ほら 白い時計台だよ
この道はいつか来た道
ああ そうだよ
おかあさまと馬車で行ったよ
あの雲はいつか見た雲
ああ そうだよ
さんざしの枝もたれてる
これで「アカシア」という言葉が刷り込まれてしまったわたしは、西田佐知子の『アカシアの雨がやむ時』まで好きになってしまった。これも実に暗い。
アカシアの雨にうたれて
このまま死んでしまいたい(何があったのだ)
夜が明ける 日がのぼる
朝の光のその中で
冷たくなったわたしを見つけて(本気で死んだのか)
あの人は
涙を流してくれるでしょうか(いや、普通に驚くだろう)
アカシアの雨に泣いてる
切ない胸は判るまい(判らぬな)
思い出のペンダント
白い真珠のこの肌で
淋しく今日もあたためてるのに
あの人は
冷たい瞳をして どこかへ消えた(そんな男のことは忘れろ)
アカシアの雨がやむとき
青空さして鳩がとぶ(ロート製薬のコマーシャルかい)
むらさきの羽の色
それはベンチの片隅で冷たくなった
わたしのぬけがら(いつの間にホームがレスになったのだ)
あの人をさがして
遥かに 飛び立つ影よ(いい加減諦めろ)
これを結婚する前、連れ合いをマッサージする際に唄ったら、「なにその歌」と云われた。若干世代が違うので、知らなかったらしい。わたしが好む童謡も知らないものが多い。年下の者とつき合うのは少々難儀である。
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