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うつくしい部屋。

「にはか」俄。——急に変化が現れたり、動作をする様。にわか狂言の略。
「グリード」Greed ——貪慾。慾張り。キリスト教に於ける七つの大罪の裡のひとつ。
「断捨離」——沖正弘が提唱した、ヨガの思想。やまでらひでこが提唱する、不要なものを減らし、生活に調和をもたらそうとする思想のこと。

 部屋が乱雑で手に負えない状態から脱却しようとするだけで、こんなに宗教的な言葉に、いちいち引っかかる(にわかは違うか)。ものを片づける為に、洗礼を受けねばならぬのか。そんなことはあるまい。何がしかの宗教に入信せずとも、散らかったものくらいは片づけられる筈だ。
 とはいえ、わたしは筋金入りの面倒くさがり&だらしなキング。明治男張りに、横のものを縦にもしない。無論、縦にしてくれる者は居ない。依って、我が部屋は散らかりに散らかり、足の踏み場もなく、必要以上に毛を撒き散らかすの猫の為に、目を覆うような有様となっていた。
 それでも、特に苦にもならなかったのが不思議のアッコちゃんである。困ったのは、部屋にひとを招き入れられない。問題はこの一点だけで、招き入れたい人間などひとりも居ないので、なんの不自由もないのだ。
 いや、不自由はあった。
 我が家は水周りに支障が多々あるのだ。風呂場、流し台、便所。二箇所は直してもらったが、一度に三箇所の修理を要請したところ、高齢である大家はふたつしか履行してくれなかった。みっつでは許容量を超えてしまったらしい。
 修理してもらうには当然、修理人を部屋に招き入れねばならない。無理だ。汚すぎる。
 という訳で、流し場は洗剤の泡で常に詰まり、スッポンが欠かせず、ウオシュレットは元旦に機能不全になったまま、忍の一字で過ごしているのだ。やりきれない。自分が悪いのだが。
 そして、コロナの自宅待機である。一ヶ月、家に居た。その裡、三週間はほぼ、寝たきりに近い状態であった。寝床にずり込んで、ただひたすら本を読んでいた。その数、百二十三冊。我ながら呆れ返る。
 幾らなんでもこれではいけない、と我に返ったのが、職場復帰が出来る通知が来てからである。他者からのアクションがなければ、恐らくひと月でもふた月でも、それこそ半年でも、寝たきりの状態でいたであろう。
 底なしのぐうたら者なのだ。
 世間で話題のシンプルライフ、断捨離には興味津々で、実践しようともした。したけれども、部屋は汚いままだった。何故か。
 ものが多いからである。
 ドラマや映画を演出する際、貧乏人の部屋はものを多く、狭い場所に乱雑に配置するという。我が家がまさにそれである。金が潤沢にある訳でもないのにコレクター気質で、実用するでもないものを買い漁り、集めまくる。
 写真を撮るのが好きなので、その被写体として玩具などを買い漁る。しかしそのものに対して愛着がある訳ではなく、一度カメラに収めてしまえば用はない。ものに対して、非常に不遜というか、罰当たりな態度であった。
 衣服に関しても並々ならぬ執着を示し、それでも懐に合わせざるを得ないので、安物衣料を次々と購い、飽きたら捨てる(古着屋に売る)のを繰り返していた。
 これはもう、『病』である。『セブン』の登場人物であったならば、惨殺されていたであろう。
 で、コロナ禍に於ける自宅待機の最後の数日。ほぼ寝たきりで気力もなく、体力もなくなっていたわたしが、営業再開のメールを見て始動した。エネルギーを注入された、という目覚ましい変化ではなく、昼夜逆転した状態を逆手に取り、わざと眠らず、部屋の片づけを強行したのだ。
 まづは、夥しい量の本を纏めることにした。貧乏なので、文庫本しかない、ということもなく、趣味で集めた料理本が結構ある。どうしても残したい、もう一度読みたい本を厳選し、残りは紐で括り、ゴミとして廃棄した。
 次に多いのがDVDである。大半が実家にあるのだが、こちらにも結構ある。洋画はもう、所有しているものがマニアックすぎて、字幕を見る気力も時間もなく、観ていないものだろうが観たいと未練が残るものでも、すべて心を鬼にして纏める。邦画も一度観たらボックスだろうが限定版だろうが、「ほかる箱」へ突っ込んだ。
 衣服に関しては高価なものがないので、去年からこちら着なかったものを、がっしがっしとゴミ袋へ詰めた。そして、躊躇なく捨てた。
 基本として、本、雑誌、衣類は、ゴミとして捨てる。DVDはブックオフやGEOへ持って行き、買い取ってもらった。自宅に来てくれる買取サービスもあるようだが、我が家は異様に汚い。段ボールを広げる場所も、それを持って行ってもらうひとを迎えることも出来ない。
 いや、出来るだろうが、僅かに残ったわたしの羞恥心がブレーキを掛けるのだ。

 それで我が部屋がどうなったかというと、足の踏み場は出来た。猫も喜んでいる(ようだ)。
 しかし、まだ捨てられるものがある。けれども、気力が尽きた。その上、自宅待機が解けて、出勤するようになったのだ。こうなると、部屋が汚かろうが、ものが多かろうが、そんなことはどうでもよくなる。気にならない訳ではないが、自宅に覚醒した状態で滞在する時間は短い。手間を掛けるくらいなら、障害物を避けて動き廻れるならいいではないか、と思えるのだ。
 そんなものは、傍にどければよかろう。ごちゃごちゃものがあったからといって、自分がよしとすれば、それでいいじゃないか。ここに誰が来るというのだ。
 これだ。
 部屋をきれいに保つのに一番の条件は、
『客人が来るかどうか』
 なのである。羞恥心が発達したひとならば、宅配便のにいちゃんの目ですら、気にするであろう。いや、わたしも気になったが、一瞬のことだし他人だからいいやと、開き直っていたのだ。
 これがいけない。
 自分のことはよく見えない。部屋も然り。
 ワンルームの部屋ならば、ベランダへ出て窓から見てみるといいそうな。我が家の場合、平屋でベランダがなく、客観的に見るには玄関の引き戸を開け広げ、宅配便のにいちゃん目線で見なければならない。そうして見たら、
 くそきたねえ。
 うちに来る黒い猫のひとは、にいちゃんではなくおっちゃんであるが、このような惨状を見せていたのかと思うと恥じ入るばかりである。というか、汚いことは自覚しているので、玄関の引き戸を5センチほど開けて応対していた。
 そんなことでどうなろうか。この汚さは、5センチだろうが10センチだろうが、一瞬で相手の視界に映り込む。よく判らないなりにも『くそきたねえ』という情報は、その脳裏にはっきり刻まれるに違いない。
 パーフェクト汚部屋である。こんなパーフェクトは勘弁して慾しい。自分でやっているのだが。


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