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高校時代

 高校に入って、同じクラスに妙な雰囲気の男が居た。ぼさぼさの頭をして、長い前髪で顔の半分が隠れている。青白いと云ってもいいほどの肌色で、大きな目をして、背が高い割には華奢な体つきで、全体的に女性的な感じがした。ひとを見る時に首を傾げる癖があって、なんだか女の子みたいに見える。
 ぼくが通うのは市内でも名立たる受験校で、勉強をしすぎて脳味噌は半分干涸びていた。そこへ水を差し入れるように、彼の姿は目に飛び込んできたのである。
 クラスは成績順に振り分けられており、ぼくは一組で、噂に依ると、彼は入試で一番の成績で合格したらしい。見ると、いつも教科書を開いて勉強していた。目つきが悪く猫背で、異様な雰囲気をしているので誰も近づかなかった。
 水尾健司という名だった。
「ミズオ君」
 彼は感情の篭らない目で此方を見遣り、ミナオ、と云った。
「え?」
「ミナオって読むんだよ」
「ああ、そうなんだ。先生がそう呼んでたから。なんで訂正しないの」
「めんどくせえからな」
 と、実に面倒くさそうに云った。
「この用紙に記入してくれないかな」
 なにこれ、と云って差し出した手はまっしろで、指は折れそうに細く長かった。形のいい爪は短く切り揃えてられており、血の気のない色をしている。
「部活の申請書類なんだけど」
「こんな学校にそんなもんあんのか」
「ないから申請するんだよ」
 ふうん、と云って、彼は髪を掻き上げコピー用紙を読んでいた。目が悪いのか顔を書類に近づけている。
「三組の今井君と仲いいよね」
「ああ、同じ中学だから」
「一緒に弁当食べてるじゃん、お母さんが作ってくれるの?」
「自分で作ってる」
「えー、自分で?」
「変か?」
「変じゃないけど、料理出来るなんて凄いなあ、って思ったから」
「小学生の頃から作ってたからな」
 親が居ないのかな、と思ったが、慥か彼の父親は会社社長だった。厭らしいことに生徒名簿には、親の職業が記載されているのである。私立校なので、寄附金目当てなのがありありと判る職種が並んでいた。ぼくの親は普通のサラリーマンだが、そういうのは此処では少数派である。
「おれ、部活動に興味ないから、なんも書くことねえや」
 そう云って彼は紙を返してきた。
 観察していると彼は見掛けに依らずかなり粗忽で、あちこちぶつかったり、物をよく落としたりしている。それがやけに可愛らしく見えた。無口なので誰も話し掛けたりしなかったが、三組の今井とは廊下で喋っていたりしているのをよく見掛けた。
 とても仲が良さそうで、時々声を上げて笑っている。
 笑うんだ、と当たり前のことに驚いた。
 頰に掛かる髪を長い指で掻き上げる癖。気を抜くとすぐにぼんやりしてしまう、大きくて空ろな瞳。それを縁取る下向きに生えた長い睫毛。睫毛が影を落とす鳶色の瞳。ひとりだけに向けられる笑顔。少し低めのアルトの声。
 結局、書類の申請は却下され、部活は出来なかった。生徒も受験のことしか考えていないので、そんなことは誰も気にしない。
「此処、体育館もプールもないから、部活なんて限られたもんしか出来なかっただろ」
「そうだけど、勉強ばっかやってたら不健康じゃないか。体育の授業がないなんて普通じゃないよ」
「おれはない方がいいけどな」
「運動、嫌いなの?」
「嫌いじゃないけど、泳げないし」
「泳げないの?」
「うん」
「授業なかったの」
「あったけど欠席してた」
「病気だったの?」
「あー、耳の病気で……」
「中耳炎?」
 彼はそれには答えなかった。痩せているが、さほど不健康そうには見えない。粗忽だが、運動神経が鈍いようにも思えなかった。
 彼が水の中に居る姿を想像してみた。樹が鬱蒼と茂る森の中に、ひっそりとある湖を泳いでいたら似合うのではないかと思える。きっと人魚のように見えるだろう。
 試験の成績はいつもトップで、二学期になるとクラスの者らも彼に話し掛けるようになってきた。大抵は授業で判らないことを訊いていたが、彼はそれに丁寧に答えている。
 ぼくのクラスより、三組の方で彼のことが話題になっているようだった。それも、今井君と矢鱈仲が良いのでゲイだと勘違いされていたのだ。
 そのことを冗談めかして云ってみたら、彼は阿呆くせえと取り合わなかった。が、見掛けるといつも廊下で寄り添うように話しており、慥かに友達以上の関係ではないかと思わせる雰囲気があった。
「森君」
 或る時、彼がいきなり声を掛けてきた。
「なに?」
「弁当、持ってきてる?」
「持ってきてないけど」
 これ食べないか、と使い古した小さいコンビニ袋を差し出した。中には弁当箱が入っている。
「いいの?」
「うん」
「なんで」
「今日、今井が休みだから」
「今井君にお弁当、作ってあげてたの」
「自分の作るついでに……。おかずだけだから、握り飯とか買った方がいいと思うけど」
 可愛い顔をして握り飯なんて云うのがちょっと可笑しかった。弁当は、とても高校生の男が作ったものとは思えない。だし巻き卵以外は野菜ばかりだったが。
「肉、嫌いなの?」
「あんま食べないな。胃にもたれるんだよ、喰うと」
「ああ、だからそんなに痩せてるんだ」
 彼は食べるのが非常に鈍く、ぼくが全部食べ終えてもまだ半分しか減っていない。食後、腹ごなしに校庭でキャッチボールをした。
「何処投げてんだよ、ノーコン」
「ごめん、ごめん」
 そう云いながらも、彼はどれだけやってもあさっての方へ投げて寄越した。けれど、凄く愉しそうにして笑い声すら上げている。彼は友達とこういったことをしたのははじめてだと云った。今井君以外は親しくしたひとが居なかったらしい。小学生の頃は苛められはしなかったけれど、誰も話し掛けてこず、殆ど無視されていたという。
「淋しくなかった?」
「うーん、あんまそういうことは考えなかったなあ。家に帰ると母親の世話とかしなきゃなんなかったし」
「お母さん、病気だったの?」
「まあ、そうかな」
 家庭環境が複雑なようで、それ以上は訊ねられなかった。誰にも相手にされないでいたところに出来た友達が今井君だから、あれほど親しくするのだろう。傍から見ると今井君は保護者のようで、彼はそれに甘えている風だった。
 それから学食で一緒になると、ふたりの間に混ぜてもらってご飯を食べるようになった。彼らは本当に仲が良く、声が掛けられない時もある。今井君は彼の長い前髪を手で押さえるように上げて話し、水尾君は首を傾げてそれを聞いていた。
 二年になって彼は成績が落ちてしまったらしく、二組になった。ぼくは一組で、今井君は三組のままだった。一年の終わり頃から、水尾君はぼんやりすることが多くなり、教師に呼び出されることもあった。何かに囚われているように思えたが、詳しくは訊けなかった。
「水尾君、何かあったの」
「え、なんで?」
「二組になっちゃったし、今井君なら何か知ってるんじゃないかと思って」
「別に何もないよ。成績が悪くなったのは此処のレベルが高いからだろ」
「でも、トップで此処に入ったんだよね」
「そうなのか」
「知らなかったの?」
「うん。そんな頭良かったんだ」
「有名な話だよ」
 今井君はへえ、と云っていたが、特に関心があるようには思えなかった。あんなに仲が良いのに、と意外な気がする。もしかしたら、彼にとって水尾君の成績などたいしたことではないのかも知れない。
 夏になり半袖になったら、彼の左腕には二十センチくらいの長い傷痕があった。去年はそんなものなどなかった。いつの間に怪我をしたのだろうか。彼も今井君も何も云わない。ぼくも訊くことはなかった。他のひとが訊いたら、硝子で切ったと云っていたが、どうもそうではないようである。
 理由はないが、そう思えた。
 クラスが違うので彼とはあまり話さなくなったが、廊下で会ったりすれば挨拶をしたり、少し立ち話くらいはする。親しい友人は居ないようだが、前ほど閉鎖的ではなくなっていた。
 或る日、午頃から雨が降り出し、帰る時分には土砂降りになっていた。昇降口に行くと、水尾君がぼんやり立っている。声を掛けると振り向いて、凄い雨だな、と呟くように云った。
「傘、持ってないの?」
「降るとは思わなかったからな」
「入れてってあげるよ。駅まででいい?」
「いや、住んでるとこはすぐそこだから」
 彼の住所は慥か北地区だった筈である。引っ越したのだろうか。
 連れ立って行ったアパートは学校のすぐ傍で、とてもじゃないが社長の息子が住むような処には見えない。いつから此処に住んでいるのか訊ねたら、一年の時だと答えた。引っ越したのかと訊いてみたら、そうだと云って手を振り、裡に這入っていってしまった。
 摑みどころのない男である。
 三年になって、ぼくも水尾君も揃って二組になった。今井君はやはり、三組のままである。受験校なので、三年になると皆が殺気立ってきた。が、水尾君も今井君もあまり変わらない。ただ、水尾君は少し窶れたようで、顔色も悪い。訊ねてみると、よく眠れないのだそうだ。
「不眠症?」
「まったく眠れない訳じゃないけど、明け方まで寝つけないな」
「勉強のしすぎじゃないの」
「そんなにしてねえよ」
 そう云って彼は笑っていたが、何処となく疲れているように思える。
 秋頃に今井君が大学の下見に行ってきたと話した。
「水尾と行ったんだけどさあ、あいつ、電車に乗ったことがなかったんだよ」
「え、嘘だろ」
「ほんとだって、有り得ないだろ。切符の買い方も知らなくて、全部教えてやんなきゃならなくてさ、しまいには電車は疲れるから歩いて行ける大学にするとか云い出すんだよ」
 思わず笑ってしまった。高校三年にもなって電車に乗ったことがないというのも凄いけれど、疲れるからもう乗りたくないなんて、子供のようだ。思い返してみるに、水尾君はそんなところが多々あった。世間擦れしていないというか、無垢な感じなのである。
「大学は何処に行くつもりなの」
「おれは工学部に行きたいんだけど、水尾は文系の頭しかないからなあ。たぶん文学部とか教育学部とかに行くだろうけど……。見に行ったのは陽南と蒋瑛だけだったけど、森君はどうするの?」
「うーん。ぼくも文系に進もうと思ってるけど、陽南とか蒋瑛ってレベル高くないかな」
「この学校自体のレベルが高いから、森君なら余裕だろ」
 そうかな、と云っているところへ、水尾君がやって来た。職員室に呼び出されていたらしい。
「なんの用だったんだ」
「んー、進路のことでいろいろ云われた」
「なんて」
「トップで入学しておいて、なんでこんなに成績が下がったんだって文句云われたんだよ。そんなこと云われてもわざとやってる訳じゃないのにさあ」
 そう云って項垂れている水尾君の頭を、今井君は撫でてやっていた。なんだか兄弟のようである。何処となく頼りない水尾君を、今井君はいつも見守っている。水尾君もそれに甘えているように見えた。
 高校を卒業し、彼らは同じ大学へ進み、ぼくは別の学校へゆくことになった。もう、ふたりの姿を見ることはなかった。様々な出来事に取り紛れ、高校時代のことなど思い出しもしなかった或る日、友人から水尾君の消息を聞かされた。
「なあ、不気味君って呼ばれてた奴、覚えてるか」
「不気味君? ああ、水尾君か。覚えてるよ」
「死んだんだってさ」
「死んだ? 事故にでも遭ったの」
「いや、心臓発作だって」
 無造作に伸ばした髪をした、色素の薄い顔が蘇ってくる。
 長い睫毛に縁取られた大きな鳶色の瞳。何も映していないような、その瞳。ぼくのことを森君と呼ぶ少し低めのアルトの声。何処か頼りなげな物腰。高校生にもなって電車に乗れなかった水尾君。
 もう、会うことは出来ない。忘れていたというのに、鮮明に押し寄せてくる思い出の数々に窒息しそうになった。

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