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小さきもの。

 幼い頃からミニチュアのものが大好きで、ミニカーが慾しくても買ってもらえず、鬱屈としていた。そして今、大人になり、多少なりとも稼いでいた頃は、その頃の私怨を晴らすが如く、玩具を買い漁っていた。
 昔はあまり裕福ではなかったので、グリコのキャラメルもガチャガチャも、そんなに手にすることはなかった。
 このガチャガチャ。ずっとこう呼び習わしていたが、ガチャポンやらガシャポンやら、呼び名は色々あるらしい。幾つも扱っている専門店舗では、「カプセルトイ」と統一している。
 まあ、そんなことはどうでもいい。
 わたしが子供の頃は、一回、十円であった。それが二十円になり、五十円玉対応機種が現れ、今では大人向けに千円札対応のものまであるらしい。
 常々思っていたのだが、ガチャガチャに嵌る者は、賭け事にも嵌るのではなかろうか。ナニが出てくるか判らない。思うものが出てくるまでやめられない。
 地獄である。今どきの言葉に置き換えれば、「沼」であろうか。
 結婚するまでこんな駄菓子的遊興に金を費やすことなどなかったが、(元)連れ合いとショッピングセンターへ買い物へ行った際、大抵、通路にガチャガチャの機械が設置されている。わたしはこの機械の並ぶ横を歩きながら、内容を把握する達人である。自慢にもならないが。
 で、もの慾しそうに眺めていると、(元)連れ合いが、そこから移動したいが為に、
「一回だけだぞ」
 と念を押し、数百円の小銭を渡してくれるのだ。
 モラハラも極まる人間で、後にどんな状況だったかと(愚痴ではなく)他人に話すと、大抵のひとが「酷い」「最低」「よくそんなひとと結婚する気になったね」「それ、ストックホルム症候群だよ」などと云われた。
 最後の言葉については未知だったのでGoogleさんに訊ねてみたら、ああ、そうかも知れない、そうだな、と、納得がいった。
 兎に角わたしは、(元)連れ合い以外、まともに男性と対峙したことがないので(片思いとかはある)、どんなことが良いのか悪いのかの判断が出来なかったのだ。今も出来ていない。父親が傲慢で威圧的な人物だったので、それが男性の普通だと思っていた節もある。
 それはさておき、ガチャガチャである。人生に於いての重要なことより大切なのかよ。
 まあ、今はね。そうしたひとが傍に居ないからね。
 で、話は飛ぶのだけれども、我が家の炊飯器は大同電鍋。数週間前、栄の地下街にあるガチャガチャコーナーの前を通りすがった際、わたしの特殊スコープははっきり捉えた。大同電鍋のミニチュア、それも台湾製と日本製。うちにある色も揃っている。
 慾しいがな。慾しいやんけ。慾しおまんがな。誰やねん。
 が、その時は我慢した。何故なら、現金を所有していなかったからだ。これは度々わたしを散財から救出してくれる。現金しか支払い方法がない場合、涙を飲んで諦めるより仕方がないのだ。
 この涙が生活を助ける。
 ところが今回、現金を所有していた。しかも千円札。そして其処には、両替機があった。奇しくも千円札のみ有効の。
 やっちゃいましたよ。五千円札、一万円札の両替は、カウンターまでお越しくださいと書いてあったが、そんな大金はもとより所有していない。まあ、クレジット払いと謂うのは、持っていない架空の金で取引するものだけれども。
 一回五百円。
 二回やっちまったぜ。
 ちゃんと違う色のが出た。しかも、うちのと同じものが出た。嬉しい。こんな些細なことで嬉しがる自分が可愛いとすら思える。

 帰宅し、封を切って組み立てた。なんと精密なのであろう。わたしもミニチュアの食品などを作ってみたことがあるけれども、実に面倒臭く、大変であった。玄人はだしの方は、プラモデルかと思えるようなものまで手作りしれおられるが、到底そんな域までは達しなかった。
 満悦して写真に収め、怠惰な時間を過ごした後、晩飯の支度をしようとして台所へ行き、買ってきたものを広げた卓子をふと見たらば、白く平たい丸いものがある。どうやらミニチュアの皿だ。
 ナニ故、このようなものが卓子の上にあるのだろうか。
 考えられることはひとつしかない。大同電鍋のガチャガチャだ。
 同梱の紙片を確認してみた。
 ランダムで肉まん三個セットが出てくるとな。
 つまり、そんなレアものがあったのに、よく見えない目で、しかも迅る気持ち故のガサツな手でビニールを引き裂き、豆粒ほどしかない肉まんを見逃し、何処かへやってしまったのだ。
 皿に気づいてから、不燃物の塵芥袋をひっくり返して探したが、ない。なにしろニンテンドーSwitch Liteを紛失したわたしだ。ミニチュアの、小指の爪ほどの肉まんなど、失くして当然とも謂える。寧ろ、失くさない方がおかしい。諦めるより外ない。
 まあ、肉まんくらい樹脂粘土があれば己れで作れる。昔取った杵柄だ。が、其処までしようとも思わない。皿は不問に附すことにした。つまり、見なかったことにしたのだ。わたしの人生、こうしたことが非常に多い。

 忘却とは忘れることなり。川沿いリバーサイド。
 大切なことは二度云う。


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