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くらくら

 台所で物音がしたので行ってみたら、影郎が仆れていた。慌てて揺り起こしたが、意識は戻らない。板の間に横たえて置く訳にはいかないので、引き摺って居間の方へ移動させた。十五分ほど経って漸く、彼の意識は戻った。
「もう大丈夫?」
「うん、平気」
「ずっと仆れなかったのに、このところまた仆れるようになったね。ちゃんと医者に行ってるの」
「行ってるよ、一週間おきに」
「先生はなんて云ってる?」
「最近は赤血球の数も増えたし、ヘモグロビンの数値も標準に近くなったから大丈夫なんじゃないかって」
「なんで仆れるのかな」
「先生も判らないって云ってた」
 医者が判らないということは、病名をつけるほどの症状ではないのだろう。左人志さんからも、仆れるからといって何がどうという訳ではないからそんなに心配する必要はないと云われていたが、頻繁だと気に掛けずにはいられない。
「兎に角、仆れそうになったら何かを摑むとか凭れるとかしなよ。いきなりばたんと仆れて、打ちどころが悪かったらどうするの」
「凄いたんこぶが出来たことはあるけど」
「でしょ。それくらいで済めばいいけど、外で仆れたら何が起こるか判らないよ」
「今まで何もなかったけどなあ」
「今までとこれからは違うって。危機管理はちゃんとしないと」
「判った」
「左人志さんの気持ちが判るような気がしてきた」
「どんな気持ち?」
「保護者になったような気分」
「そんな気分にならなくていいよ」
「だったらもっとしっかりしてよ」
「しっかりしてないかな」
「してない」
「はっきり云うなあ」
「しょうがないじゃん。どっか打ったりしなかった?」
「んー、何処も痛くない」
「今日は店に行っちゃ駄目だよ、休んでもいいんだよね」
「別にそれは自分の店だからなんとでもなるけど」
「じゃあ、おとなしく家に居なさい」
「判りました」
「なんか不真面目だなあ」
「不真面目じゃないよ、心配してくれるひとにそんな風にする訳ないじゃん」
「まあ、いいや。少し横になってなよ。立てる?」
「大丈夫だよ」
「ぼくの力じゃ持ち上げたり出来ないから、仆れる時はベッドの上で仆れて慾しい」
「そんな都合よく出来ないよ」
「出来なくてもやって」

 インターネットで調べると、貧血というのは病気ではなく、血液が薄くなって末梢血のヘモグロビン濃度が基準を下廻った状態を指すらしい。医者が判らないと云うくらいなのだから、骨髄に異常があったり白血病の可能性はないのだろう。
「影郎、これ飲んで」
「ココア?」
「ミネラルが豊富だから貧血にもいいんだって」
「調べたの?」
「うん。蜂蜜もいいって書いてあったから入れた。他にも蜆や浅蜊もいいし、パセリも鉄分が多いって」
「ココアと蜂蜜ってあんまり合わないような……」
「文句云わないの」
「はい」
「返事だけはいいね」
「それ、よく云われる」
「アサイーって飲みものもいいらしいけど、知ってる?」
「うん、スーパーに売ってる。スーパーフードだから結構、高いけど」
「値段のことは気にしなくていいから、今度行ったら買って来なよ」
「じゃあ、アサイーと蜆と蛤買ってくる」
「パセリもね」
「パセリは冷凍してあるよ」
「冷凍するもんなの?」
「保存する野菜は殆ど冷凍するよ。パセリは冷凍すると手で粉々に出来るから便利なんだ」
「へえ。でもパセリって、そんなにたくさん食べられないよね」
「まあそうだけど、天麩羅にすると美味しいよ。でも揚げると香りの成分が飛んじゃうのかな」
「それは調べてみないと判らないなあ」
「摺潰してバジルソースみたいにしてもいいかな」
「ああ、油と一緒だと体内に吸収され易くなるみたい」
「随分調べたんだね」
「ひとつのところにまとめて書いてあったんだよ。あれこれ調べたりするんだから、自分に関することも調べなきゃ」
「自分のことはよく判らないから」
「仆れることは判ってるでしょ」
「調べようとは思わなかった」
「もっと自分を大切にしなさい」
「はい」
「貧血のひとは頭痛がしたり吐き気がしたりするらしいけど、そういうことはない?」
「ないよ」
「まだいい方か……」
「体が弱い訳じゃないんだから、そんなに心配しなくてもいいって」
「晩ご飯は作らなくていいよ、台所に立ってまた仆れたりするといけないし」
「何、食べるの?」
「出前取ればいいんじゃないかな」
「だったら垣井原がいいな」
「ああ、あの高級宅配の……」
「おれが払うから」
「いいよ、食費が安くなって助かってるから。何が食べたい?」
「なんか珍しそうなの」
「判った」

 電話で注文してから一時間ほどで料理は届いた。宅配のものにしては随分重いと思ったら、食器のすべてが陶器だった。それらを入れてある重箱も、立派な輪島塗である。さすが高級宅配は違う。
「高いだけあって上品な料理だねえ」
「宅配なのに器も凝ってるね。料亭みたい」
「ああ、左人志さんが御馳走してくれた『なだ万』みたいだね」
「左人志があの後デジタル・カメラ貰って、こんなことしてくれなくていいのにって云ってたよ」
「高いものじゃないからいいって云っといて」
「薄味だけど、出汁が利いてて美味しい。何が使ってあるのかな」
「メニューが入ってたよ、これ」
「調味料まで書いてないか。でも食べればだいたい判る」
「何が使ってあるの」
「これは昆布といりこのだしと、塩と……、少し白味噌が入ってるかな」
「お味噌が入ってるんだ、判らないなあ」
「ほんとに隠し味程度だから。こっちのは干し椎茸の戻し汁を使ってるみたい」
「へえ」
「これは擦った蓮根……。フードプロセッサーじゃなくて、ちゃんと擂り鉢で擦ってる。なめらか。若鶏のブイヨンかな。白いのは豆乳」
「食べただけで判るんだ」
「そういうの得意。利き酒みたいなもん」
「あはは、利き味か」
「そうそう」
「でもなんとなくカロリー低いのばっかで、貧血の改善には向かないなあ」
「そんなこと考えて食事してたらつまんないよ。サプリメントとかで補えばいいんだし」
「補いきれなさそうだから」

金目鯛のヴァプール
 金目鯛の切り身に塩をしてバットなどで一時間程おく。
 鯛に白髪葱を載せ、酒と昆布だしを振りかけ、蒸す。
 法蓮草を茹で、バルサミコ酢をかける。
蓮根のポタージュ
 蓮根は茹でて適当な大きさに切り、コンソメスープと一緒にフードプロセッサーにかける。
 豆乳と鍋で煮る。
 お椀に注ぎ、刻んだパセリを散らす。


 翌朝起きると、影郎はいつもと変わらぬ様子で台所に立っていた。店に出る日は帰って来て、そのまま寝ないで朝まで起きているのだが、それも良くないのだろう。生活のリズムが狂うのは、なんにせよ体に悪影響を及ぼす。
「おはよう、今日はどう?」
「大丈夫だよ」
「あ、とろろ芋の味噌汁だ」
「好きでしょ」
「うん、濃厚でいいよね。慥かとろろ芋も滋養があっていいんだよ」
「じゃあ、一緒に飲もうかな」
「ちゃんと三食摂らないと駄目だよ」
「お腹空かないんだよねえ」
「木下君も少食だけど、影郎は極端過ぎるよ。料理が好きなのに、なんでそんなに食べないの?」
「お腹空かないから」
「大人なんだから、健康管理くらいしなきゃ」
「昨日からお説教ばっかり」
「云いたくて云ってる訳じゃないんだよ」
「判ってるけど」
「お午もちゃんと食べるんだよ。この残りでいいから」
「うん」
「帰ってきた時にこれが残ってたら、みんなでキャットフードだからね」
「おれが作ってるんだから、醤油とか掛ければいけると思うよ」
「猫缶、買ってくる」

長芋の味噌汁
 豆腐は1、5センチ角の賽の目に切る。
 鍋に煮立てた湯の中へ板昆布を入れる。
 鍋の中へ水で戻した若布と豆腐を入れ沸騰しない程度に加熱する。
 火を止め、味噌を解き混ぜ、鍋の上から直接長芋を擦り下ろす。
 器に注ぎ、小口切りの浅葱を散らす。
彩り野菜のピクルス
 プチトマトは熱湯をかけて楊枝で突いて皮を剥く。
 カリフラワーはさっと茹でて水気を切る。
 大蒜は薄切りにする。
 大蒜、胡瓜、大蒜、カリフラワー、大蒜、パプリカ、トマトの順に硝子の保存瓶に詰める。
 酢、水、塩、粗挽き胡椒、砂糖、鶏ガラスープを煮立たせ、瓶に注ぎ、粗熱が取れたら冷蔵庫で保存する。

 彼は非常に素直なのだが、どうにも頼りない。自分のことがよく判っていないようで、貧血のことも食事のことも、どうにかしようとは微塵も思っていないように見受けられる。ぼくより三つ下なだけなのだが、時々幼い子供の相手をしているような気分になってしまう。
 彼の従兄弟である左人志さんも同じようなことを云っていた。
「あいつは阿呆じゃないんだけど、どうにも子供いうか、育ってないていうか、兎に角、自分のことをあんまり構わないんだよ。だからこっちが驚くようなことをしでかす時もあるけど、手に負えないようなことはしないと思うから、そう気に掛けることないよ」
「でも心配なんですよ。病気のことはぼくではどうにもならないし、あんなにしょっちゅう仆れるのは、やっぱり何処かに異常があるからでしょう」
「いや、ただの貧血だし、仆れるのはたぶん頑張りが足りないからだと思うよ」
「頑張って仆れないようにすることは出来ないんじゃないですか」
「仆れないようには出来ないだろうけど、普通、くらっときたら踏ん張るとか何かで体を支えるとかするだろ。そういうことをしてないんじゃないかなあ」
「反射神経が鈍いんですかね」
「どうだろうねえ。まあ、運動神経はそう発達してないみたいだから、反射神経も鈍いかもな」

「どうしたんですか、溜め息ついて」
「え、溜め息ついた?」
「ついてましたよ、深刻な顔して」
「ちょっと知り合いに貧血の子が居て、どうしたらいいかなと思って」
「貧血ですか。ぼくも貧血気味ですけど、病気じゃないんでねえ。再生不良性貧血とかじゃなければ、そう心配する必要はないんじゃないですか」
「病気じゃないっていうのが厄介な気がしてね」
「食事でなんとかなりますよ」
「木下君は、何か気にして食べてるものってあるの」
「特に毎日気にしている訳じゃないですけど、肉が苦手なんで野菜とか茸類をよく食べるようにしてますかね」
「君も肉が苦手か……。茸ね。茸もミネラルが豊富だったな」
「まあ、三食バランスよく食べてれば、そうそう仆れたりしませんよ。おれだって検査した時はあらゆる数値が低かったんですけど、高校生の時に一回仆れただけですから」
「一回仆れてたら充分だよ」
「まあ、そうですけどね。仆れる方も好きこのんで仆れる訳じゃないんで……。あれは、仆れた本人も吃驚するんですよ。気づいた時」
「仆れてる時の意識は、まったくないの?」
「ないですねえ。空白です」
「それは、なんかもの凄く怖いね」
「ほら、此処によく来るカゲロー。知ってますよね? あいつなんかそこら中で仆れてるんですけどね、慣れてるからケロッとしてるんですよ。理由は判ってて、あいつ、碌に食べないんです」
「あ……。あ、そう。あの子ね。慥か此処でも仆れたよね」
「もー、迷惑極まりない奴ですよ。ぼくと同じ年とは思えない」
 木下君に影郎のことを持ち出されて、ぎくりとした。彼と一緒に暮らしていることを職場の人間には云っていない。疾しいつき合いをしている訳ではないが、この年でいきなり男と同居を始めるというのは、何か理由がなくては変に勘ぐられかねない。
 と、考えて、何故彼と暮らすようになったのだろうと思った。何がきっかけだったのかよく覚えていない。
「影郎が此処で暮らすことになったのって、なんでだったっけ」
「んー、何度か此処に泊まって、休みの日もつき合ってもらってたから、紘君がそんなによく来るなら一緒に住んだらって云ったの」
「そうだっけ」
「そうだよ。覚えてないの」
「覚えてないなあ。慥かによく来てはいたけど……。うーん、そういうこともあったかな」
「なんで?」
「今日、木下君と貧血の話をしてて、影郎の話題になったんだよ」
「リョウ君、悪口云ってたでしょ」
「云ってないよ」
「云った筈だよ、迷惑だとか馬鹿とか」
「よく判ったね」
「リョウ君の云いそうなことくらい判る」
「彼も貧血だから教えてもらったんだけど、ちゃんと食事すれば仆れたりしないってさ」
「判ってるよ」
「判ってるなら食べなさい」
「はい」

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