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一月四日。

 リハビリ中である。八ヶ月もの間鬱に悩まされ、世間で云うところの「引き篭もり」状態であった。こんなに長い鬱は初めてだ。大抵は三ヶ月周期くらいなのである。
 辛かった。鬱期間の殆どを花粉症と猛暑に悩まされた。それが此の数日で、急に緩和されつつあるのだ。真冬なのに。鬱病は日照時間と緊密な関係にある。現に北緯の国では白夜などがあり、その時期には特に自殺者が増えるらしい。
 わたしは診断書では『鬱病』とされているが、厳密に謂えば『躁鬱病』である。処方される薬もそれに準じている。ただ、わたしの元々の性格が明るくないので、鬱の期間が長いのだ。そりゃあ、もう、頗る長い。
 しかし躁鬱病を発した十三才の頃は、きっちり三ヶ月周囲であった。面白いくらいに。三ヶ月間、意気揚々とまではいかないが学校へ通い、二、三ヶ月寝たきり老人のようになるのだ。
 子供を育てたことはないが、親は嘸かし苦労したであろう。
 が、家族全員、それを我慢しないでわたしに直接ぶつけていたので、ストレスは多少、発散出来ていたと思う。
 何しろ、世間体が悪いからと医者にも掛からせず、挙句の果てには親戚に押しつけ、十六才からアルバイトなどをしていたわたし自身が名古屋駅近隣にある医者を見つけ出し、ひとりで通おうと決意したのだ。まあ、二十才の頃であったが。
 ひとりで行くつもりであったのに、母が殊勝にも「わたしが一緒に行ってあげる」と申し出た。ひとりで出歩くことなど慣れっこなので、なんでまた。と思ったら、当時住んでいたのが岐阜の田舎町、と云っては失礼なので、名古屋のベッドタウンとしておこう。
 兎に角、岐阜市街へ出掛けるよりは名古屋へ行く方が、余程『お出掛け』感が
強かったのだ。つまり母にとっては、わたしの病状より都会へ行き、百貨店やちょっとした外食をするのが目的だったのである。
 見え見えのその態度にうんざりしたが、金主がついて来てくれるのは心強いので承諾した。
 それも古い話なので、どうでもいい。

 八ヶ月にも及ぶ鬱状態から脱しつつあるのだ。まったく回復の兆しを見せない患者に業を煮やし、かなりきつめの薬を処方してくれた医師に感謝である。
 しかし、躁鬱病の人間にとって本人にも他人にも迷惑が掛かるのが、実は『躁』なのである。鬱だったら何もしないで寝ているだけか、死ぬの死なないのと悩んでいるだけである。実際に死んでしまうひとも居るが、誰かに責め苛まされてのことではなくして死を選ぶのならば、本人にも周囲の者にも納得は出来よう。
 辛いことには変わりがないのだが。
 これが躁状態になると、そこらじゅうを歩き廻るは昼夜の別は無くなるは、滅多矢鱈と散財するはで、そりゃあもう、大変なのだ。
 ちなみに、今のところわたしは『躁』の取っ掛かりに居るので、一般的に見ても非常に健全な状態である。酒浸りにもならないし、過食嘔吐もしないし、家事も(一応)するし、一日中部屋から出ないにしても、何かしらしている。
 此処で留めて置かねばならない。医師も毎回そう云っていた。鬱よりも躁の方が厄介だと。わたしもそれは身に染みている。ただ現在のわたくしは貧乏なので、散財は出来ない。
 救いと謂えば、それくらいである。

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