見出し画像

食について。

 子供の頃は非常に偏食で、親戚の家に泊まりに行くと、「この子は霞でも食べてるのかね」と云われたものだ。
 肉が嫌い(ミンチ状のものなら喰える)、魚が嫌い、味のない米の飯が嫌い、癖のある野菜が嫌い(これは己れの好みによる)、甘いものが苦手。食を提供する側が苦労しそうな相手だが、幼い頃に調理担当だった祖母は自分の好きな料理しか作らず、母はわたしの好みを、まったく把握しなかった。
 つまり、家庭内において食事の好き嫌いで苦労するのは、わたしひとりだった訳である。貧しかった市営住宅時代は兎も角、鉄板据えつけの卓子が導入された引越し先では、毎週のすき焼きに悩まされた。
 市営住宅に住んでいた頃の思い出として、階段を下りながら胡瓜を齧っていたことが挙げられる。その市営住宅は二階建ての四件長屋で、庭つきであった。自然が豊かで、わたしは心底、その居住空間を愛していた。引っ越した後、一年間はひとりで涙していたほどである。
 それはさておき、偏食児童に襲いかかる地獄は、給食である。ほぼすべて、喰えずとも、不味い(と感じる)。
 その詳細は、機会があれば語ることにしよう。問題は、自炊だ。
 自炊とは、読んで字の如く、自分で炊事することである。今時の子供だけでなく、昭和の世代でも実家にいる頃は「上げ膳、据え膳」、家庭科で習ったことなどうろ覚えで、味噌汁もまともに作れない。
 わたしもそんな有様であった。
 結婚してはじめて味噌汁を作ろうとしたが、手順が判らず、連れ合いに教えてもらった。簡単に云えば、味噌を投入したら煮立てるな、である。
 それ以外にも、数々の失敗をした。
 連れ合いの帰宅を待ってパスタを茹でるものの、早すぎて饂飩のようになってしまう。炒めものをしてもいつも水が出てしまい、片栗粉を投入するという悪知恵で、いつもあんかけだった。

 それでも、相手が居る時は料理をしていた。譬え一品でも。クソ不味くても。
 しかし現在はひとり暮らし。
 わたしは家事全般が不得意で、面倒くさがり屋の自堕落な人間である。飯を喰うことに関しても、さほど熱心ではない。それなのに、食に関する文献を漁るのが好きなのだ。
 文献とかいうと大げさに思われるかも知れないが、まあ普通に、食に関するエッセイやレシピ本を読むのが好きなのである。そしてそれらから得た知識を実生活に生かすことは、殆どない。
 わたしが日常食しているものは、ブランフレークに豆乳をかけたもの、豆腐にシュレッドチーズと刻んだキムチを乗せてレンジでチン、更に納豆を混ぜる、という、改めて考えると気色の悪いものである。
 鍋や調理器具に凝って、あれこれ揃えたこともある。これはわたしの偏執的気質による自己満足に過ぎず、所有したいだけなのであった。意味がない。なので、現在は殆ど手放した。阿呆である。
 しかし、知識だけは豊富にある。テフロン加工のものは良くないとか、無水調理が出来る鍋はどれがいいとか。
 テフロン加工のフライパン、鍋は寿命が短い。すぐに剥げてくる。発癌性どうのということは、専門家ではないので判らないが、一、二年で駄目になるのは慥かである。
 ル・クルーゼを使用したことはないが、ストウブの鍋は馬鹿みたいに揃えた。が、現在は売り払ってひとつもない。何故、手放したのか。ちゃんと使用した上である。
 重いのだ。それに、手入れが必要で、わたしには無理だった。すぐに錆びつく。錆びつくのは少し傷ついたところからなのだが、鍋などすぐに傷がつく。それよりも、重過ぎて洗うのが困難なのだ。
 これからもっと腕力、握力が弱まるのに、鉄アレイのような重さの鍋は、手に余る。なので、すべて手放した。
 現在手元に残っているのは、ステンレス製品ばかりである。手入れが楽なのだ。磨き粉さえあれば、汚れも焦げつきも、きれいに落ちる。しかも錆びない。鋳鉄製品のように重くない。
 いいとこ尽くしだ。

 しかし、今のわたしは極限に気力がないので、料理などしない。だからといって、責めるひとも居ない。ひとり暮らしは淋しく空しいかも知れないけれども、それを責めるひとが居ないのが幸いである。責めるひとが居ないのに、己れで責め立て罪悪感を覚えるのは、愚の骨頂である。
 足の踏み場がないほど部屋が散らかっていても、風呂場が黴だらけでも、流しが洗いものであふれていても、誰に迷惑をかけていようか。そこに住まう自分だけではないか。
 恥ずかしいと思うのは、ただ見栄だけなのだ。それを見て、己れが良しとすれば、或いは耐えられれば、それでいい。これは無理だと思えば、対処すればいいだけの話だ。
 見栄えの悪い料理を作って、それでも喰えれば文句はなかろう。ものを積みたくって一見、何処に何があるのか判らなくても、当人が判っていれば問題ない。否、当人が判らなくても、判らないことに諦めがつくのなら、それでいいではないか。
 見た目が良いとかどうとかよりも、気楽に、負担なく過ごせることが一番ではなかろうか。
 最先端、流行、そんなものを追いかけていたら、あらゆる感覚が消耗する。財布もついてゆかない。断捨離もそうだ。どんなことも、強迫観念はよろしくない。
 などと偉そうなことを云っても、恐らくこの世のなかで、わたしほどだらしなく無責任で、役に立たない人間は居まい。それでも生きている。
 大丈夫だ。こんな奴でも、生きている。


画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?