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 猫が増えた。飼っている三匹の猫を予防接種の為に獣医に連れて行ったら、捨て猫を見せられたのだ。まだ仔猫だったが、何をしたのか片目が潰れている。毛足の長い黒い猫で、雄だった。
「これじゃあ引き取り手がないだろうね。保健所に連れてゆく訳にもいかないし」
「保健所に連れて行くとどうなるんですか」
「犬の場合は飼い主が見つかるまで暫く生かしておくんだけど、猫はすぐに殺されちゃう」
「どうやって?」
「生きたまま焼却炉に突っ込んじゃうらしいね」
 そんなことを聞かされて知らない振りをする訳にもいくまい。巧く乗せられたような気もするが、三匹飼うのも四匹飼うのも同じだろうと思い、引き取ることにした。アパートはペットを飼ってもいいが、如何せん狭い。人間がふたり居る上に、2Kで猫四匹では多過ぎる。妻の清世も呆れていた。
「名前はどうしますか」
「うーん、片目だからタンゲにするか」
「なんですか、それ」
「丹下左膳を知らんのか」
「知りません」
「林不忘の時代小説に出て来る片目の剣士だよ」
 そうなんですか、と云って、清世は黒猫を撫でて「タンゲ、タンゲ」と呼んでいた。猫は反応が鈍く、見えている方の目も閉じて背を縮こまらせている。他の猫は興味深そうに覗き込んでいたが、すぐに離れていった。
 一番年嵩のコロは最近元気がなく、食も細ってきた。もう老年なので仕方がない。若い頃はおれに悪さばかりしたが、もうそんな体力も気力もないらしい。窓際に香箱を作って、一日中じっとしている。ゴンタも活発に動き廻ったりしなくなった。クツシタはいつもおれの肩に乗っかってきたものだが、近頃は寝そべってばかりいる。
 タンゲは二、三日すると、そこらを歩き廻り、ベッドを住処にすることにしたようだ。大抵、布団の中にもぐり込んでいた。雄猫にしてはあまり行動的ではない。片目が見えないからだろうか。他の猫とも遊ばなかった。撫でてやると気持ち良さそうにごろごろと喉を鳴らす。人間には寄ってくる。
「どうもタンゲは猫が嫌いらしいな」
「そうですね。他の子たちもあまり寄っていきませんし」
「苛められてないか」
「それはないですよ、タンゲはいつも寝室に居ますし、ご飯もトイレもタンゲのは別にしましたから」
「寝室の方にばっか篭ってたらよけい他の奴らと馴染まないだろ。飯と便所はこっちにしたらどうだ」
「でも、もう此方には物を置くスペースがないんです」
「うーん。うーん……。どうしたもんかな」
「そのうち慣れてきますよ、今はまだいろいろなことが判ってないんじゃないんですか」
 そんなことを云う清世はまるで母親のようである。気の毒なことに人間の親にはなれなかった。三十七の時に入籍したが、もう子供は望めないだろう。どうやら彼女は胎盤が弱いらしく、何度か妊娠したが、安定期に差し掛かる前に流れてしまう。その度にすみませんと云って大泣きするので、諦めた。
 精液検査をさせられそうになったが、きっぱりお断りした。病院の便所でエロ本渡されてせんずりなんぞかけるか、馬鹿野郎。しかもその結果をコップに入れて看護婦に渡さねばならぬのだ。顔から火が出るどころの騒ぎではない。悶絶死する。
 そこまでして子供が慾しい訳ではない。

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 タンゲは清世が云う通り、少しづつ拠点をベッドから隣の部屋(居間とはとても云えない)へ移してきた。最初はゴンタに近づいて行った。やはり男同士の方が子供のうちはいいのだろう。ゴンタもちゃんと相手をしてやっていた。こいつはもともと懐っこい性格をしている。
 やがて、好奇心旺盛なクツシタもその中に入って遊ぶようになってきた。コロも気分を害しているようではなかった。が、どうにも元気がない。食慾もかなり落ちた。清世が気を遣ってコロにだけ特別なものを与えたが、変化はなかった。
 年だから仕方がないが、まだ十三年しか生きていない。人間の年齢に換算すると八十才くらいである。高齢ではあるが、人間ならばまだ生きられる年だ。
 が、そうはいかなかった。
 清世が出掛けて、おれがひとりで居る時、いつも窓際で香箱を作っているコロの周りに三匹の猫が集まって頻りに匂いを嗅いでいた。気になって見に行くと、体は陽射しで暖かったが、明らかに死んでいる。汚れた雑巾のような模様の体毛は脂っ気がなく、ぼさぼさになっていた。
 抱き上げてタオルでくるみ、空き箱に詰めた。二十五の時、キタロウが拾った猫を引き取って慾しいと清世に頼んでから十三年。おれも清世も動物を飼ったことがなかったが、あれこれ調べて出来るだけ最適な環境で育てたつもりだった。それは人間側の得手勝手な感覚だったのかも知れない。
 清世に連絡をすると、慌てて戻ってきた。
「どうして……。今朝は普通にしていたのに」
「寿命だろ、仕方がないよ」
 彼女は箱の上にかがみ込んで泣いていた。なんと云って慰めていいか判らない。子供の頃もそうだった。自分の不器用さが歯痒くてならない。猫が死んだ場合、どうすればいいのか判らないので、掛かりつけの獣医に電話をして訊いてみた。
「そうですか、コロちゃん亡くなりましたか。まだ早いような気もするけど、野良猫なんかは三、四年で死んじゃうからね」
「そう思って外へは出さないようにしていたんですけどね。どうすればいいんでしょう」
「ペット霊園を紹介するから、そこへ連れて行けばいいですよ」
 南地区にあるペット霊園にコロの入った箱を持って清世と車で赴いた。霊園と謂うよりは大きな寺だったが、焼却炉があった。住職がお経を上げて、坊主が箱を持って行く後に従った。小さな猫はすぐに燃え尽きた。残ったか細い骨を玩具の様な骨壺に入れ、それを住職が共同の墓地にある石碑の下に収めた。
「人間も動物も、生まれる前も死んだ後も同じ処に居ます。その時はどんな姿もしていません。何に生まれるか決まるまでは、無定形の靄のようなものなんです。母親のお腹に宿るまでそこに居ます。何になるか選ぶことは出来ないんですよ。あなたもわたしも、元は猫だったのかも知れませんし、魚だったのかも知れません」
 清世は住職の話を熱心に聞いていた。おれはその在り来たりな話を上の空で聞いていた。何を云われてもコロは死んでしまったのだし、そのことに思い煩って自分たちの生活や今、生きている猫をないがしろにする訳にはいかない。
 現実はきれいごとでは済まされない。飯を喰って排泄して、寝て起きて、凡庸な暮らしに埋没する。細かいことを考えていては生きてゆかれないのだ。
「コロは幸せだったのでしょうか」
「どうだろうな。猫の考えることは判らないけど、此方が満足していればそれでいいんじゃないか」
「そうですね、訊いてみる訳にはいきませんものね」
 アパートに戻ると、三匹の猫は何事もなかったようにおれたちを迎えた。動物は過去を振り返らない。親が死のうと子供が死のうと、長々と嘆いたりはしない。無駄な感情を放出させるのは人間だけだ。生きるのに必要なのは、現実に向き合う能力だけである。
 身近な者の死には何度か立ち会った。就職先の社長には随分可愛がられたが、僅か二年で亡くなった。もともと病弱なひとだったらしいが、肺癌に因る心不全で、三十二才という若さで死んで了った。
 親しくしていた聾唖の広告デザイナーの恋人は車に跳ねられて死んだ。仲のいいふたりだった。ものを云えぬ彼は、その悲しみを身のうちに閉じ込めて、ただ黙って現実を受け入れているようだった。
 まだ大学生の頃に知り合った影郎という青年は、トラックに轢き潰された。あまりにも凄惨なその遺体に対面した時、何も云うことが出来なかった。こんなことがあっていいものか、と思った。屈託がなく、子供のような彼は、おれに懐いてきてよく話をした。
 そうした存在が自分を形成するなにがしかになっている。コロもそうなるだろう。彼らの死を無駄にしてはいけない。残された人間は、逝って仕舞った者が遣り残したことを、譬え別の形でも成し遂げなければならない。そうして、遺志は引き継がれるのだ。

 拘束された手首と足首を
 ぎりぎりと赤と緑のタイヤが踏みつぶしてゆく
 彼が何をしたというのだろう
 此処までのことをされる
 何をしたというのだろう

 誰かの生命を誰かが蹂躙するのは許されないことで
 そんな権利などは何処にもなくて
 それでも
 彼の発する聴くに絶えない悲鳴を
 皆は愉しみ
 拍手喝采する
 指をさして喜ぶ

 彼は ひとを殺めた訳ではない
 彼は なにかを盗んだ訳でもない
 彼は 何もしなかった
 ただ なにもしなかっただけだった

 ひとり静かに
 ひとり静かに
 生きていただけだった

 それが罪になるのだろうか

 彼は 誰とも話すことはなかった
 何故なら 耳が聞こえず 目も碌に見えず
 電話もテレビもラジオもなくて
 外へ出ると 恐ろしさのあまり
 立ち竦んでしまうからだった

 それが罪になるのだろうか

 彼の周りには
 誰も居なかった
 彼に判るように
 ものごとを知らせるひとが居なかった

 彼は
 無人島に居るロビンソン・クルーソーより孤独だった

 残酷なひとびとは
 彼を切り刻む
 彼には何が起きているのか
 判らない
 体を貫く痛みに
 はじめて
 何ごとかが自分に起きているのを
 うすぼんやりと知るしかなかった

 ひとは何故
 此れ程までに残酷になれるのか
 何故 ひとを疵つけ傷めつけ 平気でいられるのか

 ああ 神様
 もし本当に居られるのならば
 教えて慾しい
 どうして弱いものばかりが
 踏みつけられ
 痛めつけられ
 涙を流し
 それを堪えなくてはならないのかを

 どうして残された者は
 涙を流すことすら許されないのかを

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