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たのしい日々

「左のがクラッチペダル、真ん中がブレーキ、右がアクセル。ブレーキとアクセルは右足で踏む」
「クラッチってなんの為にあるの?」
「シフトを変える時に使う」
「シフトって何」
「このレバーでギアチェンジする。ギアを切り替えることで、速度に合わせて変速機を最適な状態にするの。これを切り替える時は、必ずクラッチを踏む。そうじゃないと切り替わらない。で、今、レバーがあるのがN、ニュートラル。シフトレバーは引っ掛かりがない限り、此処に戻るようになってる。Pがパーキング、停める時は此処にする。発進させる時は1にして、走り出して二十キロくらいになったら2、流れに乗ったら3、あとは4。カーブに差し掛かる時は減速して3から2に落とす。カーブを曲がり切る前にまたアクセル踏んで3。バックする時はR、リバース。下り坂で停める時も此処にする」
「ややこしい……」
「何処が」
「全面的に。5のところにはしないの?」
「日本の制限速度ならあんまり必要ない。ぼくは高速道路でしか五速にはしない」
「ふーん」
「取り敢えず、クラッチとブレーキを同時に踏んで、シフトを1にしてエンジン掛けて。アクセル踏んで、エンジンの回転数が2000くらいになったらゆっくりクラッチを離して」
「エンジン止まっちゃった」
「……エンストです」
「なんで?」
「クラッチをすぐに離したからだと思う」
「車動かすだけでこんなに手間が掛かるもんなの」
「手間じゃないよ。もう一度やってみよう。ニュートラルに戻して、クラッチ踏んで、シフトを1。エンジン掛けて、アクセル踏んで。はい、クラッチをゆっくり。……ノッキングが凄い」
「駄目かも知んない」
「諦めが早いなあ。ニュートラルに戻して、そうそう、手順覚えたじゃん。……むち打ちになりそう」
「これくらいでならないよ。ちょっと手本見せて」
「……いい? ブレーキとクラッチ踏んで、シフトを1速、エンジン掛けます。アクセル踏む、半クラッチ。動いたらクラッチ離す。進みました」
「凄いねえ」
「凄くないよ、バイクに比べれば簡単」
「あれは難しそうだもんねえ」
「スクーターなら乗れるけど。教習所で必須だったから」
「それならおれでも乗れそう」
「やめといた方がいい」
「なんでー」
「どうも影郎はこういうことに向いていないのが判った。左人志さんに訊いたら自転車にも乗れないって云ってたし」
「スクーターは漕がなくてもいいじゃん。たぶん一度にいろいろやることが出来ないんだと思う」
「料理はあれこれ一度にやってるじゃない」
「あんなこと誰でも出来るよ。だいたい、普通のひとはオートマに乗ってるじゃん」
「ミッション車の方が乗り甲斐があるからね。影郎は歩きか電車で我慢しなよ、必要な時はぼくが乗せてあげるから」
「自由に移動出来る方がいい」
「地下鉄が発達してるから大抵の処に行けるじゃない」
「店が終わる頃には走ってないもん」
「うーん、慥かにタクシー代が勿体ないかなあ。迎えに行こうか」
「あんな遅くに悪いよ」
「携帯枕元に置いとけばいいし、ぼく、寝つきがいいから、帰って来たらすぐ眠れるよ」
「だって二時か三時だよ」
「それくらいまで起きてる時もあるから平気だって」
「じゃあ、頼もうかな」
「これからどっか行きたいとこある?」
「そうだなあ、PARCOブックセンター覗いてみたいな」
「ああ、ぼくも恰度PARCOに行こうと思ってた」
「紘君は何見るの」
「んー、靴を買おうかなあと思って」
「通勤に使う靴?」
「通勤っていうか、あんなとこだから私服も仕事着も一緒なんだけど」
「いいよね、普段着で仕事出来て。左人志はスーツだったからお金がかかって仕方ないって云ってた」
「スーツは高いからねえ。左人志さん、仕事決まった?」
「今、あちこち面接受けてる。もう銀行は厭なんだって、転勤があるから」
「銀行はあちこち廻されるからねえ」
「やっぱお金扱う仕事だから?」
「不正しないようにね。左人志さんなら何処でも働けそうだけどなあ」
「銀行も本社の総務だったから、転勤はないと思ってたらしいんだよね。今、探してるのは自動車関係」
「販売とか?」
「うん」
「そういうのは大変そうだけど」
「詳しいし、ひと当たりいいから大丈夫なんじゃないかな」
「まあ、そうだね」

「お弁当持ってきたから食べようか」
「あ、いいね。サンドウイッチ作ってたよね」
「うん。適当に作ったから美味しいかどうか判んないけど」
「何が挿んであるの」
「こっちは生ハムとサラダ菜で、ハーブバターが塗ってある。こっちのはツナと玉葱のみじん切りを芥子マヨネーズで和えた。これはスープ」
「あんな短時間でこれだけ作ったの」
「サンドウイッチは簡単に出来るよ。寝かしたりしないから」
「そりゃそうだけど……。いただきます」
「美味しい?」
「うん、影郎が作ったので不味かったことはこれまでない」
「たいしたもの作ってないからじゃないかな」
「ぼくからすると相当なもんだけどね」
「此処はどういうとこなの」
「港湾関係者の駐車場だったとこ。広いから運転の練習に来るひとが居るみたい」
「だから入り口のチェーンが外されてたのか」
「夜は危険らしいけどね」
「だだっ広いからバイク走り廻らせたりするんじゃない?」
「そう、車をドリフトさせたり」
「ドリフトってなに?」
「スピード出してブレーキ掛けながらスピンさせるの」
「恐くないの?」
「恐いと思うよ。テクニックがないと事故を起こすしね。そもそも曲がる時には減速させないといけないから。上手いひとはUターンする時、ブレーキ踏んで後部を滑らせてさーっと行っちゃうけど」
「タイヤ、痛まないの?」
「そりゃすり減っちゃうよ」
「道路についてるタイヤの黒い跡はそういうのがつけてくのか」
「急ブレーキかけてもつくけどね。どちらにしても急ブレーキは良くないよ。特にバイクで急ブレーキ掛けると転倒するらしいし」
「恐いねえ」
「左人志さんはバイクで事故ったことないの」
「ないよ、無謀な運転はしないから」
「それに越したことないよね、車も気をつけて運転しないと凶器になるから」

 ………………。

「スニーカーにするの?」
「楽だからねえ。車も運転し易いし」
「リョウ君はオールスターばっかだけど、紘君はいろいろ持ってるよね」
「木下君はあれ、三足くらいしか持ってないんじゃないかなあ。一度訊いたら学生時代に買ったやつだって云ってたし」
「リョウ君、ほんとに服装に構わないからね。服も襤褸いのばっか着てるし」
「あれでちゃんと様になってるからいいけど」
「ライブもあのままやってるからねえ」
「でも古着だし、ブランドに疎いから気づいてないんだろうけど、コム・デ・ギャルソンやヨウジのシャツ着てたりするんだよ」
「清世さんが選んでるのかな」
「どうだろ。鞄もキャサリン・ハムネットだし」
「センスだけはいいんだよね」
「そうなんだよねえ。あれを無造作にやられると凄いなあって思う。影郎は結構服に気を使うよね」
「そうでもないけど、変な恰好はしたくないから」
「MHLのシャツ、ベーシックだけどいいよね」
「もともとはシャツのブランドだから。そういえば左人志、マーガレット・ハウエルのスーツ持ってた」
「高かったんじゃない?」
「アウトレットで買ったからそんなに高くなかったって。Yシャツはいつも鎌倉シャツで買ってるみたいだけど」
「拘りがあるのかな」
「ないと思うよ、普段はGAPばっか着てるし」
「それもひとつの拘りなんじゃない?」
「近くのジャスコにあるからってだけだよ。鎌倉シャツも会社の近くにあったからだし」
「そうなんだ。……これがいいかな」
「VANS? スリッポンなら楽でいいね」
「紐、あおに齧られちゃうから」
「なんでも齧るからねえ。コードにビターアップル塗ったけど全然効き目ない」
「どうしたらいいんだろう」
「プラスチックのくるくる巻くコードカバーがホームセンターに売ってたから、あれやっとけばいいんじゃないかな」
「危ないからね」
「紺色にするの?」
「合わせ易くていいんじゃないかな。殆どジーンズだから」
「紺と紺でしつこくなっちゃうんじゃない?」
「色合いが違うから大丈夫だと思うよ」
「そうか」
「影郎はなんか、一年中ビルケン履いてるね」
「履き慣れてるの」
「最初見た時、女物のワンストラップの履いてたよね」
「あれ、女の子から貰ったんだけど、履いてたら左人志になんでそんなの履くんだって云われて……」
「意地になって履いてたの?」
「そんなことで意地になる訳ないじゃん。勿体ないから履いてただけ」
「もう履かないの?」
「履き潰した。六年履いてたから」
「六年も履けば、くれた女の子も喜んだだろうね」
「どうだろ、別れちゃったから」
「あ、そうなんだ」
「アローズ見てみようかな」
「ぼくも見たいな」

「セールやってる」
「紘君の誕生日、ご飯作っただけだったからなんか買おうか」
「あの時の、凄いごちそうだったじゃない。いいよ」
「いいからいいから。セールだし」
「お金幾ら持ってるの」
「三万くらい」
「ならいいか。影郎、店の売り上げの殆どをぼくに渡してるみたいだけど、やっていけるの?」
「必要経費は銀行に入れてあるし、お金が要る時は貰ってるじゃん」
「カード持ってないんだよね。不便じゃない?」
「持ったことないから不便に感じない。あれ、なんか好きになれないもん」
「どうして?」
「落としたら大変だし、スキミングされるかも知れないし」
「ぼくは現金持ち歩きたくないから、カードをよく使うけどなあ。アルミのカードケースに入れてるからスキミングも大丈夫だろうし」
「現金はいつも幾らくらい持ってるの?」
「だいたい二万か三万」
「それだけ持ってれば充分なんじゃない? おれ、五百円くらいしか財布にないまま温泉旅行したことがあるよ」
「キセルでもしたの?」
「一緒に行った女の子が全部払ってくれた」
「人徳というかなんというか……」
「愉しかったよ」
「良かったねえ。……夏って、いい加減な服になっちゃうよね」
「ランニング着て出掛けようとしたら、左人志に止められたことがある」
「どんなのだったの」
「普通の。白だったかな?」
「下着だと思ったんじゃないの」
「ああ、そうか」
「たぶんね」
「これ、似合うんじゃない?」
「うーん……。パステルカラーってなあ」
「夏だからいいと思うけど。Tシャツはいっぱい持ってるもんねえ」
「洗濯すると三年くらいで駄目になるからね」
「雑巾に出来るからいいけど」
「あれ、いちいち縫ってくれたけど、そのまま切って使えばいいんじゃない?」
「重ねてあった方が使い易いような気がして」
「縫いものまで出来るとはねえ」
「雑巾しか縫えないよ」
「頑張れば服とか作れるんじゃない?」
「頑張らないから作れない」
「なるほど」
「これは? ノーカラーの白いシャツ。丈が短いからパンツに入れなくてもだらしなく見えないし」
「あ、いいね。これならシンプルで合わせ易い」
「じゃあ、これをプレゼントに」
「ありがとう」
「どういたしまして」

「じゃあ、本屋に行こうか」
「うん」
「何か探してる本があるの?」
「本っていうか、雑誌の別冊みたいなの」
「ムックかな」
「そう、それ」
「また料理関係?」
「違う、園芸書」
「園芸? ああ、野菜栽培とかの」
「うん。プランターで育てられる野菜の本」
「ベランダで作るの?」
「やってもいい?」
「いいよ、別に。空いてるから」
「洗濯もの干すのに邪魔になるかな」
「プランターくらいなら邪魔にならないと思うよ。何を育てるの?」
「二十日大根とかプチトマトとか」
「簡単なのかなあ」
「どうだろ。プランターではハーブしか育てたことがないから。あれは簡単だった」
「家で育てられるならいいよね。生のハーブって高いから」
「高いよね、あんなに生えてくる上に元は雑草だったのに」
「あはは、そんなこと云ったら品種改良されてない草はみんな雑草だよ」
「そうだけど、高過ぎるよ。へろへろって入ってるだけで三百円くらいするんだもん」
「簡単に出来るんなら高いよね」
「二十日大根とかルッコラも高い。なんでだろ」
「買ってくひとが少ないんじゃない? 需要と供給のバランスが価格に反映されるから」
「さすが難しい云い方するね」
「からかってるの?」
「からかってないよ、凄いなあって思っただけ」
「園芸関係はこの辺かな」
「これがいいかな。……簡単なのはサラダ菜、ラディッシュ、ミニトマト、へえ、唐辛子も育てられるんだ」
「割と高価格のものが出来るんだね。いいじゃない」
「アパートのベランダなら蟲もあんまりつかないだろうしね」

 …………。

「支度出来た?」
「今行く。あお、ついてきちゃ駄目だって」
「あおは留守番だよ。いい子にしてな、すぐ帰ってくるから」
「じゃあね、いってきます」
「店が終わったら電話してよ、迎えに行くから」
「出なかったらタクシーで帰るよ」
「ちゃんと起きるから大丈夫」
「無理しなくていいよ」
「三時くらいだったらいいって。それに帰ったらちゃんと寝た方がいいよ。寝ないで朝ご飯作ったりするから仆れるんじゃない」
「うーん、時間が中途半端なんだよね」
「仮眠するだけでも違ってくると思うよ」
「なるべくそうする」
「そうしなさい」
「はい」

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