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君のための追走曲

 夕方、警察から電話があった。
「草場影郎という男性に心当たりはありますか」
「ええ、従兄弟です」
「その方が事故に巻き込まれましたので、病院まで来て頂けないでしょうか」
 事故に巻き込まれたとは——影郎は車にもバイクにも乗らない。怪我でもしたのだろうと退社してから告げられた病院へ行った。受附で名前を告げると、暫くしてふたりの警察官がやって来た。
「遊木谷左人志さん……、従兄弟の方ですね。此方へいらして下さい」
 後に従うと、病室などなさそうな冷え冷えとした地階へ案内された。ひとりが開けた扉の先は霊安室であった。何故死んだのだと云わなかったのだろう。はっきり云ってもらった方が心の準備が出来るものだろうに。
 影郎らしき遺体には、白い布がすっぽり被せられている。
 車に撥ねられたと説明されたが、布が取り除けられた時、その言葉は正確ではなかったことが判った。影郎は、轢き潰されていた。見る影もない。塵芥屑同然になっていたのだ。
 遺体の確認をしてくれと云われても、顔の判別も出来ないのに、どうしろというのだろうか。

 ぼく以外にも、携帯電話のアドレス順に片っ端から連絡をしたらしく、影郎の幼なじみである甘利から電話があり、正確なことは伝えずに切った。一緒に暮らしていた草村紘は、青い顔をして駆けつけてきた。
「影郎は? 何があったんですか、無事なんですか」
「まあ、落ち着きぃて。そう焦らんでもええわ」
「たいしたことないんですか」
 彼は少し安堵の表情を見せた。本当のことを云うのは憚られたが、黙っている訳にもいかない。
「トラックに撥ねられたらしゅうてな、死んでもうたわ」
 意味が判らない、といった顔をして、草村君は「は?」と云った。
「影郎な、死んでまったんじゃ。お陀仏やわ」
「嘘でしょ」
「嘘や冗談でこんなこと云えるかいな。影郎は死んでまった。もう生きとらへん」
 彼は言葉に詰まり、拳を握りしめ、悔しそうに俯いた。暫くして顔を上げ、遺体に会えますか、と掠れた声で云った。
「見ん方がええ」
「……なんで」
「ぐちゃぐちゃや。飯が喉通らんくなるで」
 それでもいいと云うので、警察官に断って地下の霊安室へ連れて行った。言葉もなく彼は、影郎の遺体を見つめ、長く立ち竦んでいた。此方もなんと声を掛けていいか判らず、黙って突っ立っていた。
 甘利がやって来て、草村君に云ったように伝えたら、彼は影郎の遺体には対面せず帰って行った。更に遅れて、草村君の同僚である木下亮二もやって来た。
「カゲローが事故に遭ったって電話があったんですけど、草村さんが行くって云うからふたりは抜けられなくて……。どうなんですか、無事なんですか」
「無事と違うんやわ。もう、どうにもならへん」
「……死んだんですか」
「せや」
 会えますか、と訊いてくるのでやはり同じように説明したが、彼は甘利とは違って遺体に対面した。優男のような面構えに似合わず、表情を強張らせはしたが、影郎の姿を身じろぎもせず、じっと見つめていた。
「草村さんは?」
「立っておられんほどやったで、一旦返した」
「遊木谷さんも顔色悪いですよ。ぼく、今夜は体空けてあるんで帰って下さい。何かあったら連絡しますから」
「いや、ええよ。そんな迷惑掛けられへんし、君もひとり暮らししとるんちゃうんやで」
 そう云っても彼は譲らず、警官に事情を話すと、今のところ病院では用がないので帰宅してもいいと云われた。

「遊木谷さん、相当動揺してますね」
「そらこんなことがあったらな。でも、なんで?」
「方言、丸出しだから」
 意識していなかった。
「カゲローが草村さんとそんなに親しかったとは知らなかったんで吃驚したんですけど、いつからなんですか」
「親しなったのがいつからかは知らんけど、去年から一緒に暮らしとったよ」
「一緒に」
「此処、出てってな」
「知りませんでした」
「君には内緒にしちょったでのう」
「云い難いようなつき合いだったんですか?」
「そうやないじゃろ。そんなんやったら堂々と出てかん筈やし」
「まあ、草村さんもそういうひとじゃありませんからね……」
 木下君は晩飯の支度をしてくれ、その間にぼくは影郎の親に連絡をした。彼の両親は父親の仕事の都合で中国に居たのである。母親が出て事情を話すと、声を詰まらせ泣いているようだった。父親が電話を代わり、もう一度同じことを繰り返したら、さすがは男だけあり、強張った声で「判った、明日の便で帰国する」と云った。
 飯は砂を噛むようで、作ってくれた木下君に悪いとは思ったが、殆ど食べられなかった。その晩、木下君はうちに泊まってゆき、翌日、何かあったら電話して下さいと云い残し、帰って行った。その後、葬儀屋などに電話をし、葬式の手配をした。
 影郎のもの云わぬ体が数ヶ月振りに草場の家に戻ってきたのは、その日の夕方だった。どのようにもならない姿なので布を外す訳にはいかず、こうしたことには慣れている筈の葬儀屋すら目を背けるようにしていた。
「棺の釘は葬儀の際に打つのが慣例なのですが、どうしましょうか」
「今、打って下さい。何かの弾みで蓋が落ちるかも知れませんから」
 判りました、と云って、葬儀屋の男は黒い石で釘を一本一本打ちつけていった。その硬い音を聞いて、もう、影郎には会えないのだと実感した。
 彼の両親は、夜遅く家へ来た。影郎の姿を見ることが出来ないと判ると、ふたりとも泣き崩れた。何を云っていいものやら判らず、草村君の時と同じようにただ黙っていた。ぼくは余りにも無力な存在だ。
 何も出来ない、何も云えない。

 葬儀に参列したのは親戚以外は影郎の友人たちだったが、思いのほか少なかった。彼が十七の頃、ぼくのバイクから落ちて大怪我をしたことを思い出した。あの時も、甘利以外の者は誰ひとりとして見舞いに来なかった。その頃はまだ、草村君とも木下君とも交流がなかったのである。
 草村君は無表情で俯いており、木下君はそんな彼を支えるようにして立っていた。
 荼毘にふされた影郎の骨を、彼の両親とぼくの両親、葬儀屋の六人で足元から順に骨壺へ入れていった。こうなってしまうと、人間といえども魚や獣と変わらないのだと思えた。肉がなくなれば、ただの骨だったのである。その持ち主が何を考え、何をしたのか、骨は何も語らない。影郎は消えてなくなったのである。
 葬儀から数日後、彼の両親が中国に戻り、ぼくの生活もやっと元に戻って来た頃、草村君が家を訪ねてきた。少し窶れ、やはり青白い顔をしている。
「どう、気持ちは落ち着いてきた?」
「いえ、まだ整理がつかなくて……」
「何を思うたかて、死んだもんが帰ってくる訳やないんじゃけえ、あれこれ考えてもしゃあないよ」
 草村君は、それは判っているんですけど、と云って口籠ってしまった。一年にも満たない期間とはいえ、寝食を共にした人間が居なくなって仕舞ったのである。通常に戻れと云うのは酷であろう。
「あいつのもんはどないする? なんやったら取りに行くよ」
「いえ、いいです。今はそんな気分になれませんが、此方で処分するなりなんなりしますから」
「猫はどないしとるの」
「影郎が作ったごはんがあるうちは良かったんですが、既成のキャットフードをなかなか食べてくれなくて……。今は食べるようになったんですけど」
「そんなもんまで作っとったんか」
「はい。あおを本当に可愛がっていて、猫もそれなりに彼が居ないことが判るようで元気がないです」
「獣でも判るんやな……」
「ええ、影郎が使っていた枕の上で、いつも丸くなっています」
「思い出しちょるんかのう」
「そうでしょうね。ぼくも部屋にひとりで居ると、店に出てるのかとか、何処かへ行ってるのかと思って電話を取り上げたりするんですよ。何やってるんだ、って思った後に、もの凄く悲しくなってくるんです」
「まあ、それもそのうち慣れるて。ぼくもあの子が此処出てった時、よく台所や庭へ探しに行ったよ」
「前の晩、やけに甘えてきたんですよ。あれは蟲の知らせだったんですかね」
「そうやったんか。そうゆうこともあるかも知らんな」
「帰ってから店に行く約束をしていたんです。早く来てくれって云われてて、そんなことは一度もなかったからどうしたんだろうって思ってたら、あんなことになって……」
「変なこと訊くみたいじゃけえど、君と影郎は、ほんまにただの友達やったの?」
「そうですよ。あんな性格だから自分の感情をそのまま出して——そこが可愛くて、弟みたいに接していましたけど、ただの友達でした」
「そおやな、影郎は子供みたいな子ぉじゃったけえのう。でも自分のことは二の次で、ひとのことばっか気にしとったなあ」
「ええ、紘君はどうする? どうしたい? って訊いてばかりいました。よく考えてみると、影郎が何をしたかったのか、何が好きだったのか、まったく知らないんですよ。自分のことは何も云わなかったから」
「ぼくにもそうじゃったよ。此処出てく時も、ぼくのことばっか気にして謝っとったわ」
「いい子でしたね」
「生きとる時は気づかんかったけど、こうゆうのが後悔先に立たず云うんかなあ」
「そうですね、もっと彼のことを判ってあげればよかったって思います」
 草村君の云う通りだった。ぼくも影郎のことは何も知らなかったのである。判ろうともしなかった。誰も、彼のことを判ろうとしなかったのかも知れない。いつも笑って、愉しげにしていて、悩みも何もないような顔をしていた。それをそのまま信じて、疑うことすらしなかった。
 何故、彼はひとに判ってもらおうとしなかったのだろうか。他人を排斥するような人間ではなかった。ひとと接することを求め、ひとの中に居ることを何より好んだ。それは、彼の孤独が成せる業だったのかも知れない。だがもう、それを知ることは出来ない。訊くことは出来ない。影郎は何も云わず、何も残さずあの世へ行って仕舞ったのだ。
 残された者は、形のない面影に縋って生きてゆくしかない。その面影も、いずれ風化してなくなってしまうだろう。なくなってくれなくては生きてゆけない。死んだ者に囚われて前に進まないでいる訳にはいかないのだ。
 忘れることはないだろう。だがその感情は時と共に変化し、いつか笑って話せるようになる。草村君もそのうち、軽い会話の中で影郎のことを話せるようになる筈だ。話題にすらしないかも知れない。忘れないでくれと頼む訳にはいかない。忘れた方がいい。振り返っても仕方がない。後ろを向いたまま歩いてゆく訳にはいかないのだ。
 死んでしまった者は消滅したのだと考えねばならない。これをしたらどう思われるだろうかと考える必要はない。居なくなった人間の考えを忖度する必要はないのだ。
 死人は思考しない。生きてゆく人間は、悩み、喜び、悲しむ。そういった感情が沸き上がるのを感謝せねばならないのである。その感情を味わうことが出来なくなった者の分まで。
 嘆き悲しんでも、死んだ人間が帰ってくる訳ではない。何をしようと彼にをしようと、自分で自分を支えてゆくしかないのである。
 影郎はもう、居ないのだ。

 海に連れてゆくと、ズボンを捲り上げ、波打ち際を駆けていた。はしゃいで声をあげ、ぼくの名を呼んだ。夕日を見つめて淋しそうにしていた。
 いつも無邪気に笑っていた。
「左人志、ご飯出来たよ」
「左人志は何が好き?」
「左人志はどれがいい?」
「左人志」
「左人志」

「左人志」

 もう、その声を聞くことは出来ない。その笑顔を見ることもない。


 ゆるやかな曲線が
 赤い月を横切り海の果てへ消えてゆく
 何もかも過ぎ去ったことと
 持ち去られた鞄の中のものを
 思い出そうとするが
 記憶は取り留めがなく
 指先をすり抜けてゆく
 誰かがぼくを立ち上がらせ
 ぼくを揺さぶり
 何かを云おうとしても
 耳が塞がれて何も聞こえない
 目の前の道は
 曲がりくねるばかりで
 何処へも辿り着かない
 夢の軌跡を
 なぞるように
 放物線を描く
 青いボールを追いかけて行った
 その後ろ姿を
 ぼくはいつまでも見つめていた
 もう戻ってこない
 時間を
 手繰り寄せ
 手繰り寄せ
 大事に抱え込んで
 仕舞い込んで
 誰にも見せずに
 発酵するまで
 取って置いたら
 何かが変わるだろうか
 何かに変わるだろうか
 いつかの約束は
 マッチの炎で焼き尽くされた
 黒い灰だけが残り
 ぼくの手は青く光りだす

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