どこかへいこう
ぼくの隣の家に住むミキは、中学に入って暫くしたら、自分の部屋に閉じ籠って出てこなくなってしまった。両親がどれだけ説得しても、優しく話し掛けても、 何も云わず、母親が扉の前に置いた食事をほんの少し食べるだけで、姿をいっさい見せなくなってしまったという。
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うちの両親と隣の水浦夫妻は、たまたま新興住宅地に越してきた時期が同じで、父親同士が偶然にも同じ年令で母親同士がすぐに仲良くなり(うちの母は父より三才上なので、ミキの母親とは五才の年齢差があるだが)、子供の居ない隣の水浦夫妻はぼくのことを我が子のように可愛がってくれた。
此処に越してきた頃は既にぼくは幼稚園に通っており、母は元の仕事に戻っていた。隣のおばさんは(おばさんと云っては申し訳ないような年齢だったのではあるが)喜んでぼくの面倒を見てくれた。両家の共通の話題は家のローン返済のことで、あとは水越家に子供がなかなか出来ない、という話題だった。勿論、四才の幼児にそこまで詳しいことが判る筈もなく、断片的に「ローンのキンリが……」「退職金が思ったより少なかったら……」「ヨー君みたいな可愛い子が居て……」という大人たちの会話の記憶から類推して、後で思ったのことなのだが。
ぼくが両親からも隣の水浦夫妻からも「ヨ-君」と呼ばれるのは、名前がカナメで、漢字で書くと「要」だからだ。誰もがぼくのことを「ヨー君」と呼んだ。祖父母も(両方とも健在だった)親戚も、友達も、誰もが示し合わせたようにヨ-君と呼んだ。おかげで自分でも時々「カナメ」という本名を忘れてしまうくらいだった。
そして、ぼくが小学校に上がった年に、隣の奥さんが待望の子供を身籠った。
ぼくは子供を身籠った女のひとというのは皆、大きなお腹をしていると思っていたので、隣のおばさんが嬉しそうにぼくに向かって「このお腹の中に赤ちゃんがいるのよ」と云ってもピンとこなかった。何故なら、おばさんのお腹はぺったんこだったからである。
しかし、そのうち傍目にも判るほどおばさんのお腹は大きくなり、手を当てると何かが動く気配がした。ぼくにはそれが少し怖かった。映画にも『悪魔の赤ちゃん』や『ローズマリーの赤ちゃん』などがあるように、お腹の中に別の人間が入っているというのは、女性にとってどうなのか判らないが、男にとっては一種無気味なものに感じられる。子供でも、赤ちゃんが隣のおばさんの中に居る、そう思うと少し気味が悪かった。
そして年も改まり、四月の終わりにミキは生まれた。
はじめて見た赤ん坊のミキは、ベビーベッドの柵の向こうで真っ赤な顔をして目蓋が膨れたようになっており、可愛いというよりは不細工極まりなかった。が、大人たちは、口々に「可愛い赤ちゃんね」と云っている。大人は嘘が上手いなあ、と思い乍らその光景を眺めていた。
隣のおばさんがベビーベッドの赤ん坊が見やすいように踏み台を持ってきて、そこへぼくを立たせると、「ほら、ミキちゃん。ヨー君よ、あなたのお兄ちゃん」
おばさんは、 ものを考えることすら碌に出来ないであろう赤ん坊のミキに向かって紹介した。ぼくは仕方なく、ミキの赤いほっぺたを突ついてみた。すると、ミキは何が面白いのか、なんとも表現のしがたい声で笑って、ぼくのひとさし指を小さな、本当に人間のものとは思われないような、ちいさな手で握った。
その時はじめて、この頼りない赤い生きものが人間の赤ちゃんであることが認識され、不本意ながらこれはすごく可愛らしい、と認めざるを得なかった。ぼくはこの時点で、「ミキのお兄ちゃん」となったのだ。
ズル剥けのような、まさに『赤子』だった時期はやがて終わり、おむつなんかのコマーシャルに出てくる愛らしい赤ちゃんにミキは変わっていった。ぼくは誰も居ない自分の家にランドセルを放り投げて、ミキが産まれる前と同じように隣の家へ通った。
ミキはどんどん変わっていった。「ばー」やら「だー」くらいの喃語しか云えなかったのが、はいはいするようになり、摑まり立ちが出来るようになり、ぼくの方へよちよちと歩いてくるようになった。
両家の親とぼく自身も驚いたのが、彼女がはじめて意味のある言葉を発したのが「ママ」でも「パパ」でもなく、「ヨーくん」だったことである。はっきりぼくを指さして、「ヨーくん」と喋ったのだ。
ぼくは慌てておばさんを呼んだ。
「なあに?」
そう云って台所の方から、ベビーベッドの置かれた居間へやって来たおばさんに、この赤ん坊が今、発した言葉について伝えた。おばさんは、 ほんと? と云ってミキを覗き込んだ。すると、ミキは母親ではなく、ぼくの方に両手を差し出し、もう一度「ヨーくん」と拙いながらもそう云った。
「すごいわ、 ちゃんと喋った。ああ、カメラ、カメラ持ってこなくちゃ」
隣のおばさんは泡のついた皿を持ったまま、慌ててビデオカメラを取りに行った。皿を片手に、もう片方にカメラを持ったおばさんは、スイッチ、スイッチ、と泡を喰っていたので、「おばさん、取り敢えずお皿をどこかに置いたら」とぼくは云った。おばさんは、「ああ、そうね」と云って皿をソファーに置いた。デジタル・ビデオカメラの操作に四苦八苦しているのを見兼ねたぼくは、カメラを受け取り、ミキを撮影出来るようにセッティングした。
おばさんにカメラを渡すと、「もう一度云ってくれるかしら。ヨー君、ミキに何か云ってあげて」とぼくをせっついた。そう云われても、なんのきっかけもなく「ヨ-君」とミキが云っただけなのだから、ぼくはどうすればいいのか判らなかった。
取り敢えず、一番お気に入りだと思われるひよこのぬいぐるみを、ピフピフ鳴らしてみた。ミキは、「あー、あー」と笑うだけである。ひよこのぬいぐるみの横から顔を覗かせて、「ほら、もういっぺん云ってみな」ぼくがそう云うと、嬉しそうに此方へ方に手を伸ばし、「ヨーくん」とはっきり喋った。おばさんはきゃあきゃあとはしゃいで喜び、ぼくは何故だか誇らしい気分になった。
そしてぼくは、ベビーベッドに寝転がっているミキの顔に被さるように身を乗り出し、ヨ-君だよ、ぼくがヨー君だよ、と呪文のように繰り返し呟いた。
「ぼくがヨーくんだよ」
ミキが幼稚園に通うようになると、隣のおばさんは恐らく家のローンの為なのであろう、パートタイムで働きはじめた。ぼくはランドセルを背負ってミキの通う保育園へ迎えに行き、家に連れて戻る、という毎日が続いた。
彼女はひと見知りで引っ込み思案な性格に育っていた。ぼくの前ではそんなことはなかったので、それは隣のおばさんから聞いた話だったのだけれど。
慥かに、幼稚園に友達は居るのかと訊いても、「いない」と云うばかりで、なんで、と重ねて訊いたら「知らない子ばっかだもん」と不服そうに答えた。誰でも最初は知らないひとなんだよ、と云っても、「ヨ-君ははじめから知ってる」ミキはそう云って、画用紙にクレヨンでなんだか判らない絵を描いていた。肌色に塗られた丸いものに黒のクレヨンで髪の毛らしき線を描き込み、目鼻を描いて、「これヨー君」とミキは云った。
それより前に描いた大きな家にちいさな黒い人陰がふたりと、髪を結んだ女の子が描かれている絵を見た。この黒い小さいひとは誰なのかと訊ねたら、「お父さんとお母さん」と答えた。髪を結んだ女の子はミキであることは察しがついたが、何故、自分の両親をこんなに小さく、ただの黒い線で描くのだろうと、その時ぼくは思った。
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ぼくが中学生になり、受験勉強に忙しくなった頃、ミキは小学校に上がり、早くも問題児となっていた。他の子供とひとことも口を利かない、授業で名前を呼ばれても何も云わない、協調性がない、休み時間は誰とも遊ばず校庭のすみっこでじっと座っている、等々……。
両親は学校に呼び出され、このままでは他の児童にも差し障りがあるので、養護学校へ行くことも検討して下さいと云われて帰ってきた。
その晩、水浦夫妻は憔悴した顔をして家にやってきて、どうしたらいいのだろうか、ヨー君の時にはこういうことはなかったか、とぼくの親に相談を持ちかけてきた。
ミキはぼくと居る時は普通に喋るし、遊んでいるし、絵を描いたりするし、それだってぼくの見る限り異常な絵じゃないよ、と何故かその場に居合わせたぼくは云った。
彼女の両親はふたりしてぼくの方を鬼気迫る目つきで見て、「その絵を見せて」と云った。その迫力にたじろぎながらも、ぼくはなんとなく取って置いたミキの絵を部屋から持ってきて、彼女の両親に見せた。ふたりともその絵をまじまじと見て、不思議なものでも見るような目でぼくを見つめた。そして、呆然とした様子で、丸めた画用紙をぼくに手渡した。
それを広げてみると、描かれていたのは、真っ赤に塗りつぶされた四角い家らしきもの(窓が幾つか描かれているので恐らく学校だろう)、その周りに黒いひとのようなものが何人か描かれ、その人物は緑と紫色で縁取られていた。人物を描いた絵はどれも小さく画用紙の縁に追いやられ、それらはすべて黒く描かれて、周りには緑と紫の縁取りがオーラのように取り巻いている。そして建物は皆、真っ赤に塗り潰されている。
中学三年生の子供の目から見ても、それは何か空恐ろしいものを感じさせる絵だった。
ぼくの前では普通にひまわりの花とか、クリスマスツリーとかを稚拙ながらもしっかりした線で描き、きれいに色を塗ってゆくのに、隣のおじさんが見せる絵はどれもこれも線はギシギシと歪み、途中でクレヨンが折れた跡などもあり、 絵の具もぶちまけたとしか云いようのない塗り方がされていた。
ぼくはそれを見て、「精神科医に診てもらった方がいいんじゃないかなあ」と呟いた。隣のおばさんはそれを聞くと泣き出してしまった。おじさんはその肩を抱いて取り敢えずそうしよう、と云っていた。中学生の言葉をそんな簡単に鵜呑みにする訳はないので、彼ら夫婦の間でそういった話が既に為されていたのだろう。
ぼくが公立の受験に失敗し、滑り止めの高校に進学した頃、ミキは完全に自分の中に閉じ籠って仕舞っていた。何故かぼくにだけは普通の年相応の子供らしい態度に豹変するので(豹変、といっても、そうじゃない状態をぼくは知らなかったのだが)、水浦夫妻は縋るような目で、勉強に差し障りのない程度でいいから娘の傍に居てやってくれ、と頼んできた。ぼくは云われるまでもなくミキのことは心配だったし、学校でアルバイトが禁止されていたこともあって、 放課後は友達の誘いも凡て断り、隣の家に直行する日々が続いた。
ミキはなんとか自分の中で折り合いをつけたのか、養護学校へやられることもなく小学校に通っていたが、やはり級友と口も利かず、授業でもなんの発言もせず、休み時間は校庭の隅にじっと座って居るだけだという。ミキが養護学校に行くのを免れたのは、成績がクラスでトップだからだという、ただそれだけの理由だったのかも知れない。ミキ自身、自分がクラスのお荷物で、先生や両親を困らせる存在だということは理解しているようだった。
ぼくは自分が小学生だった頃はどんな風だっただろうか、と考えてみた。まだ受験などの存在は認識すらしておらず、勉強もさして難しいことを強いられる訳でもなく、休み時間にはドッジボールやなんかをしていたくらいの記憶しかなかった。中学受験をする奴らは兎も角、近くの公立中学に進むぼくらの仲間は、呑気に子供らしい遊びに耽っていた。
彼女が部屋に籠ってから二週間を過ぎたくらいの頃、恰度休みだったこともあり、隣のおばさんに頼まれて午の食事を彼女の部屋に運んだことがあった。おばさんによると、大切にしていた赤ちゃんの頃に買い与えたぬいぐるみを、部屋に籠る前、凡て庭に投げ捨てたのだそうである。
おばさんはそれを見て、慌てて洗濯籠に全部拾い集め、居間の棚に飾り直した。おしゃぶり代わりにして目が取れ掛かっていたり、ぼわぼわした毛が剥げて仕舞っているものばかりだった。それくらいミキにとってお気に入りの品で、大切な思い出の詰まったものだったのが判る。
「いつかこのぬいぐるみが恋しくなって、あの子が部屋から出てきそうな気がして……」と、おばさんは声を詰まらせて云った。娘がお腹に居た時、あんなに希望に満ち溢れて満面の笑顔だった彼女は、ミキの症状が悪化するごとに萎びたようになってゆき、今や白髪もちらほら見えるほどになっている。こんな状態が続くと、水浦さんの家はどうにかなってしまうのではないだろうか、と不安に駆られた
この頃、ミキの部屋にはコンピューターもなく、女の子らしいものも置かれておらず、実に寒々しく殺風景に見えた。
ミキはぼくの前ではごく普通の小学生だった。ぼくが行こうと云えば近くの児童公園にだって行った。それを見て隣のおばさんは声を殺して泣いていたが、ミキはそんな母親のことなど一顧だにしなかった。
公園のブランコに乗って、ぼくはミキの背を押した。高く揺れるブランコに、すごいすごいとミキは笑っていた。ぼくは少し怖かった。ブランコから落ちたら大怪我をするだろうし、それよりも彼女が晴れわたった青空に、そのまま吸い込まれていったらどうしようかと思ったのだ。
高校一年生と小学三年生との間には、はっきり云って共通の話題などある筈もない。しかし学校のことを訊くのは憚られたので、最初は好きなものは何か、外国旅行をするなら何処に行ってみたいか、などと他愛無い話をするしかなかった。
それよりミキはぼくの学校生活に興味があるようだった。
中学から高校に上がる時に、ヨー君はなんかいつも怒ったような顔をしていた、と云うので、高校に入るのには難しいテストを受けなくちゃならないからピリピリしてたんだよ、と答えた。小学校でもテストがあるよ、そうミキは云ったが、そんなのと比べ物にならないくらい難しいし、失敗したら大変なんだと、ぼくは答えた。
「なんで大変なの?」ミキは不思議そうに首を傾げ、此方を見遣った。
「うーん、大袈裟かも知れないけど、人生の半分ぐらいがそれに受かるか落ちるかで決まっちゃうから」
自分で云っておきながら、そうなのか? とぼくは思った。 高校受験の失敗くらいで人生が変わってしまうのだろうか、と考えた。
ぼくは高校二年になり、真剣に大学受験の準備に取り掛からなくてはならなくなった。
新しく編成されたクラスに、飯森孝一という男が居た。彼は授業もなく半日で帰れる初日に、いきなりぼくに声を掛けてきた。
「おまえ、ヨーってんだろ」
彼はぼくの机に手をついて云った。ひょろ長い軀の細い目をした彼を見て、同じ学校に進学した友人から、「クラスに変な奴がいてさ、ひょろっとしてて切れ長の眼して、なんか怖くて顔合わせらんないんだよな」という話を聞いたことがあったのを思い出した。
「ヨーじゃないよ、カナメって読むんだ」ぼくがむっとして答えたら、「おまえは要って顔じゃないな」飯森はぼそっと呟き、じゃあな、と云い残し去って行った。変な奴だな、とその時は思ったが、彼とはその後ちょくちょく話すようになった。かといって親友という訳でもなく、ただの話友達に過ぎなかった。
そして、勉強も忙しくなり、ミキの処へ行ってやれる時間も少なくなってきた。そんな頃、どうしたはずみかぼくのことを好きだという女の子が現れた。中学の時も、高校に上がってからも、バレンタインデーになると幾つかのチョコレートが靴箱やらロッカーに入っていて、級友たちからからかわれたものだが、肝心の自分が想っている女の子からのものはなくて、半ば自棄糞で全部他の奴らにくれてやっていた。
ぼくとしては自分がもてるとは思ってもいなかったので、その娘から「つき合って下さい」と云われた時は、誰かが仕組んだ悪戯だと思ったくらいである。はっきりいってその娘の顔も見たことがなかったし、名前を云われても聞いた覚えもなかった。
彼女は隣のクラスのキシモリヨリコという娘だった。断る謂れもないので、「はあ、そうですか」とまぬけな返事をして、ぼくは彼女とつき合うことになった。
夏休みが目前に迫っていた。受験前の高校生には、甘い誘惑を如何に躱すかが、後の勝敗を決する時期である。二年生といえどもそうだったのだ。ぼくはそれなりに頑張っても目標よりレベルの低い私立高校にしか入れなかった負い目もあり、大学くらいは親が納得出来るだけの国公立の大学に進まなければならないと思っていた。そうじゃなくても、ふたりして働いて、家のローンと子供の学費に頭を悩ませている両親に、私立の大学に息子を通わす余裕などないことは判っていた。
ヨリコとは互いの家で受験に向けての勉強するのが殆どで、たまに彼女の買い物につき合うのがデートといえばデートのようなものである。ミキにはそんな合間を縫って、週に一度くらい様子を見に行く程度だった。
或る日、ヨリコと午前中からぼくの部屋でコンピューターの受験用のテキストを見ながら去年の試験問題を頭を突き合わせて解いていた。
「こんなまだ習ってない問題なんか判んないよ」彼女はシャープペンシルを放り投げた。これは習ってたやつにこの公式を当て嵌めれば……、と説明しているぼくの肩に彼女はするすると蛇のように手を廻して、頬にやわらかい唇をそっとあてた。驚いて彼女の方を見遣ると、「ヨー君、真面目すぎ」と不満そうに云った。夏休みでぼくたちも休み気分満載で、その上と云っては何だが、世間的には平日で両親は居なかった。
ぼくがいつも独りで眠るベッドに、彼女とふたりでどちらからともなく横たわった。窓の外からは蝉の声がしていた。彼女もぼくもこういったことはじめてで、それは実にぎこちない体験だった。暫く顔を見ていない、隣の家にひとりぼっちで居るであろうミキのことを考えて、ぼくはどうしようもない罪悪感にかられた。ヨリコは痛いような切ないような顔をしていたが、はっきり云ってぼくは欲望の赴くままその行為を終わらせた。
「なに考えてるの」ヨリコに訊ねられて、「ぼんやりしてただけだよ」と、適当な返事をした。彼女はぼくの胸に顔を寄せ、「ぎゅって抱き締めて」と云った。彼女を抱き締めても、現実と妄想の境界が曖昧になってゆくばかりだった。
「ヨー君は攫みどころがなくて、斯うしていないとどこかへ行っちゃいそうで怖い」彼女はそう呟いた。そんな風に見えるのかな、と思って彼女をもっと強く抱き締めて、これだったら怖くない? そう訊ねたら、ヨリコはぼくの胸に顔を押しつけ、小さく「うん」と答えた。
これだったら怖くないかという言葉は、本来ならばミキを安心させてやって掛けてやる言葉なのだ。こんな戯れに使っていないで、ミキに云わなければならなかったのだ。
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ぼくはそれなりに勉強していたが、これといった目標もなかったので、大概の目標のない学生が選ぶそこそこの大学の、文系の学科に進んだ。私立でなかったのがせめてもの救いだった。ヨリコとは高校を卒業するまで関係は続いたが、春休みの大学に進む前の、学生が一番閑な時期に振られた。彼女は何度もごめんなさいと云って涙を流し、ぼくの方が申し訳なくなってきて、彼女の濡れた頬をポケットから出したくしゃくしゃのハンカチで拭ってやった。
「ヨー君はなんにも悪くないの、あたしが悪いの。ヨ-君は優しすぎて、あたしは甘えてばっかいて……」
彼女は頻りにごめんなさいとぽろぽろ涙を零した。彼女に謝られるような覚えはなかったので、そんなことないよ、と云うしかなかった。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったぼくのハンカチを握りしめて「このハンカチ、 もらってもいい?」と彼女は訊いてきた。そんなものどうでもよかったので「いいよ」と答えたら、ヨ-君のこと、絶対忘れないから、そう云ってヨリコは小走りに去って行った。
取り残されたぼくは、彼女に新しい男が出来たのだということくらいは察しがついたが、何故あんなに未練がましく、芝居がかった様子で去ってゆくのだろう、とぼんやり考えていた。正直云って余りにも陳腐な別れで、悲しくもなんともなかった。
女はどうだか知らないが、男にとって大学の文学部に進学するということは、社会に出るまでの猶予期間といったもので、就職には殆ど役に立たないと云っていい。それでも一年のうちは総合科目として苦手な理数系の科目や、まさか大学に行ってまでやらされるとは思わなかった体育までこなして、馬鹿正直に授業に出ていたものだから、試験前になるとぼくのファイルのコピーは同級生の間で高額で取り引きされた。それを仕切っていたのが、何故か同じ大学の同じ学科に進んだ飯森だった。
彼はどうやって手にしたのか知らないが、ぼくが適当にメモした紙までタダでコピーして、皆に売り捌き自分も見せてもらうから、と売り上げの七割をぼくのポケットに捩じ込んだ。五万円近くあった。
「こんな金貰えないよ」
そう云ったら、飯森は「おまえが真面目に授業に出ていた間に遊んでた奴らが喜んで払っていったんだから気にすんなよ」とぼくの肩を叩いた。 彼の言葉から、ノートのコピーを売り捌いたことより、不真面目な奴らから金を巻き上げてやったという義侠心みたいなものをぼくは感じた。
彼は唐突に、「おまえの大事なイモートはどうなんだ」と、訊いてきた。ぼくは彼にだけはミキのことを話していた。悪どいことに長けていたが、いい奴だということはなんとなく判っていたからである。飯森はミキについてもちゃんと真面目にぼくの相談に乗ってくれた。彼女の今の状態を話すと、まだ子供なんだから年頃になってくれば変わるんじゃないかな、と云った。ぼく自身も、子供だから大人にはおかしく思える行動を取るのだろう、くらいに考えていた。
そんなこんなで、はじめての大学生活の夏休みはバイトに明け暮れ、成人になる前の最後の年をそれなりに愉しんで過ごした。なんのサークルにも属さなかったが、『映画研究会』なる部の小森という男が、勧誘する訳でもなく、矢鱈とぼくに話し掛けてきた。誘われるまま新入生歓迎コンパという名の飲み会へも、金は払わなくていいからと誘われて参加した。
殆ど男ばかりだったが、女の子が三人居た。その内のふたりは明るそうな普通の女の子だったが、残りのひとりはぞろりとした長い髪で、殆ど喋らず俯いてばかりなのに、ぼくがそちらを見遣ると必ず目が合った。
この映研の飲み会には何故か度々つき合わされた。『映画研究会』 という名前にしては所謂オタク的というか、閉鎖的な感じではなく、厭ではなかった。そもそも映画について彼等が話し合っている姿など見たことがなかった。
頻りにぼくに話し掛けていた小山はぼくと同じ新入生で、高校生の頃からこの部に出入りしていたのだという。
翌年には無事進級し、ミキは中学校二年生で、部屋に閉じ籠って一年半ほど経った頃だった。ぼくが溜め息をつき乍ら学食の不味い牛丼を食べていると、隣の椅子に飯森がトレイを卓子に置き腰を下ろした。
「なに溜め息ついてるんだよ。またイモートのことか」
「部屋に籠って出てこないんだよ。パソコンは毛布で包んで、ナイロン紐あるだろ、あの黒と黄色のやつ。あれでぐるぐる巻きに縛って、食事も母親がドアの処に置いておくのを誰も見ていない時にこっそり食べて、それでも殆ど残して戻してあるらしいんだ」
ぼくがそう云ったら、でもおまえには会うんだろ、と飯森は訊いてきた。
そうなのだ。親にも滅多に顔を見せないというのに、ぼくには彼女の母親に請われて訪ねてゆくと、ちゃんと会ってくれるのだ。この間の日曜日も、そうしてミキの部屋へ行ったのである。
扉を拳に握った指の関節で軽く叩き、「ミキ、ご飯持ってきたよ」ぼくがそう云ったら、ドアが細く開けられた。隙間から伺うような彼女の目がぼくを認めた。這入っていいかとぼくが訊ねたら、なんとかすり抜けられる程度に扉を開けた。後ろで彼女の母親の嗚咽が聞こえた。
ミキに会うのは三週間振りくらいだった。ぼくもアルバイトや学校関係のつき合いで、ミキのことは放ったらかしにしていた部分がある為、後ろめたい気持ちもあった。部屋に這入り、小さな硝子テーブルにオムライスが載ったお盆を乗せて、腹減ってるだろ、とミキに云った。
はじめのうちは皿の上のオムライスを突つき廻すだけだったが、やがて、ちゃんと食べ出した。もともとそんなに体格の良い方ではなかったのに、まともに食事をしていないものだから、ちょっと見ないうちに彼女は随分痩せてしまっていた。
窓もドアも閉め切り、ミキは風呂にもまったく入っていなかったので、部屋の裡は饐えたような、なんとも云えない匂いがした。それよりぼくがショックを受けたのが例のぐるぐる巻きにされたノート型コンピューターだったのだ。そんなにも外界を受けつけなくなってしまっているのか、という事実がぼくにとっては衝撃的だった。
世間で云われる「引き蘢り」の人間も、インターネットで外界と接触をしている。彼女はそれすらも拒絶しているのかと思うと、どうしていいのか、もうこれは自分の手には負えない、と思った。
そこでぼくは、女の子には一番堪えるであろうことをわざと云った。
「ミキ、風呂入ってないだろ。臭いぞ」
何日も着替えていないと思われる寝巻きをクンクン嗅いで、「くさい?」と、ミキはぼくの目を覗き込んで訊ねてきた。その日はじめて聞いた彼女の声だった。
「うん、はっきり云って臭い」
そうぼくが云ったら、「じゃあ、シャワー浴びてくる」と部屋の外に出た。廊下の端で様子を伺っていた彼女の母親は、娘が部屋から出てきたことに驚嘆し、思わず駆け寄ってきた。母親としては当たり前の行動である。ところが、ミキは母親を押し退けて、また部屋に籠ってしまった。
おばさんは、「ヨー君、ヨー君、どうやってあの娘を部屋から出したの? ご飯は食べたの?」と、ぼくの肩を摑んでゆさぶった。「おばさん、ちょっと落ち着いて。今、ミキは自分でシャワーを浴びるって云って部屋を出たんです。今の反応を見ると、ちょっとおばさんはミキの見えない処にいた方がいいと思う」ぼくは、おろおろするミキの母親を階下へ連れて行った。
再び彼女の部屋のドアの前に戻り、「ミキ、ぼくだけど、シャワー浴びるのか? お母さんはもう居ないよ」そう云うと、そろそろと彼女は部屋から出てきた。 ぼくは勝手知ったる家なので、ミキを浴室に連れて行った。
「自分で出来るよな」と云ったら、黙ってミキは頷いた。それじゃあ、着替えの服持ってくるから、と洗面所の扉を閉めて、ぼくは急いでおばさんの処へ駆けて行った。ミキは今、シャワーを浴びているから、着替えはぼくが用意するんで部屋の掃除と、なんか臭いを消すもの撒いて下さい、と指示をした。
ふたりで慌ただしく彼女がシャワーを終えるまでにあれこれ支度をした。おばさんは掃除機をかけ、シーツと枕カバーを替え、 窓を開けて消臭剤を振りまいた。ぼくは衣装箪笥から服を適当に見繕って風呂場へ持って行った。
ミキはシャワーを浴びてびしょ濡れの姿で風呂場に佇んでいた。バスタオルで包んでやると、焦点の定まらない眼でぼくの方を見て、いきなりしがみついてきた。ぼくは取り敢えず拭けるところだけ拭いて、彼女がしがみついた状態のまま、洗面所の方へ移動させ、もう一枚タオルを取り、髪の毛の水気を取った。
ミキに自分で出来るかと何度も訊くうちに、やっと彼女はタオルを手に取り自分で体を拭き、下着をつけ、ドライヤーで髪を乾かし出した。ドライヤーのスイッチを切った彼女に「服、これでよかったかな」と訊ねたら、黙って頷いた。ブラジャーをつけるほど育っていない、それどころか男の子と変わらないようなぺたんこの胸が丸見えだった。そのか細い体を見て、涙が出そうな気分になった。
「これでいい?」ぼくが持ってきた服を身につけてそう云ったミキを、思わず抱き締めた。「よくやったな」 そう云って彼女の頭を撫でると、ぼくの胸に顔を埋めたミキは、声を押し殺して泣いていた。
何がどうなって、こんなことになってしまったのか。
「ヨーくん」と云ってぼくの手を握った赤ちゃんが、いったいどうして、誰が何をして、こんなことにしてしまったのかまるで判らなかった。ぼくの腕の中で小さな肩をふるわせている少女は、本当にあの赤ん坊と同じ人間なのか、それすら判らなくなって仕舞った。ぼくではどうすることも出来ないところまでミキは行ってしまったのだろうか。理由など、もうどうだっていい。ミキがこんな状態になっている現実だけが、ぼくの前に立ち塞がってた。
ミキと一緒に近所の児童公園へゆき、ブランコに乗せた日のことがありありと思い出された。あの時ぼくは、高くたかくとせがまれてミキの背を押した。あの時、そのまま空に吸い込まれて行ってしまうのではないかという思いが頭を翳めた、暗闇の中で氷に触れたような恐怖。ミキは、その暗闇の中に居るのだろうか。
ぼくに寄り掛かって何とか二階の自室戻ったミキは、出る前と明らかに違う部屋に少し怯えたように立ち竦んだが、「お母さんがきれいにしてくれたんだから平気だよ」と云ったら、そろそろと内へ這入って行った。開け放たれた窓を見て、ぼくは部屋が二階では不味いのではないだろうかと思って覗いてみたが、此処から落ちても先ず死ぬことはないだろうと思い、下手に地続きの一階よりは却っていいかも知れないと判断した。
スウェットの上下を着ただけのミキに寒くないかと訊ねたら、「大丈夫」と蚊の鳴くような声で答えた。外に開いた窓が怖いのではないかと思い、窓を閉めようかと訊いても大丈夫、と返事をするだけだった。
「おまえ、面倒くさいからなんでも大丈夫って云ってないか」
ぼくが怒ったように云ったら、以前のようにくすくす笑って、「そんなことない」そうミキは答えた。彼女の笑顔を見てぼくは心の底から安堵した。今度は彼女の方から、大学は面白い? と訊ねてきた。いろんな奴が居て面白いよ、ぼくが答えると、ふうん、と曖昧な表情をしてミキは呟いた。ぼくは学校関係については極力避けようと思っていたので、ミキの方から大学の話題を振られて正直ほっとした。
「ミキはなんで学校行かないの」ぼくは直接核心に触れてみた。
「みんな訳判んないから」
彼女はそう答えた。以前も同じようなやりとりをしたような気がしたが、誰だって他人のことなんか判らないんだよ、とぼくは云った。「ヨー君のことは判るもん」不貞腐れたようにミキは呟いた。どんな風にと訊いたら、「ヨ-君は、あたしのことを痩せっぽちの小さな子供で、駄々捏ねて学校へ行かないって思ってる」と答えた。まあ、それほど単純に考えてはいなかったが、的外れではない。
じゃあお母さんは、と訊ねたら、「おかしな子供になっちゃって困ってる」と答えた。あながち外れてはいないので、じゃあお父さんは、と訊いてみたら「厄介なことになって困ってる」と云った。
これだけ客観的に物事を捉えていながら、何故自分を制御出来ないのだろう、とぼくは不思議に思った。若しかしたら、彼女が一番自分を持て余しているのではないだろうか。本来なら同性の級友と他愛もない話をして、笑い転げている年齢である。それこそ、「箸が転げても笑う」年頃なのだ。自分が厄介な人間として扱われている、或いはそう思われて周囲を困らせているのが判っていて、何故自分の殻に閉じ籠るのを止めないのだろう。
まるで成鳥になっても小さな巣穴に丸くなって、巣立ちするのを怖がっている小鳥のようだった。ぎゅうぎゅうになってしまった巣穴へ這入ることも出来ず、親鳥たちは近くの枝にとまって為す術もなく戸惑っている。
きっと誰かが、「もう君は自分での翼で飛べるんだよ。あの空を羽ばたいて飛んでゆく自分を想像してごらん」と云ってあげるべきなのだ。けれど、ぼくにはとてもそんなことは云えなかった。ミキがぬくぬくと安心して丸くなっている殻の中から、寒風吹きすさぶ世間に飛んでゆけとは残酷すぎて云えない。
それがぼくにとって残酷なのか、彼女にとって残酷なのかは判らなかった。
少し苛々していた彼女の気分が納まるのを待って、お母さんがミキの為に仕事も辞めて、家からなるべく出ないようにしているのは知ってるのかと訊ねてみたら、知ってる、とそっぽを向いて答えた。それについてはどう思ってるのだと重ねて訊いてみた。
「あたしの為に何度も仕事を休まなきゃならなくて、理由を云うのが厭だから辞めたんだもん。外に出なくしてるのだって近所のひとたちと顔を合わせるのが厭だからだよ」やはり他所を向いたままミキは答えた。
慥かにうちの親も、
「水浦さんのとこも大変よね、せっかく出来た一人娘があんな風じゃねえ」
「ああ、そうだなあ。奥さんもせっかく戻った仕事を辞める羽目になってなあ」
と、食事時に云っていた。そんな考え方をしたらますますミキが追い込まれてゆくじゃないか、と思ったが、黙って箸を置いて席を立つことしかぼくには出来なかった。
「あら、ヨー君。もういいの」と云う母親の声を無視するのが精一杯のぼくの気持ちを訴える術だった。ぼくにだけ心を開く彼女はそんな自分のことをどう考えているのだろうか。いつも優しくしてくれる隣のお兄ちゃんか? こんなに頼りにならない人間じゃなくて、親とか医者とかを信頼してくれよ、と思った。
医者にはちゃんと行ってるのかと訊ねたら、「一週間置きにお母さんが連れてく」と顔を顰め、明白地に厭そうな顔をして彼女は云った。お医者さんはどうなんだと訊ねたら、「馬鹿、デブ、ハゲ」ミキはそう吐き捨てるように云った。
「そりゃないだろ」
「だってほんとのことだもん」と、ミキは膨れっ面をした。彼女は真剣な顔をして、あんなひとにあたしのことなんか、百万年経ったって絶対判らない、ときっぱり云った。だってミキは中学に入ってから一度も医者に行ってないだろ、と彼女の母親から聞いていたことを指摘すると、黙り込んでしまった。
「それじゃあどんな名医だって判る訳ないじゃないか。それに本人が病院に行ってもいないのに、なんで薬が処方されるんだ」
「お母さんがあたしのことを日記につけて、それを持って行くとハゲがそれを見て薬を出すみたい。診察券出せばあたしが行ったっていう記録が残るし」
その言葉を聞いて、 ぼくは病院とはそんないい加減な処なのか、と少々吃驚した。
「ヨー君はあたしのこと、どう思うの」彼女は逆に質問してきた。そんなことを訊かれるとは思わなかったので、「さっきは臭かった」と、思わず答えてしまった。ミキは声を上げて笑い、だからちゃんとシャワー浴びてきたじゃんと云った。
ヨー君の彼女はどうなの? と訊ねられ、現在つき合っている女の子は居ないので、彼女なんか居ないよ、とぼくは答えた。高校の時に会ってた女のひとは? と云われて、やっとミキがヨリコのことを云っているのが判った。
「ああ、あの娘か。卒業式の時に振られちゃったよ」そう云うと、目を見開いて、どうして? と不思議そうに訊いてきた。「どうしてって……、他に好きな奴が出来たんだろ」と答えたら、そのひと、頭おかしいとミキは小さい声乍らも、きっぱり云い切った。
「頭おかしいはないだろ。普通の娘だったし、高校でつき合った相手なんて大概大学に進んだら自然に別れるよ」
然し、彼女はそのひとは変だ、と云って譲らなかった。
その日は夕飯時までミキの部屋に居て、彼女が最近読んだ本とかぼくが最近観た映画のことなどを話した。
彼女が最近読んだ本の中で、一番のお気に入りは『ゾマーさんのこと』というドイツの子供向けの(挿し絵入りだったのでそう判断したのだが)本だった。
ミキから借りて読んでみた。
主人公は少年で、元気いっぱいの子供だ。小さな町(村?)に住んでいて、月曜日に一緒に帰ろうと云った、それまで気にもしていなかった女の子にあっけなく振られてしまい、厳しいピアノの先生にしごかれ、自転車をようやっと漕げるまでに成長してゆく。その町に、ゾマーさんという変わり者の老人が居た。
誰もが知っているが、いつもいつも杖をついて早足で過ぎ去って行くので、誰もが彼のことを変わり者だと思って気にもしない。ああ、変わり者のゾマーさんが行くよ、それでお仕舞い。彼が何処へ行こうと、そこで何をしようと誰も気にしない。そして、或る日のこと。お兄さんのお下がりのぽんこつ自転車を漕いでピアノのレッスンの帰り道、少し大きくなった少年は見てしまう。
冷たい湖に、普通に歩くようにして進んで行って沈んでしまったゾマーさんの姿を。
町の皆はいつものように何処かを歩いているのだろうと気にも留めない。やがて捜索願いが出されるが、ゾマーさんは見つからなかった。少年は、その老人が湖に這入って行くのを止めようと思えば出来たのだった。少年が呼び掛けさえすれば、ゾマーさんは、少なくともその時は湖から上がって来ただろう。捜索願いが出された時に、あのお爺さんは湖の底に沈んでいるのだ、と云うことも出来た筈だった。けれども、彼はそうしなかった。
少年はその方が「ゾマーさんらしい」と判断したからである。
ミキが一見、面白げで、実の処はもの凄く残酷な物語を一番のお気に入りだと云ったのが、ぼくの中に引っ掛かりを残した。何か云おうとした時、ドアがノックされ、ぱたぱたとスリッパの足音が遠ざかって行った。 扉を開けるとふたり分の夕食が床に置かれていた。ぼくはそれを彼女の部屋の小さな硝子のテーブルに乗せて、じゃあ、いただきます、と云って強要するようにして食べ出した。ぼくが食べ出すと彼女も少しづつではあるが食べだし、やがて普通に食べはじめた。
ミキがいきなりぼくに「お酒呑んだことある?」と訊いてきた。 映研の飲み会に参加する以外は酒など飲みに行ったりしないので、ミキには大学知り合いのつき合いで呑んだことがあるよ、と答えた。
「おいしいの?」
「あれは旨いとかなんかより、周りの雰囲気で呑むもんだな」
そう云うと、彼女はよく判らないといった表情を浮かべた。
+
夏休みに入り、ぼくはコンビニエンス・ストアーでアルバイトをはじめた。サークルにも入っていなかったし、時間が余っていたので始めたアルバイトだった。
ぼくがするのはレジ打ちと、十一時頃に搬入される商品のチェックと配送会社のひとの出す伝票に判子を打つこと、搬入された商品を如何に早くお客さんの邪魔にならないように棚に陳列するだけで、こんなことは馬鹿でも出来る。時間は夕方の六時から夜中の三時までのシフトだった。
大学へもコンビニエンス・ストアーへも原附のバイクで通っていた。車の免許は持っていたが、肝心の車を買う金がなかった。土日は高校生のバイトが入るので休みにしてもらって、その休みの日になるべくミキの処へ行くようにしていた。
大学の方も上手くいっていたし、貯金をしてそのうち中古の車でも買おうか、と思っていた。商品出しや、前出し(商品が売れた処へ後ろの物を前に出したり補充する作業)の合間に車の雑誌を立ち読みしたりしていた。安いのは九万とかいうのもあったが、形だけ整っていて動かないんじゃ意味がないので、まともに動きそうで、体裁の悪くない車を(ここら辺りがぼくの俗物性を現わしている。飯森は廃車寸前のホンダ・シティを平気で大学に乗りつけて何処吹く風といった顔をしているというのに)二、三冊ある車専門の雑誌で探していた。
そんな毎日を漫然と繰り返していた或る日の夜。客の入りが切れたので塵芥を捨てに行った。レジはなんというか、人生浪人中といった感じのケルマという青年に頼んでおいた。ケルマといっても外国人ではない。蹴馬というれっきとした十八才の日本人である。
何故年下の彼にゴミ出しを頼まないかと云うと、年下とはいえ仕事上は彼の方が先輩だから(と云っても、彼からは何ひとつ教わっていないのだが)というのもあるが、一度頼んだところ、何を思ったのか彼は袋を引き裂いて、塵芥を客用駐車場にぶちまけて雄叫びを上げたことがあったからだ。店長に怒られたのは、土日以外毎日出勤しているぼくだった。それに懲りて、彼には塵芥出しを頼まないことにしていたのである。
裏口を開けて、表のゴミ箱の袋を交換をして、灰皿の水を切って可燃物の袋に入れ、口を縛り、店内から出た塵芥袋と合わせて三つ下げ、塵芥収納ボックスの蓋を開けようとして、袋を三つも持ってちゃ幾らなんでも無理だな、と思っていたところへ、「手伝いましょうか」と云う女の子の声が背後からした。振り返ると、それは十二時に上がるバイトの女の子だった。
「あれ、もう帰ったんじゃないの」と訊ねたら、
「あの、あたし、木島さんにお話があって……」彼女は俯き加減で此方を見上げ乍ら云った。
ぼくは可燃塵芥を、彼女は不燃塵芥を(不燃塵芥は嵩張る割に汚くないし、軽い)分けて入れ乍ら、話ってなに? と用件を訊ねた。
「あの、今度映画に一緒に行ってくれませんか」
余りにも思い掛けないというか、唐突な彼女の誘いに、ああ、別に構わないよ、と適当に返事をして仕舞った。彼女は、ほんとですか? と飛び上らんばかりにはしゃいだ声を出した。ぼくは金属製の塵芥箱からちょろちょろ流れ出る汚水をホースで流しながら、時間が出来たらでいいかと彼女に訊ねたら、「実はその映画、今週いっぱいなんです」と彼女は云った。それは「今度閑な時」という誘い文句と矛盾しているんじゃないかと思ったが、女の子なんてこんなものかな、と考え直した。
ぼくは彼女の名前すらうろ覚えで、「悪いけど、名前なんだっけ」と思い切って訊ねたら、木島さんらしい、そう嬉しそうに笑ってぼくの肩を叩いた。声を掛けてきた時のぎこちない敬語から、ほんの数分で相手の肩を叩くところまでくだけた状態になるのが、どうにも理解し難い。
その娘は女子大に通う一年生で、名前は江森キョウコといった。慥かに彼女のことを「エモリさん、エモリさん」と呼んでいたが、それはぼくの中では記号化されたもので、同じ上っ張りを着たバイト仲間でしかなかったのだ。
然し、名前を碌に覚えていないのがぼくらしいというのは、一体どういう意味だと受け取ればいいのだろうか。ぼくはそんなに記憶力の悪い、或いは注意力散漫な人間として周囲に認識されているのだろうか。
その場は彼女に云われるまま携帯電話の番号を交換して別れた。ぼくが遅いから気をつけて、と云ったら、彼女は手を振り、スクーターで夜中の街へ去って行った。
何とかギリギリで観た映画は韓国のメロドラマで、結末など観なくてもだいたい想像がついた。それよりも韓国映画ブームがまだ続いていることに驚いた。館内は若者から年寄りまで、客は殆どが女性だった。まだ夕食には早かったので、彼女のゆくがまま、買い物につき合わされた。女ものの服屋が矢鱈と多いことはなんとなく認識してはいたが、これほどとは思わなった。
ぼくが服を買いにゆくといったら、GAPか無印良品、それ以外はユニクロで済ませていた。キョウコはMISS SIXTYでデニムが買いたいと云って、そのブランドの路面店へぼくを連れて行った。
デニムといえば綾織の木綿で頑丈な布のことだろう、彼女は布地を買いたいのか? と思ったらさにあらず、ジーパンがメインの服屋だった。キョウコがあれこれ選んでいる間、服の値段を見てみた。Tシャツ¥9800、ジーパン(今はデニムと云うのか?)が¥15,800から、だ。
キョウコを摑まえて、おまえ、そんなにバイトしてたっけか? と問い質したくなった。コンビニエンス・ストアーの時給なんて夜間といっても九八〇円だ。この時、ぼくは彼女とは価値観も違うし、そもそも住む世界が違う、と思った。
だいたい彼女の服装とぼくの服装が、明らかに釣り合いが取れていなかった。彼女のなんでもないTシャツひとつ取っても、何やらファンシーな絵柄がついてはいるが、きらきらした文字がDiorと主張している。他はよく判らないが、恐らく凡て安くはないものなのだろう。ぼくの着ているのはユニクロのチノパンにGAPの無地のTシャツで、彼女と釣り合っているのは、親が大学入学祝いに買ってくれたラルフ・ローレンのシャツだけである。
だからなんなのだ。ヴィトンやプラダやディオールが何をしたというのだ。湾岸戦争を食い止めたのか? 9.11を未然に防ぐことが出来たのか? その後のアメリカの理不尽なイラク攻撃に異を唱えたのか? カンボジアやアフリカの難民を助けたか? 南アフリカのアパルトヘイト解放に少しでも尽力したのか? 第二次大戦中にナチスの将校と遊びまくっていた(恐らく、今一番恰好いいのはナチスよ、くらいの感覚で)ココ・シャネルが、ニュルンベルク裁判に掛けられたことを知っているのか?
そんな意味のない怒りとともにミスなんとかを出て、「バイトがあるから」と云ってキョウコと別れた。ケルマの雄叫びの意味が少し判るような気がした(とはいえ、彼の雄叫びとは発するところの意味合いが違うと思うが)。
次に「デート」で連れて行かれたのは、こともあろうに某外資系の遊園地だった。その場で気絶して救急車で運び出してもらいたくなった。然し、気を失う前にぼくが見たのは、彼女の手にあるその遊園地の年間パスポートだった。ゲートの向こうに広がるのは、永遠に大人にならない国。そう考えた時、ぼくはミキを思い出した。
ミキは大人になりたくないのだろうか。
着ぐるみのキャラクターたちと並んだキョウコの写真を撮って、彼女の乗りたいもの、ゆきたい処へ足を向けるうちに、これは狂人が作った王国だ、と思った。世間の汚いものや醜いものを遮蔽した引き籠りの人間や、オタクと呼ばれる人間や、世の中に迎合してゆけない自傷癖のある少女が思い描いている世界とは可成り懸け離れているけれど、世間から隔絶しているという点ではどちらも大差ないと思った。
此処に在るのは偽物の笑顔を張りつけた着ぐるみの人形や、パステルカラーのお姫様や王子様だ。醜く歪んだ畸形的な夢の世界だ。気持ち悪い、きもちわるい、頭がぐるぐるする、と思っていたら、お伽の国をミニチュアで再現した、ガリバー旅行記のような処で嘔吐していた。
「大丈夫、だいじょうぶ?」そう云うキョウコの声を聴覚の何処かで聞き乍ら、早くこの狂った世界から連れ出して欲しいと願っていた。
そんなことがあってもキョウコはぼくの何処がいいのか、つき合うのをやめようとしなかった。趣味も嗜好も違うのだからいい加減離れて行ってくれよ、と何度も思ったが、そう思った頃に電話が掛かってきて、彼女の声を聞くと「いいよ」と答えている自分が居た。数回会っただけで、彼女はあっさりと自分の住むアパートの部屋にぼくを迎え入れた。
さして広くない部屋の中で、若い男女がいつまでもちんまり座っている訳がない。ましてや将棋や花札やチンチロリンに熱中する確率は、限り無くゼロに近い。この年頃の男としてアドバイスするのだが、娘を大学にやる時は絶対にひとり暮しをさせない方がいい。
コンビニエンス・ストアーでアルバイトするくらいだからキョウコは真面目な方であると思うし、ぼく自身も自他共に認める真面目な人間なのだが、それでもこういう安易な肉体関係に嵌まり込んでしまうのだ。キョウコと「おつき合い」をして夏休みも半ばの頃、ベッドの中で彼女が来週実家に帰るの、と云うのを、ああ、お盆だからな、とぼんやり考えて居たら携帯電話の呼び出し音が鳴った。
ほっとけば、と云う彼女の言葉を無視して携帯電話に手を伸ばした。虫の知らせというものかも知れない。
それは母親からだった。通話ボタンを押し、なに? と、彼女の手前、若干ぶっきらぼうに訊ねたら。電話の向こうからは、「ミキちゃんが……ミキちゃんが自殺を……」という慌てふためいた声が聞こえてきた。
「は? なに、判んないよ。ミキがどうかしたの?」
慌てて訊き直しているぼくを、キョウコはしらけた様子で跨ぎ越し、さっさと寝間着に着替えはじめていた。彼女の冷たい視線を浴び乍ら、ぼくは混乱した頭で服を着て、また連絡するからと云い残し、彼女の部屋を出た。
原附バイクを飛ばし、母から聞いた病院に駆けつけた。
ミキは毎晩母親から渡される睡眠薬を一年間溜め込んで、それを一度に飲んだのだという。幸い発見が早かった為、胃洗浄で殆どの薬は出たのだそうだ。彼女は点滴を打たれ、カテーテルから直接尿が出るようにされて、小便が溜まる袋がベッドに引っ掛けられていた。ぼくは管の刺さったその華奢な手を取って、何度もなんどもごめんと云った。
こんなことになってしまったのは自分の所為のような気がしたのだ。ミキが自分でもどうしていいのか判らない悩みと戦っている時に、呑気に女の子と遊んでいた自分が、彼女を此処まで追い詰めたような気がしてならなかった。水浦夫妻に「ヨー君、もういいから休んで」と云われてもぼくはミキの傍を離れなかった。
翌朝、ミキは意識を取り戻した。
「ヨー君」と云うか細い声でぼくは目を醒ました。起き抜けにも拘らず、ぼくは「なんでこんなことしたんだ、馬鹿」と、廊下に響くほどの大きな声で怒鳴りつけた。ナースセンターが近くにあったので、呼び出すまでもなく女性の看護士と医師が駆けつけた。馬鹿野郎、とミキに向かって大声を出していたぼくは、後から駆けつけた別の男の看護士に廊下へ連れ出された。
一旦家に戻り、シャワーと着替えを済ませて自室へゆこうとしたら、「ミキちゃんの担当のお医者さんがあんたと話したいって、先刻水浦さんから電話があったんだけど……」と、母が心配そうに云った。
ぼくはバイクを走らせて病院へ行った。ミキの担当医の名前と自分の名前を云うと、精神科病棟へ案内された。三つある診察室のうち真ん中の「末田茂樹」と書かれたプレートが差し込んである部屋のドアを開けた。末田医師は五十絡みの、ミキの云う通り小太りで生え際の後退した人物である。慥かにミキくらいの年頃には「キモい」と思われるかも知れない。
ぼくが這入っていくと、「木島要君だね」と云って向い側の椅子を薦めた。
「水浦ミキ君のことでちょっと君に訊きたいことが二、三あってね」ぼくがおずおずと椅子に腰掛ける様子を眺め乍ら、ゆったりと背凭れに体をあずけた。
「君は大学生だそうだね」
医師の質問に、陽南大学の文学部の二年生です、とぼくは答えた。今回のようなことが起きることは想定していましたか? という質問に、ぼくは考え込んでしまった。考えなかった訳ではなかったと思う。普通の人間はコンピューターをぐるぐる巻きにして世間との接触を拒んだりしない。然し、ぼくの前では普通の少女だったのだ。そういう振りをしていただけだったのかも知れないけれど。
「ミキの状態は普通の……、所謂『引き蘢り』とは違ってインターネットなどの外部との接触すら拒否していたので、こういったことも起きるのではないかと、頭のどこかで予想はしていたと思います」
そう正直に自分の考えを医師に伝えた。末田医師はボールペンのノックを何度も押した。カチカチという音が酷く神経に触る。
「水浦ミキ君は御両親の話からすると、君にしか心を開かないそうなのだが、それについてどう思っていましたか」
この『馬鹿、デブ、ハゲ』の医師が云わんとすることが、ぼくには察することが出来なかった。そして、末田医師は、相変わらず神経症患者のようにボールペンをカチカチ鳴らし続けている。
「それはぼくがあくまで第三者であって、親のように学校へゆけとか、なにしろこれしろと云わない存在だったからじゃないでしょうか」
暫く沈黙があり、医師はぼくの目を見て、 あなたにとって水浦ミキさんはどのような存在でしたか? と訊ねてきた。どういうっていったって、隣に住む小さな女の子に過ぎないじゃないか。いい加減ムカムカしてきたが、
「生まれた時から知っていましたし、当時鍵っ子だったぼくを水浦の奥さんが面倒をみてくれて……。奥さんが働きに出ると今度は逆にぼくがミキの世話をする、といった感じで……。まあ、妹のようなものです」
なんとかそう答えることが出来た。
「それは御両親からも聞いています。そうではなく、ミキさんのあなたに対する態度を見て、どう感じていたのかを伺いたいのです」
医師は再び意味ありげに沈黙した。なんなのだ? この状態は。ぼくは遊び人ではないのだから、授業にも出なければならないし、キョウコに昨日の不始末を詫びなければならないという状況なのに。
「ミキさんがあなたのことをどう捉えていたかを考えたりはしませんでしたか」
医師はぼくに訊ねた。隣のお兄さんでしょう、と答えたら、「それならばことは簡単なんですがね……」そう云い乍ら、卓上型コンピューターに何やら打ち込んでいた。黙視でキーを打てる状態からは遥か遠く離れた手つきである。そして、
「つき合っている女性はいますか?」
と、唐突に医師はぼくに訊ねた。
は? このおっさんは何を訊いてくるんだ。ぼくの女関係とミキの自殺未遂の間にどんな関係性があるというのだ。
「居ますよ。現に此処に駆けつけた時だって、その彼女の処から来たんですから」ぼくは激高しそうになりながら答えた。まあまあ、というように掌を此方へ向けて医師はぼくを制した。
「あなたには通常の女性関係があるということは認めましょう。あなたは普通の学生生活を送り、若干問題のある妹を心配していた兄といった存在だった訳ですね。それは判りました。だが、ミキさんにとってはそうではない。少なくともわたしが診る範囲ではそうではない」相変わらずボールペンをカチカチさせながら、ぼくの方を見た。何か厭な含みのある視線である。
ミキの云う『薄らハゲ』の医師は続けた。
「わたしが話を聞く限り、ミキさんは……、そうですね、あなたを慕っている。異性の、つまり男性として」
目の前の白衣を着た男が何を云っているのか理解出来ず、どういうことですか? と訊き返した。末田医師はぼくの反応を意図的に無視して話を続けた。
「然し、あなたはミキさんを性的対象として考えたことがない、そうですね」
はいとしか答えようがなかった。ミキを『性的対象』だって? そんなことを考えたことなんかある訳がないだろうが。まだ中学生なんだぞ、ミキは。まだ鶏に対して性的衝動を覚えるかと訊かれた方がましだ。そんなことを考えるおまえの方が変態なんじゃないのか?
「彼女があなたを特別に思っているのは判りますよね」
そう訊ねられ、ええ、まあ、はい、と曖昧に答えた。「両親にも医師のわたしにも、誰にも見せない、 それが本来の姿なのかは判りかねますが、あなにだけはごく普通の中学生らしい態度を見せています。それはあなたも判っていますね」と云われて、ぼくは頷くしかなかった。
「もう一度訊きますが、今回の自殺未遂についてなんらかの予兆はありませんでしたか」
ぼくは学校とアルバイトに追われて彼女を訪ねる回数も少なくなっていたので、判らないとしか答えられなかった。
「今回の件は、あなたの関心がミキさんから離れていったからだとは考えられませんか」と云われ、「幾ら文学部の学生とはいっても色々忙しいし、四六時中隣の女の子にかまけていられる訳がないでしょう」ぼくは苛立ちを露わにして云った。医師は、再びまあまあと云うように、掌を此方に向けてにひらひらさせた。
「なにも今回の過量服用の原因をあなたに被せようという訳ではないんです。ただ、小学生の時期からミキさんを診ているわたしとしてはですね、どうしても『隣のヨー君』が引っ掛かるんですよ」
引っ掛かると云われても、ぼくは今回の件を母親に知らされて恋人ともなんとも云えない曖昧な関係の女の部屋からすっ飛んで来たのだ。しかもその電話に出た時は素っ裸でキョウコのベッドに寝転がって居た。そんなどうしようもない人間に、責任を凡て擦りつけるつもりなのか、このおっさんは。
「あなたは忙しい受験の時期も、一番楽しいであろう大学生活に入っても、なんとか時間をやりくりしてミキさんの面倒を最近までは看ていた。どうしてそこまでするのですか。たかだか隣に住んでる女の子でしょう。ゆうべも取るものも取り敢えず駆けつけ、朝まで彼女の傍を離れなかったそうですね」淡々とした様子を崩さず、末田医師はぼくを視つめた。
こいつは知らない。彼女の母親がまだぺたんこの腹を突き出して嬉しそうに子供が出来たと云った表情を。真っ赤な猿みたいなミキを皆に見せて「かわいいでしょ」と誇らしげに云っていた様子を。そして小さな手でぼくのひとさし指を摑んで笑ったミキを。彼女が歩くのも覚束ない頃にぼくへ手を伸ばし、「ヨー君」と呼んだことなど知りもしない。
「ぼくにとっては妹みたいなものだからですよ。あなただって妹や弟が自殺を図ったと知らされれば、何をさておいても駆けつけるしょう」ぼくは冷静に医師に云った。まあ、そうですね、と彼は言葉を濁した。
もういいですか、と訊ねたら、「お手数をお掛けしました。もう結構です」と末田医師は慇懃無礼に答えた。
キョウコの携帯電話に何度か掛けたが、「相手の都合により——」という無機質な女の声が応答するばかりで繋がらなかった。
まあ、ベッドから飛び出して部屋を出て行ったりするのが許されるのは、映画やドラマの中の刑事くらいのものだろう(実際でもそうなのかどうかは知らないが)。彼女が怒りのあまり着信拒否にしても無理はない。取り敢えず、夏期講座のひとつになんとか間に合いそうだったので、大学へバイクを走らせた。
講議を受けている最中、空腹で頭がどうにかなりそうだったが、自動筆記のようにノートへシャープペンシルを走らせていた。徹夜しているのに不思議と眠くはなかった。
時間は三時過ぎだった。夏休みなので学食はやっていない。南地区は中央区と西地区へ向かい、学生街と云ってもいいくらい大学や専門学校が集まっているが、海寄りと旧市から移された巨大な墓地の近く辺りは工業地帯だった。中小企業の社屋などは、大学のある辺りにもちらほらと在った。で、安い食事を提供する店も多く在る(女の子が好きそうなこぎれいな喫茶店や安手のレストラン様の店も在ったが)。
適当に這入った定食屋の給水器の処に、なんと飯森が居た。
「よう、暗い顔してるじゃないか」飯森も此方に気づいて声を掛けてきた。「よう」というのが「ヨー」なのか単なる呼びかけなのか判然としなかったが、「なんで今頃こんな処に居るんだよ」と怒りを彼にぶつけるように苛立った声を上げた。
「おっと、おれに当たるなよ」 飯森は少し仰け反るようにぼくを避け乍ら云った。
こいつが喰うのはいつも学食の中華丼だ。どういうつもりか知らないが、ぼくが座っていると、するする寄ってきて同じテーブルで食べることになるのだが、飽きることなく中華丼を喰っている。そして、ランチタイムが終わったこの店でも、彼は中華丼を喰っていた。別の卓子に着くのはあまりにも感じが悪いので、彼と同席することとなった。
「またイモートか?」
背中を猫背気味にしてぼくを覗き込んだ。まあね、とぼくが答えたら、いつもと違うようだな、そう飯森は云った。
おまえはなんだ。辻占師か? 夢見占いか? 予言者か? それともぼくのカウンセラーなのか? と襟首摑まえて怒鳴り散らしたい気分になったが、そんなことなど出来る筈もなく、「草臥れた」と顔に筆文字で書いてあるようなおばさんに天丼を注文すると、どっと疲れが押し寄せて来た。おばさんが置いていった冷水を半分方飲むと、やや気持ちが落ち着いた。
「なんだ、こんなとこに皺なんか寄せてよ」飯森はぼくの眉間をひとさし指で突いた。思わずぱっとその手を払うと、「おおかたイモートが病院の御厄介になったんだろ」そう彼はこともなげに云った。
「おまえに何が判るんだよ」ぼくは向かいに座る飯森を睨みつけた。
「大人には理解出来ない行動をする、描く絵が変だ、言動がおかしい、学校で孤立している、部屋に閉じ籠る。その後に来るのは自殺か自殺未遂だ」
当たり前のことのように云う飯森を眺めて、こいつの専攻は心理学だったっけか、と思い乍ら、「そうなんだけど、それだけじゃ済まない感じでさ」思わずぼくは彼に向かってそう云っていた。だろうな、と飯森は呟いてコップの水を飲み干した。
そして立ち上がると、ご丁寧にもぼくのコップまで持って、また給水器まで行った。飯森はなんだかよく判らない奴だが、「立っている者は親でも使う」の真逆をゆくようなタイプで、自分のついでならなんでもやる人間だった。
「代返? その講議出るからついでにやっとくよ」
「昔の新聞のデータ? 資料室に行くからついでにコピーしてきてやるよ」
そんな具合だったが、しっかり金は取る。ただし、自分が頼んだことに対しては「悪いな」の一言で済ませる。だからぼくは飯森に「ついで」の用事など頼んだりしない。
残りの中華丼に戻った飯森に、いっつも中華丼ばっか喰って、飽きないのかと少々厭味たらしく訊いてみた。
「おれは一点集中主義でね、別の言葉で云えば偏執狂だ。だからおまえのイモートも別の見方をすれば全然おかしな人間じゃない」飯を頬張りながら飯森は云った。どういう意味だよ、とぼくは訊ねた。そんなことくらい自分で考えろよ、そう云って飯森は中華丼の世界に入り込んでしまった。
六時十分前にコンビニエンス・ストアーに着き、物置兼着替え室兼、従業員の荷物置き場に這入り、タイムレコーダーにカードを突っ込み、制服を羽織ってレジへ行くと、なにやらケルマがぼくを見てもじもじしている。上目遣いでぼくを視て躊躇っている様子は、頭のおかしいキリンが発情しているみたいで、無気味以外のなにものでもなかった。しかも唐揚げのトングを手にしているので物騒極まりない。この男は熱いものを見ると常軌を逸した行動に出るのだ。
店長から聞いた話では、ケルマは高校を中退してからずっとこの店に居るということで、冬におでんの注文を受けると、そのひと品毎に客に熱い汁を掛けなければ気が済まないらしく、相手がサラリーマンだろうとヤンキーだろうとお構いなくやるので、一緒の時間に勤務していた人間は恐れをなして、酷い時は二、三時間で逃げて行ったそうである。
冬の夜はおでんで一杯、という客が多いものだから、そういった「事件」は屢々起こるという。ただ、客はケルマの仕草と三白眼に気圧されるのか、警察沙汰になったことは一度もないらしいのだが(本人は別に凄んで三白眼にしているのではなく、ひと見知りが激しい為に上目遣いになってしまうだけなのだが)。ぼくが目撃しただけでも、カップラーメンにお湯を入れてくれと頼んだ客に、湯を入れてすぐにぶっかけたり(これがアメリカだったら訴訟を起こされていただろう)、オムレツ焼そばを業務用のレンジだから三十秒で済む処を五分温めて爆発させたりと、 何をやらかすか判らない人間だったのである。
高校を中退して「人生浪人中」なのも、そんな性格だか性癖だかが災いしてのことだろうとぼくは考えていた。こんな物騒な男が何故馘にならないかというと、この店は大手のコンビニエンス・ストアーのフランチャイズ店で、元は酒屋だった処の店主の娘と結婚したのが今の店長で、ケルマはそこの一家の縁続きなのだそうだ。どういう縁なのかは聞きそびれたが。
そんな男が熱くなったトングを手に必要以上に近寄って来るものだから、ぼくは思わず後退った。しかしケルマの用向きは、「先刻、江森さんが店長に大学の方があれこれ忙しくなってきたので、もう来れませんって云いに来ました」と、いつものぼそぼそした口調で単なる業務事項を(ぼくにとっては『単なる』ではなかったが) 伝えたいだけだった。ああ、そう、となんとか平静な云い方でぼくはケルマに返事をした。
「店長は急に云われてもシフトとかあるしねえ、って云ったら、彼女キレちゃって 『こんなコンビニふたり居れば廻るでしょ』って……」
彼はまたもじもじしながら云った。
それで? と、だんだん苛々してきたぼくは、突っ慳貪に答えた。
「木島さんに伝言があって……」
そのケルマの言葉に思わず反応して、なんて、と思わず訊ねて仕舞った。
「木島さんに云っといて、あんたみたいなロリコンのインポ野郎、こっちから願い下げだわって」ケルマは俯いてそう云った。ロリコンもインポも明らかに間違っているのだが、なんでこいつは彼女の言葉をそのままぼくに伝えるのだろう。
「なんだって?」ぼくが尖った口調で聞き返すと、彼はトングを頭の上に翳して、蹲って仕舞った。
「ぼ、ぼくが云ったんじゃないですよ、江森さんがそう伝えてって……」そう云う姿に、目の前が血の色のように真っ赤なるほどの怒りを覚え、「何処の世界にそんな科白を馬鹿正直に一字一句伝える奴が居るんだよ」と、蹲った彼の太腿を力一杯蹴りつけた。生まれてはじめて他人に暴力を揮った自分の行為に、我がこと乍ら愕然とし、キョウコと行ったけばけばしい遊園地に行った時の、目眩いのような、自分がどうにも摑めないような感覚に囚われた。
その時、耳障りなチャイムと共に客が這入ってこなければ、ぼくはどうにかなっていたかも知れない。
立て続けに五、 六人くらいの客が立ち寄って、三十分ほど忙しくしたが、その後はまったく閑だった。コンビニエンス・ストアーというのは、客の波みたいなものがある。ひと組客が来ると、次から次へと客が来て、もうひとり店員が居れば、と思うほどレジに行列が出来る。そうでない時は意味もなく飲み物の缶をひとつひとつ正面に向けたり、雑誌を整えたり、猫缶を整然と並べたりするしかやることがなくなってしまう。そんな閑な時間、ぼくはケルマとふたりで、レジに立ち尽くしてぼうっとするしかないのだ。
「インポでロリコンって、大変ですね」
唐突にケルマがそう云った。は? と訊き返して、「だから、イ……」と云いかけたところで、」ぼくはケルマの脛を蹴りつけた。
「き、木島さんって顔に似合わず凶暴なんですね……」ケルマは脛を擦り乍ら云った。
「女が男を棄てる時に云うことをいちいち真に受けるなよ」ぼくがそう云ったら、はあ、そうですね、と彼は俯いて呟いた。
「そもそもインポでロリコンの男が、キョウコみたいな女と三ヶ月も続くと思うか?」
ぼくがそう云うと、彼はその計り知れない脳内で結論に辿り着いたらしく、「そう云われてみればそうですね。江森さんはロリコン男の対象外のタイプですから」と云った。それはいったいどんなタイプなのかよく判らなかったが、聞きたくもなかった。彼自身がロリコンなのではないのかとさえ思えてきた。
その日の仕事は散々で、精神的に物凄く疲れた。荷物が搬入されても、螺子が弛んだ、と云うより別のところに螺子のついたケルマでは役に立たないし(いつもはキョウコとぼくとで手分けしてやっているようなものだった)、運送会社の兄ちゃんは苛々とチュウインガムをくちゃくちゃ噛み乍ら待っているし、取り敢えずぼくひとりで商品だけ出して品数と伝票をチェックした上で判子を押し、パレットを畳んで台車に乗せ、トラックを見送った。
床の上には段ボールやプラスチック包装のままの菓子やカップラーメン、補充の化粧品やライターの箱などが山と積まれていた。それを片づけるのに一時間近く掛かった。
当然のことながら商品出しに関して、ケルマはなんの役にも立たない(レジはこなしていたが)。午前二時半に朝までのアルバイト青年と交代し、どろどろに疲弊して家に戻り、シャワーも浴びず着替えもせずにベッドに横たわり、腐った丸太のように眠った。
キョウコに振られたことは、意外にもぼくの生活になんの影響も及ぼさなかった。まだ夏休みなので午前中は何もすることがなく、もうひとつアルバイトを増やそうかとも思ったが、なんとなくずるずる引き延ばしていた。午後になってからミキの見舞いへゆき、その後は何処か適当な処で閑を潰して、六時五分前までにコンビニエンス・ストアーへゆき、仕事をする。そこにキョウコが居ないことについては特に何も感じなかった。なにしろ捨て科白に「ロリコンのインポ野郎」と云う女なのだ。未練の抱きようがない。携帯電話のアドレスからから消去して終わり、だ。
人間の繋がりなんてこんなものなのかな、と思った。
手を繋ぐことより密接な関係を持った相手の方が、瑣細なことで(向こうには重大なことだったのかも知れないけれど)相手に対して嫌悪の情を抱いてしまうのかも知れない。短期間しか知り合えなかったからこそ相手を傷つける言葉を易々と吐いてしまうのかも知れない(しかも、ぼくの場合はその現場に立ち会ってすらいなかったのだ)。若しかしたら、キスをしたり抱き合ったりするよりも、手を繋ぐだけの関係の方が精神的にはより濃密なのかも知れない。
そんなことを思いつつ、ベッド脇の窓から半分だけ見えるミキの居ない部屋の、薄闇に沈んだ窓を眺め乍ら、トリスのポケット壜をちびちび飲んだ。トリスは安いだけあって、旨いウイスキーとは云えなかった。
ミキは二週間で退院する筈だったが、例の医師のお節介な助言で三週間入院することになった。もうじき大学が始まろうという頃だった。入院中は食事も規則正しく摂り、睡眠導入剤は液状のものにされ溜め込むことは出来なくしてあった。
病院には迎えに行かなかったが、家に帰り落ち着いた頃を見計らって隣家を訪ねて行った。インターホンを押して名前を告げると、おばさんは玄関に出てこず機械越しに済まなそうな声で、「ヨー君ごめんなさい、まだミキちゃん帰ったばかりで慌ただしくて……、また日を改めて来てくれる?」と云った。その言葉の裏側に何か厭なものを感じた。
幻聴のように聞こえてきたのは、末田医師が神経質にカチカチと執拗に鳴らすボールペンの音だった。あいつか、とぼくは思った。あいつがぼくのことを変質者か何かのように(キョウコが腹立ちまぎれにケルマに云ったように)医者らしく専門用語を鏤めてミキの両親を云い包め、接触を断つように云ったのだろう。
それならそれで構やしない。ぼくは純粋に兄としてミキと接し、ミキを守ろうとした。 それがミキの立ち直りを遅くしたり、状態を悪化させたりするなら会わずにおけばいいのだ。実際、毎日毎日、年がら年中顔を合わせていた訳ではない。忙しい時は一ヶ月近くほったらかしにしていたことだってあったのだ。
+
新しい学期がはじまり、ぼくは再び学校からコンビニエンス・ストアー、シャワーを浴びて就寝、という毎日で、会社員でいうならルーティン・ワーク状態だった。然し、何かしている時の方が、何もしていない時より楽だった。土日になると抱えきれないくらいの時間が精神を圧迫した。
それは膨大過ぎて、ぼくの手に余った。課題をやっていても集中出来ず、時計は壊れているのかと思えるほど進みが遅かった。図書館へも行ってみたが、今時図書館を利用するのは老人くらいで、かさかさに乾いた静寂の塊が、逆に蜂の大群がわんわん羽を鳴らして飛んでいるような気がして、鞄にファイルやレポート用紙を詰め込み外へ飛び出した。
もうどうしようもならなくなって、コンビニエンス・ストアーの店長に土日にもいつもの夜中までのシフトを組んでもらえないかと頼み込んだ。
「君ねえ、大学生なら労働基準法って知ってるでしょ。それに土日は高校生のバイトが居るし……。といってもあの子たちはアテにならないんだけどね。まあ、遊びたい盛りだからバイトなんか後廻しになっちゃうのも無理ないけど、責任感ってのが欠けてるんだよねえ。まあ、朝はおばさんがふたり入ってるからいいんだけどね。うーん、まあ、高校生の女の子が恰度六時に上がるんだけど……」と、簾状の頭を横向きに撫でつけながら店長は考え込んだ。
「そもそも君は平日に三十分の休みを勘定に入れないと八時間半、こんなとこに拘束されてるじゃない。なんでそんなに働きたい訳?」尤もなことを店長は訊いてきた。だが、何かしていないと気が狂いそうなんです、などと云って泣きつく訳にもゆかない。
店長は溜め息をつき乍ら、事務机の抽き出しから新品のタイムカードを出して、まあ、たまにやることだけどね、そう云って、「これは木島君じゃないひとが働いたという記録が残るタイムカード。実際押すのは君だけどね。帳簿をつける時に名前が違ってりゃこっちとしては問題ない訳。こんな店にいちいち監査なんか入る訳ないし。じゃ、これに適当に名前書いて……。ああ、苗字だけは抽き出しの中の使ってないシャチハタから選んでね。で、名前書いたらタイムカードをストッカーの自分の下に入れといて。そのカードと本当のカードをまあ、半々くらいに使ってもらって、 後はいつも通りでいいから。入出のボタンだけは間違えないようにね。他のひとに云わないでよ」と、悪の心得を口早にぼくに伝授し、店長はでっぷりしたお腹を掌でさすりながら事務室という名の物置部屋から出ていった。残されたぼくは、こういうアバウトさが個人経営の利点なのか、とぼんやり思った。
そして、ぼくは運動用の車輪の中を走る二十日鼠のように学校、コンビニ、自宅、の三角点を走って廻る毎日を惰性で繰り返していた。いつの間にか顔は窶れ、目の下には隈が出来、ジーパンがぶかぶかになった。
現在の季節が、晩秋というより初冬なのだと知ったのは、何気なく自分が選んで着ている服が合いものだということと、コンビニエンス・ストアーのクリスマス商品を並べていた時だった。クリスマスはまだひと月も先である。 その前にはハロウイーンの商品をぼく自身が並べていた筈なのだが、まったく記憶になかった。平日の勤務で一緒になるケルマは他の人間のようにぼくを避けるどころか、矢鱈懐いてきてあれこれ話し掛けてくるようになった。仲間が出来たとでも思っているのだろうかと思ったら、頭の中にコルクが詰まっているような気分になる。
学食で遅い昼食を摂っていると、いつもの如く飯森が当たり前のようにぼくの横に腰掛けた。そして、トレーの上に乗っているのはやはり中華丼だった。
「オムライス喰ってる人間の顔じゃないな」ぼそっと彼は云った。ぼくはわざとらしいまでに彼を無視した。
「あれだよ、あれ。即身仏。もうじきなれるぜ、おまえ」
飯森は、相変わらず淡々とした口調で云った。そこへ「ここ座っていいかな」と云いながら、答える隙も与えず飯森の隣に見知らぬ女の子が腰掛けた。卓子に置いたのは自動販売機で売っている、紙パックのミルクコーヒーだった。
ぼくはあんた誰、と思って呆然としていたが、飯森は、「ああ、キシガミさん。何してんの、こんなとこで」と気安く話し掛けていた。ぼくは飯森と女という組み合わせを考えたことがなかったので、親しげに会話するふたりを、ひたすらコートを飛び交うボールを追うテニスの観戦者のように交互に眺めていた。
思い出したようにその女生徒はぼくの方を向いて、「こんにちは、木島君」と云って座ったままぺこりと頭を下げた彼女は、『空気人形』のペ・ドゥナのような髪型で、色白のちょっと洋猫みたいな顔をした女の子だった。なんでぼくの名前を知っているのか訊ねたら、けらけら笑って「有名よお、ユーレイの木島君」と如何にも楽しそうに云った。
「あたし、あなたにすごく興味があるんだけど、ちょっと質問していい?」そう云って、鞄からメモとボールペンを取り出した。
彼女がカチッとペンの頭をノックした瞬間、末田医師の顔が頭の中に浮かんで消えた。
「君は記者かなんかなの」そう訊ねると、あはは、と笑って「そんなに痩せてても冗談云う気力はあるんだ」そうキシガミさんとやらは云った。「こんな若い記者っていったらあれ、あの映画……。なんだっけ、あたしはあんなに若くないけど」卓子に肘をつき、彼女は思い出そうとしている様子だった。
『あの頃、ぺニー・レインと』のことかとぼくが云ったら、「そうそう、それ。さすが映研ね」と嬉しそうに彼女は云った。
正直云って、こういう風にいきなり馴れ馴れしくしてくるタイプの女は苦手だった。
「ぼく、映研の部員じゃないんだけど」
取り敢えず間違いを正したら、「あれー、だってあなたのこと教えてくれたの小山君だし、部室に貼ってあった写真にもまだ肉がついてた頃の木島君が写ってたよ」まあ、あの写真の木島君も太ってはいなかったけどね、と彼女はまた笑い声を立てた。その言葉を聞いて、ぼくを飲み会に連れ出していた男は小山という名前だったな、と思いだした。特徴のない名前だとしか覚えていなかった。
「こんなに痩せちゃう前はモテモテだったって聞いたわよ。三人しか居ない女の子の部員も木島君で釣ったって云ってたし」
結局のところ、このキシガミという女はぼくの何が知りたいのだろう。ぼくは彼女をどう扱っていいのか判らず、目で飯森に助け舟を求めた。然し、ぼくのことも彼女のことも忘れたかのように、彼は中華丼の世界に没入していた。
ぼくにあれこれ話し掛けてきたキシガミさんが、何年生で、何処の学部なのか、飯森にも本人にも結局訊ねず仕舞いで、ぼくはなんとなく宙ぶらりんな気持ちを抱えて数日を過ごした。飯森に訊いても苗字しか知らないし、何処のどいつか、そもそもこの大学の生徒かすらも知らない、と云うだけだった。
「じゃあおまえ、何処で彼女と知り合ったんだよ」
「なんだ、あの娘に気でもあるのか」と、飯森から逆に痛くもない腹を探られる羽目になった。が、どうにも気になるので色々考えてみたら、答えは簡単なところに転がっていた。彼女はぼくのことを映画研究会の小山に聞いたと云っていたではないか。だったら彼に訊けば判るだろう、と思って早速部室へ行った。幸いなことに小山は居て、咥え煙草で雑然とした机の上を何やら探しているようである。
ぼくが声を掛けると、「ああ、木島ぁ。生きてたのか」と、ひと懐っこい笑顔を見せた。この顔に騙されて飲み会に何度も顔を出す羽目になったのだ。
「うっわー、噂通りだ。すげえ痩せちゃって、もしかしてなんかの病気?」と、上っ面だけの心配げな声で云った。ああ、原因不明の病原菌にやられてね、と答えておいた。
「ええ? じゃあ『ムー』に投稿しようぜ。ああそうだ、おれ『ムー』のバックナンバー探してたんだ」
そう云って、映画雑誌など一冊も置かれていない代わりに、コンビニエンス・ストアーの『成人向け』プレートが掛かったラックに置かれている『GON』『BUBUKA』『実話ナックルズ』などが雑に積まれた(一番多いのは小山が探している『ムー』だったが)机の上の探索に戻った。その背中に向かって、「小山君、キシガミって女、知ってるだろ」と訊ねた。上手い具合に彼はこの話題に喰いついてきた。
「そりゃあ知ってるよ。おまえだって知ってる筈だぜ。同じ学部の、ほら髪の毛をさあ、ぞろっと伸ばしてた女。貞子だよ、貞子」そう云われると慥かにそんな娘が居たのを思い出した。然し、彼女はひどく無口でいつも俯いていたという記憶しかない。
「あいつに会ったの? 判んなかっただろ、まるで別人だもんな。おれもさあ、夏休みが終わって暫くした頃に『もう辞めます』って云いに来た時、誰かと思ったもん」
そりゃそうだろう、貞子が可愛らしいペ・ドゥナになって現れたら、誰だって判らない筈だ。キシガミさんの正体が判明した代わりに小山から頼まれ、机の上に無秩序に積み重ねられたり、その山が雪崩を起こしている雑誌の中から、『ムー』の『比叡山から望む大地に古代より到来した宇宙人の謎を解く!』という特集号を探させられた。結局雑誌は見つからなかった上に、アルバイトに遅刻をするという痛い代償を払わせられたのであった。
翌日、次の講議までかなり時間があったので、学食へ行って自動販売機でコーヒーを買い、さて座ろうかと思ったところへ、入り口の方から屈託のない小山の声がした。 ぼくは出入り口に背を向ける癖があるので、振り向いてそちらを見遣った。小山の他に三人の男が居る。皆、何処かで見たような奴らである。
小山たちは当然のようにぼくの座っているテーブルに腰掛け、四人揃ってまじまじと珍獣でも視るような目つきで此方を眺めた。ひとりが、「木島、おまえ大丈夫かよ。なんか酷え病気に罹ってるって噂は耳にしてたんだけどさあ、実物見たら本気で心配になってきたよ」と云った。
名前を覚えていないので取り敢えずAとしておくが、 彼の言葉には小山のような浮ついたところがなかったので、本当に心配してくれているようである。小山も含む残りのB、Cも深刻そうな顔をして頷いていた。ぼくはなんとも照れくさくて、「大丈夫だよ、食慾もあるし。痩せたのはバイトを詰め込み過ぎて睡眠不足なだけだよ」と或る意味、真実を彼等に告げた。
「でもよー、体壊しちゃ元も子もないじゃん」とBが云う言葉に、「ああ、ちょっと休みを取るよ」と云って誤魔化した。さして親しくもない人間に心配されるというのは、なんとも奇妙なものだった。
「ああそうだ、おまえ昨日、貞子のこと訊きに来ただろ。ゆうべはその話でもちきりだったんだぜ」と小山が云った。「おまえのことを井伊垣に電話で云ったらさあ、なんか連絡網みたいに全員に情報が伝わってちゃって、いつも行く居酒屋に集まって。なあ」と、小山は他の三人に同意を求めた。A、B、C揃って「そうそう」と頷いた。
「ところで今、部員は何人いるの」話を逸らそうと、ぼくは彼らに向かって訊ねた。
「うーん、先輩が五人一気に抜けて、残りは九人。新入部員ゼロ、只今勧誘中」とBが云った。「女の子が居たじゃない、あの娘たちどうしたの」ぼくがそう云うと四人は顔を見合わせてから改めて此方を見て、「木島が女の話をした……」と、まるで練習したかのように声を揃えて云った。そして、四人揃ってヒィヒィいって笑い出した。
暫くして笑いが納まると、「いや、悪いわるい。でもさあ、おまえあんだけ熱い視線受けても何処吹く風って感じで、女に興味がないんだろうって皆で云ってたんだよ。前な、前の話」その小山の言葉を受けて、あまり喋らなかったCが、「でもさあ、小山が用もないのに木島君を呼び出して部室の前で雑談する、っていうのを三回やっただけで女が三人も入部したもんな。すごい木島効果」と笑った。
入学したての頃にやけに親しげにしてきた小山に、「ちょっと映研の部室来てくんないかなあ」と云われ、訳も判らずついて行ったことが数回あった。あれが女の部員を勧誘する芝居だとは知らなかった。映画研究会とコピー用紙に下手糞な字で書かれたものが貼られた扉を廊下から見えるように半開きにして、ぼくと小山は貼り紙の邪魔にならなくて、しかも部室の近くの壁、というかなり限定された場所で、兎に角何か話していればいい、というのが彼等の書いた脚本だったらしい。
然し、ぼくが部員でないことくらいどれだけ隠そうとすぐにばれてしまい、夏休みを目前に女の子のうちふたりはあっさり辞めてしまったのだという。ぼくの何処に女の子を惹きつける要素があるのかてんで判らなかったが、キシガミさんの云っていた「女の部員をぼくで釣っていた」というのは嘘や冗談ではなかったようである。
「でもさあ、ふたりで一緒に入った娘たちはそこそこ可愛かったのに、最後に来たのが貞子だもんなあ」「あいつが来た時クズイ先輩とおれのふたりだけでさ、たまたま扉の方に向いた椅子に座って喋ってたんだよ。そしたらそのドアがそろーっと開いて、その隙間から長くて黒い髪が見えてんだよ。クズイさんが『あれ、なんだよ』って云ったらまたドアがゆっくり開いてって、そこに立ってたのが貞子だったんだよー。もうおれ、本当にしょんべんチビるかと思ったもん。で、部屋に這入ってきたんだけどそこは普通でさ、なんかこんだけひとのこと怖がらせたんだからギクシャク動けよ、って思うじゃん」「ギクシャク歩いて来たら、おまえ今頃墓の下だよ」と、彼らが喋っているのを聞き乍ら、やはりぼくの隣に座ったおかっぱでお喋りなキシガミさんの印象とは一致しなかった。
「木島君、本当に覚えてないの?」
いきなり話を此方に振られて慌てたが、自分は映研の部員じゃないし、飲み会だって小山君に頼まれて行っただけだから、と殆ど覚えてない旨を正直に伝えた。
「っていうかさあ、おまえどうしてそんなに女に無関心でいられるんだよ。おれ、はじめこいつは男色家かって……」
そこまでAが云うと、「おお、さすが社会では潰しの利かない文学部国文学科、ホモセクシュアルと敢えて云わない。おまえは三島由紀夫が好きか」「恥ずかしながら、自分は三島由紀夫を一冊も読んでおりません」「おまえ、それでよく試験通ったな」そして、また四人でげらげら笑った。
「いや、木島君、ごめん。からかうとかそういうんじゃなくてさ、先刻の続きだけど、木島君の親しい奴っていったら飯森くらいじゃん。だから男とか女じゃなくてさ、人間自体に興味がないんじゃないのかって一時期心配してたんだよね」そうCが云うのを聞いて、ああ、世の中捨てたもんじゃないな、と思えてきた。こんな風に表現してしまっては申し訳ないが、こんな奴らといえども。
然し、 その後聞いた話が悪かった。
「だけどさあ、あん時居た女子部員、全員木島狙ってたもんな。まあ、それに釣られて入部したんだから当たり前っちゃ当たり前なんだけど。で、もう三竦み状態。でも一番おまえに惚れてたのは貞子なんだぜ」小山の言葉を聞いて、何故か鳥肌が立った。
「惚れてたっていうより、学内限定ストーカー」
「お、 上手いこと云うね。貞子は電車で通ってたから、バイクで風のように去ってゆく木島君を追い掛けることが出来なかったんだよな。誰だっけ、貞子の木島観察日記見たの」
残りの三人は首を横に振った。Bが「ミナオじゃないの。おれ、慥かあいつから身の毛もよだつ話、聞かせてやるよって教えてもらったような記憶がある」と云った。
ミナオがそんな話する訳ねえじゃん、と云い乍ら彼らは我もわれもと話し出した『木島観察日記』とは、キシガミさん(これだけ寄って集って貞子、貞子と云われると、キシガミという名前の方に違和感を覚えはじめたほどである)が、ぼくが大学に到着してから帰るまでの行動をこと細かに記したメモ帳のことだった。当然彼女も授業があるから一時も離れず観察していた訳ではなかったそうだが。
喩えば、何月何日、何時何分、バイクを駐輪場に停める。キーに何かがついているのだが、手に握っているかポケットにすぐ入れてしまうのでどんなものなのか判らない。何月何日、何時何分、偶然学食で木島君を見掛ける。彼はいつもドアを背にした席に座る。わたしはその後ろ姿が見える席に座った。偏った食べ方をしないから好き嫌いがないのだと思う。何月何日、何時何分、木島君と廊下ですれちがった。彼はぼんやりしていてわたしに気づかないようだった。何月何日、何時何分、何月何日、何時何分……、と、その手帳にはひたすらぼくの行動が記されていたそうだ。
だが、彼女が部室を出て行った後に、ミナオという男がやって来て、その手帳を椅子の下から発見し、「気色悪りいな、こりゃ」などと云いながらぱらぱら見ていたら、扉の向こうににひとの気配がしたので、元あった場所にその手帳を戻し、何故か物陰に身を隠したそうである。勘のいい男なのか、果たして這入ってきたのは貞子だった。必死の形相で床に這い蹲ってまで手帳を探す姿は妖怪じみており、ひとりきりだった彼は怖くなって貞子に気づかれないよう、物音を立てずにそっと部室を出ると、走って逃げたらしい。
「あの後、ちょっとおかしかったよな、ミナオ」「ってゆーか、夏休み明けからおかしかったぜ」「おかしいんじゃなくて妙に人間らしくなった」「それまでは無気力でぶっきらぼうな奴だったからな」「人間らしくなったところで、いきなり貞子ノイローゼ」「そうそう。あれよ、PTSD」「おまえ、それ日本語で云ってみろよ」「聞いて驚け。肉体や精神の衝撃を受けた者の心的外傷後ストレス症候群」「馬鹿、そこまで云って最後で間違えんなよ。症候群じゃなくて障碍だよ」「でもよー、ミナオだったらそんなことなんかで動じたりしないんじゃねえの」「だいたい誰が狙うんだよ、あんな天然呪怨君を」「大人になったロン毛の鬼太郎」「でもさあ、あの髪型だから顔よく見えないしあんな身装してっけど、あいつ色白で目鼻立ちも整ってっからなあ。まあ、ギョロ目が気になるっちゃあ、なるけどさあ、なかなかどうして……」「ミナオは今井のもんだから横取りすんなよ」「そうそう、あいつ誘う時はちゃんと保護者の今井に断り入れないとな」「ふたりひと組だからなあ」「でも妖怪にしか見えねえんだよな」「小山の爆笑ドキュメンタリー、あれミナオに見せたらおまえぜってー殺される」「藁人形に五寸釘でな」「怖えー、妖怪が丑の刻詣り」「友達の妖怪に頼むかもよ、ねずみ男とか」「で、ねずみ男が豆腐小僧を担ぎだして、結局なんの役にも立たない」「お盆に豆腐乗っけてうろうろしてるだけでな」「そんでミナオはぶち切れて、豆腐小僧の頭を鉈でぱこーん」「やんねーよ、ばーか」
そこでやっと、「ちょっと待て、木島が呆れた顔でおれたちを見てる」と小山が云った。
「別に呆れてなんかないよ。面白いなあと思って眺めてただけで……」慌ててそう云うと、「世間ではそれを呆れてる、若しくは馬鹿にしてるって云うんだよ。で、今の会話でミナオのこと思い出した?」と小山が訊いてきた。そう云われてみて、ぼくは先刻までの喧噪としか思えない会話の中から要点要点を探っていった。
「ああ、思い出した。 皆が妖怪とか不気味君って呼んでた奴だ」ぼくがそう答えたら、Aが「木島が他人のことを思い出した……」と半ば呆然として云った。
慥かに頭がぼさぼさで、頰まで覆うように伸びた前髪の隙間から片目が覘いているような、痩せて青白い異様な風体をしている男だった。そんな精神的に何処かおかしいのではないかと思われるような容姿をしていたが、話すと普通に受け答えをする。飲み会ではいつも隣に座っている男と仲良さげに喋っていたが、会話が途切れるとぼんやりして、心此処にあらずといった表情になった。そんな風になっても、酒を飲み箸を動かしていたのが妙に可笑しかったのを覚えている。その所為か食べるのがもの凄く鈍かった記憶があった。
一度、黒い電話について訊ねられたことも思いだした。知っているかと訊ねられ、携帯電話のことかと訊き返したら、「いや、昔の……。うーん、電電公社が出してたやつ」と云う。「よく知らないなあ」そう曖昧に答えたら、その後はいつものように他の奴らが喋っているくだらない話を聞いて声を押し殺すように笑ったり、隣の男(恐らく彼が先程の話の中に出てきた「今井」という男なのだろう)と何か喋ったりしていた。
自分については殆ど語らなかったが、悪魔とか妖怪とか云われても平然としている、どことなく超然とした感じの男だった。男、というよりは、顔立ちや華奢な体つきだけ見ればやけに女性的である。妖怪じみた雰囲気はその所為もあったのかも知れない。
では、ぼくは周囲の人間にどう思われているのだろう。今までいろんな人間に云われたことを総合すると、ぼんやりとして、攫みどころがなくて、物忘れが激しく他人に興味がない――碌な人間じゃないな、と我乍ら思った。
じゃあ、講議があるから、と云って男の癖に姦しい四人組と別れた。Cが「シェーン、カムバック」と、やっと映画研究会らしいことを云うのが後ろから聞こえた。
映研の奴らと長々と話してみて判ったことは、キシガミさんは大学入学当初から異常とも云えるほどぼくに入れ込んでいたらしいこと、彼女とはじめて会ったとぼくが思っていた日に云った内容の半分以上は嘘だということ(映研の奴等の態度から類推しても、ぼくのことをユ-レイ呼ばわりするとは思えなかった)、それからこれは彼らも噂だけど、と前置きして云っていたのだが、ぼくに近づこうとした女の子たちをかなり陰湿な方法で撃退していたという。
こうなると、一度彼女とちゃんと話しておいた方がいいように思えた。
雨の降る土曜日の午後二時に、ぼくはアルバイトまでの仮眠を取っているところを母親に起こされた。一時、無声映画のように母の口がパクパク動くのが見えるだけで 何を云っているのかさっぱり判らなかった。もどかしいように肩を揺すられ、ヒステリックに喋る母の声がやっと聞こえた。
「ミキちゃんが死んだって」
なんのことだか判らなかった。
ミキって? 死ぬって? は?
なんの話なんだ?
二階の廊下から見ると、パトカーが二台停まってひと垣が出来ていた。
なにがどうしたっていうんだ?
ぼくは寝間着のまま、サンダルを突っ掛けて外に飛び出した。野次馬の話を聞いてみたところに依ると、ミキは今朝の五時頃家を抜け出し、隣接する団地のアパートの十一階から飛び下りたのだという。階段の踊り場にはミキのものと思われるビニールのサンダルが揃えて置かれており、靴の下にはきっちり封筒に入れられた遺書があったらしい。
靴の下にあった遺書はぼくに宛てたものだった為、簡単な事情聴取を受けたが、ぼくはアルバイト先から帰る準備をしているのを従業員が見ていたし、防犯カメラにも写っているので無罪放免となった。件の遺書は、何故か見せてもらえなかった。
ミキは司法解剖の後、我が家に帰ってきた。通夜の席で葬儀屋が待っていましたとばかりに用意した、祭壇に飾られた白黒の写真を眺めた。ひと見知りなミキは写真を撮られるのも苦手で、遺影の中でむっつり機嫌悪そうにした彼女が此方を睨んでいる。ぼくはその瞳を見て、ぶかぶかになってしまった黒いスーツを恥ずかしく思った。
大学に上がる前、何かあった時にと誂えたそれは、ぼくがはじめて袖を通す喪服だった。
告別式の日、棺に横たわったミキの姿を見た。顔の筋肉が弛緩して、生きている頃の面影を消し去っていた。鼻の穴と耳の穴に脱脂綿が詰め込まれている。転落死なのに頭に包帯が巻かれていないのは、鬘を被せられている所為だろう。その偽物の髪の毛に手をやって、ぼくは硬直した。彼女の後頭部が面白いくらいきれいさっぱりなくなっていたのだ。
「ヨー君、来てくれてありがとうね」と話し掛けられて、声のする方に顔を向けたら、いつの間にかミキの母親が隣に立って、「きれいな顔でしょ。地面に激突した時、幸いにも後頭部が下になっててね、顔には疵ひとつなかったの」と云った。そのあまりにも冷静すぎる喋り方に背筋がぞっとした。
そして、『隣のおばさん』は無表情のままぽろぽろと涙を流し、それに気づいた風もなくぼくに白い封筒を渡した。
「今朝、警察の方が返して下さったの。こんなことになるなら、お医者様の云うことなんか聞かずにヨー君に会わせてあげればよかった」最後の方は殆どひとりごとのように云い残し、ふらふらと弔問客の方へ行ってしまった。ぼくは子供が使うものとは思われない事務用の真っ白な封筒の中から便箋を取り出した。
「ヨー君へ。
ヨー君に会えないので、ヨー君をいつでも見られるところに行きます。
ハンプティ・ダンプティ へいのうえに座ってた。
ハンプティ・ダンプティ おっこちた。
王様の馬と 王様のけらいみんなよっても
ハンプティをもとには もどせない
ヨー君が教えてくれたなぞなぞだよ。
こんど会った時に答えを教えてあげるね。
美樹より」
それを読んだぼくは痙攣的に笑い出した。王様の馬と、王様のけらいみんなよっても、ハンプティをもとにはもどせない。わーはっはだ。
+
そして、クリスマスも間近にせまった十二月半ばの或る日、相いも変わらずケルマとレジに突っ立っていたら、『停止中、隣のレジへおまわり下さい』というプレートが置いてあるにも拘らず、じっとぼくの前から動かない客が居た。足元を見ていた視線を正面へ向けると、キシガミさんが目の前に立っていた。「あ、貞子」と思わず口走ってしまった。
「ひどーい、小山君ばらしたのね。絶対木島君には云わないようにって口止め料代わりにレストランのランチ奢ったのに」と云って、 むすっとした顔をした。ぼくは頭の中で彼女の髪をお化けのように長くしてみたが、やはりあのいつも俯いていた貞子とは結びつかなかった。整形でもしたのか、ただ単に髪の毛に隠れて顔がよく見えなかったのだけなのだろうか。
「……の?」という貞子ではなくてキシガミさんの声で我に返った。「え、 なに?」と訊きかえしたら、「今日は何時に上がれるって訊ねたの」そう彼女は云った。「毎日午前の六時だけど」と何気なく答えたが、よく考えてみたらぼくは現在一週間休みなく働いていたのだった。彼女は恐らくそのことを知っているだろうに、「えー、五日間朝の六時まで働いてるの?」と天地がひっくり返ったかのように驚いた。
「木島君、自宅から通ってるんでしょ。なんでそんな必死にバイトするの?」そう彼女に問われ、返答に困ってしまった。
こんな訳の判らない女にじっとしてると頭が変になりそうだから、などという深刻な問題を打ち明けたくもない。それに、自分でもよく判らないが、この女を見ていると妙に苛々する。フェラーリでも買おうと思って、と適当に(若干意地悪く)あしらった。
「木島君、飲み会の時は如何にも連れて来られたって顔して殆ど喋らなかったのに、結構冗談云うんだあ」キシガミさんは面白くて堪らないといった感じでケラケラ笑った。おまえに云われたくない、と思ったが黙っていた。
「じゃあ、土日は?」にこにこして訊ねる彼女に対して、どす黒く煮えくり返った肚の中で笑い乍ら、「よく考えたら土日も働いてた」あっさりとぼくは答えた。すると彼女だけでなくケルマまで、「え、何処で働いてるんですか? そんなに働いていつ寝てるんですか」まるで練習したかのように、二重奏でぼくに向かって云った。そして、口々に「だからそんなに痩せちゃうんですよ」「それじゃあ、寝る閑もないじゃない」と云った。おまえらにどうこう云われる筋合いはないと思ったが、貞子ならぬキシガミさんに明日の午飯の後なら空いているよ、とぼくは云っていた。じゃあ食堂でね、と満面の笑顔で去ってゆく彼女をぼくは胃の中に石でも詰まったような気分で見送った。「食堂」というのは思い掛けない偶然で飯森と出会った、女ひとりでは先ず這入り辛いであろう定食屋である。そこを指定したのは、学校に近いというのを理由にしてだが、もちろん意地悪な気持ちからもあった。
翌日の一時半近く、ランチにまだ間に合う時間にぼくと貞子はテーブルを間に定食とランチAセットを黙々と食べていた。この場合、どちらが定食でどちらがランチAなのかは関係ない。
食べ終わった後、ぼくは彼女を学校の屋上に誘った。中学や高校の屋上ではないのだから、隠れて煙草を喫いに来る者もいない。手すりに向かってぼくは立ち、手すりを背に貞子は立っていた。そして彼女に、「あんた、ぼくの何がそんなに知りたい訳?」と、単刀直入に訊ねた。
「なにって……、新学期になってからみるみるうちにそんなに痩せちゃったから、夏休みの間になんかあったんじゃないかと思って……」貞子は口籠り乍ら答えた。
「そんなに気にしてんなら二十四時間見張ってればいいんじゃないの」ぼくは投げ遺りに云った。
「だってそんなこと出来ないし、つきまとったら厭がられると思って……」困ったような、怒られている子供のような顔でそう云う彼女に、「当たり前っていうか、不可能だよな、ひとりで二十四時間見張るなんてさ。あんただって風呂にも入れば便所だって行くだろ」とぼくは吐き棄てるように答えた。「そんな、拘束したいとかそんなんじゃない……」と最後は消え入りそうな声で彼女は呟いた。
「じゃあさ、どうしたいの? ぼくと何がしたい訳?」
覆い被さるようにして、ぼくは貞子の向こう側の柵を握りしめた。逃げ場をなくした彼女はおろおろしながら右を向いたり左を向いたりした。
「云ってくれよ。云わなきゃ相手に伝わらないことくらい、小学生だって知ってるよ」と云うぼくの声に彼女は怯えていた。
「なんか入学当初からぼくのこと観察してたらしいけど、一年半以上も見てたらどんな人間か判っただろ。ぼくは誰かに好かれるような人間じゃない。それにもう、ひとに執着されるのは厭なんだよ」
「だって、あたし木島君のことが好きだから……。だから好かれるように髪も切って明るく見えるようにして、化粧の仕方も覚えて、一生懸命活発な女の子になろうと努力したのよ。全部あなたの為にしたの。あたしがやったことが無駄だなんて云わないで、お願いだから」
貞子は目を見開いたまま涙を流し、懇願するように云った。仕舞いの方はすすり泣きとともに、喉から無理矢理声を絞りだしているように聞こえた。
「悪いけど、あんたが努力してなった女って、ぼくが一番苦手なタイプなんだけど」
「だったらどんな風にすればいいか云って。そうなるように努力するから」彼女は涙をぼろぼろこぼして、掠れた声でそう云い乍らぼくの顔を凝視していた。まるで、永遠にぼくの顔を記憶しようとするかのように。
「じゃあ、上見てみなよ」そう云うと、彼女は何がなんだか判らないといった風にぼくの方を見遣った。「空だよ、空。見てみなよ」彼女はなんのことだか判らないといった表情をし乍らも、素直に上体を少しばかり反らせて上を見た。
そしてぼくは自分でも驚くくらい素早い動きで貞子の細い足首を摑み、思いきり柵の外に放り出した。下から幽かにどすんという音が聞こえた。
「ハンプティ・ダンプティ、おっこちた」と、小さく唄い乍らポケットに手を突っ込んで、屋上からの階段を降りた。そのまま、一階までとんとんとんと、ぼくは軽快に階段を降りて行った。
いつからか判らなかったが、「ハンプティ・ダンプティ、おっこちた」と繰り返しながらにやにや笑っている自分に気がついた。でも、それは止まらなかったし、止めようとも思わなかった。校舎の外に出ると向こうの方で何やら騒いでいたが、気にならなかった。ただ、口から出ている内容が「王様の馬と、王様のけらいみんなよっても、ハンプティをもとにはもどせない」 の繰り返しに変わっただけだった。
自転車置き場にあるバイクに乗り、スタータースイッチを入れた。
バイクを走らせ乍ら、ぼくは声を上げて笑っていた。何が可笑しい訳でもなく、それはしゃっくりのように止まらなかった。幾つか目の交差点で信号が赤に変わった。タンクローリーがゆっくり横切ろうとしていた。 その横腹に森の木々に囲まれた湖が描かれていた。その刹那、モノクロームに近いヘタウマの絵が頭の中を過ぎった。それは湖の中に佇む山高帽を被って杖をついた、老人の後ろ姿を描いた水彩画だった。それは一秒の十分の一、いや百分の一くらいのことだったかも知れない。
やっとぼくの馬鹿笑いはスイッチを切ったように止まった。そしてバイクのスピードを上げて、ぼくはその絵に向かっていった。
ゾマーさんの湖だよな。そうだろ、ミキ。
(初稿)2004年12月23日
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