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パイと小父さん

 Who made the pie?
 I did.
 Who stole the pie?
 He did.
 Who ate the pie?
 You did.
 Who cried for pie?
 We did.


 だれがパイを作ったのかな?
 ぼくだよ。
 だれがパイを盗んだのかな?
 あのこだよ。
 だれがパイを食べちゃった?
 きみだよ。
 だれがパイをほしいって泣いたかな?
 みんなさ。


 果苹を煮る甘い匂いと、砂糖とバターとメリケン粉の混ざる、ちょっと濃厚な匂いが台所から広がって、アパートの部屋中に充満していました。お母さんのことは大好きだけれど、これはコーイチ君にとって少々理解に苦しむ行為だったのでした。だって、誰もパイなんか食べたくないのに。
 今のところ、甘ったるい匂いに冒されていないお父さんの部屋へ逃げ込んだコーイチ君は、「なんでお母さんはパイなんか作ってるの?」と訊ねてみました。
「閎一はお母さんが作るおやつが好きだろう」
 お父さんは優しく云いました。
「でも、むちゃくちゃ砂糖をぶちこんでたよ」と、コーイチ君はふてくされたように床を蹴りながら呟いたのでした。父親である江木澤閎介は息子を面白そうに視つめて、
「お母さんがもの凄く甘いものを作るのは、どんな時かな」
 と笑いました。お父さんの不思議な言葉を噛み締めて、コーイチ君は答えに辿り着きました。
「木下の小父さんが来るんだ!」
 コーイチ君のお父さんには「木下の小父さん」と「牧田の小父さん」というお友達が居ました。他にもお友達は居たし、お母さんのお友達だってお家に来る。でも、コーイチ君は木下の小父さんが一番好きなのでした。恐らく、彼が子供と同じくらいの精神年齢の持ち主だったからでしょう。コーイチ君に限らず、木下の小父さんはやたらと子供や動物に好かれていました。阿呆だからなのでしょう。
「小父さんは甘いものが嫌いなのに、なんでわざわざ普通より甘いものを作るの?」
 この前お母さんは、べとべとのチョコレートクリームが掛かったうえに、毒々しい色のさくらんぼがしこたま乗ったケーキを作っていました。あれは自分でもゲロを吐きそうだったけど、小父さんは「こりゃねえだろ。てめえ、いい加減にしろよ」と、ケーキをお皿に載せたまま、お母さんの顔に擦りつけていたことをコーイチ君は思い出しました。
 と、まあ、木下の小父さんも結構やりたい放題して帰ってゆくのですが、そこら辺りも、コーイチ君は気に入っていたのです。あんな大人のひと、見たことがない(ないだろうな)。
 コーイチ君が木下の小父さんの特に好きなところは、自分をべたべたと子供扱いしないところでした。「コーイチ君、よく出来ましたねえ」「コーイチ君、いい子ですねえ」なんてことは絶対に云わない。木下の小父さんがコーイチ君を見つけて最初に云う言葉は、
「おう、コーイチ。達者でやってるか」
 でした。そんなことを云う大人は他に居ない、とコーイチ君は思っていたのです。「たっしゃ」っていうのがどんな意味なのか判らないけれど、木下の小父さんはぼくを子供扱いしない。そこのところが、コーイチ君は好きだったのです。なんでお母さんと仲が悪いのかは判らなかったけれども。
 でも、そんな大人を慕ったりしたら、コーイチ君の将来は悲惨なものになるに違いありません。お父さんは密かにそのことを心配しておりました。お父さんはコーイチ君より木下の小父さんのことをよく知っていて、譬え子供の前だろうとやりたい放題するのが判っていたからです。けれども、お母さんに云っても厭がらせをやめないし、木下の小父さんがコーイチ君に会いに来るのをやめさせるのは可哀想なので、諦めてはいました。彼は動物や子供が大好きなのです。
 さて、パイが焼けた頃、玄関のチャイムが鳴りました。コーイチ君は急いで玄関へゆきましたが、お母さんが先に出てしまいました。
「この匂いは……。てめえ、また作りやがったな」
「悪い?」
「こんな糞甘えもん作って誰が喰うんだよ。江木澤の稼いだ金を無駄にすんじゃねえ、くそ馬鹿女」
「なによ、五円玉」
「五円包んだだけでも難有く思え、馬鹿野郎」
「野郎じゃないわよ、馬鹿」
 その様子をコーイチ君は面白そうに眺めておりました。こんな大人を見て育ったら碌な人間にならないでしょう。お父さんはそれを心配しているのでした。
 この日は乱闘騒ぎにはなりませんでしたが、小父さんはお母さんの前でわざとらしく皿のパイを塵芥箱に棄てました。お母さんはそれをこっそり取り上げ、玄関にある小父さんの靴に捩じ込みました。
「コーイチ、どうだ、最近いいことあったか」
「あったよ。えりこが午間はお襁褓しなくなったんだ」
「ほお、えらいな。妹のことが嬉しいなんて」
「嬉しいよ。早く一緒に遊べるようになるといいな」
「おまえはほんとにおっかさんに似ず、いい子だな。あんな女を嫁に選んだら駄目だぞ、確実に不幸になる」
「お母さん、やさしいよ」
「猫かぶってんだよ、息子に嫌われたくなくて」
「猫なんかかぶってないよ」
「見えねえ猫なんだよ」
「ほんと、お父さん」
「そんなものかぶってないよ。小父さん、冗談云ってるんだ」
「江木澤、子供は正しく教育しろ」
「してるって。リョウ、子供の前であんまり揉めてくれるなよ」
「揉めごと起こすような女と結婚するおまえが悪い」
「あんな態度をとるのはリョウにだけだよ」
「なんかおかしなこと吹き込んだんじゃねえのか」
「何も云ってないよ。新婚旅行代の念書の件だって伏せてあるし」
「別に伏せる必要はねえだろ」
「血判押させられたなんて聞いたら、もっと対応が悪くなるって」
「借用書に拇印押すのは当然だろうが」
「血では押さないよ、時代劇じゃあるまいし」
「判子も朱肉もなかったんだからしょうがねえだろ」
「サインすれば済むことじゃないか」
「日本は印鑑しか信用しねんだよ」
「最近は郵便も宅配もサインで済むよ」
「おれは印鑑を押す。シャチハタだがな」
「あ、そう」
 コーイチ君はお父さんと小父さんの会話を興味深そうに聞いていました。何を云っているのかよく判りませんでしたが、大人っていいなあ、と思っておりました。こんなものを羨んでは大変なことになってしまいます。
 そこへ衿子を抱いたお母さんがやって来ました。
「お、衿子か。どれ」
「触んないでよ、穢らわしい」
「穢らわしいだと。何処がだよ」
「馬鹿が伝染る」
「この糞アマ。いい加減、堪忍袋の尾も切れるぞ」
「勝手に切ってれば。警察呼ぶから」
「おい、江木澤、こんな女とは即刻離婚しろ」
「なに馬鹿なこと云ってるんだよ」
「おまえ、趣味悪過ぎるぞ。頭おかしいんじゃねえのか」
「お父さん、頭おかしいの?」
「閎一、こんな馬鹿の云うこと聞いちゃ駄目よ。こっちいらっしゃい、馬鹿が伝染するから」
 そう云って、お母さんはコーイチ君をリビングから連れてゆきました。

 木下の小父さんは帰りがけ、自分の靴に突っ込まれたパイを見ると、下駄箱にあったお母さんの靴を全部アパートの外に投げ棄てました。こんな大人になってはいけません。

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