たかが名刺、されど名刺

名刺交換っていうと、かつて新卒で入社した某金融の新人研修の時に、両手で差し出せ、しかも名刺入れを座布団にしろ、とか言われて、ほんといちいちめんどくせーことを考えやがるな、オトナって奴らはよって思ったことを真っ先に思い出すんだよね。
 
しかもその名刺入れを座布団代わりにしつつ両手で名刺を差し出すという行為が本番では実に難しい動作であるということに気づくのは現場に出た時に初めてでってところもイラっとさせられたよね。
 
大体、研修時の隣の席と向き合っての名刺交換ごっこと、実際に営業先へ行って、会議室に通されてからの本番名刺交換では、その間合いもさることながら、そもそも人数が、違うっつの。
 どうせ研修でやらせるなら、一番、煩わしい場面を想定しなさいよ、って今でも思う。
 
そう、取引先の会議室に案内されて、待っていたら、いきなり、部長に課長に担当者に、アーンド見習い、つまりは新人がやってきたりするのだ。時期が時期だけに。
 
どいつもこいつもあっちもこっちもこの時期、軒並み、新人研修の終わった若葉マークの実地訓練のつもりなのかもしれないけれど、先輩のお供とはいえ、初営業取引先なんだから、めっちゃ緊張してるときに、ズラズラ来んなよ、って思うよね。
しかも相手先の方々が入って来た途端に待っていた私たちの方は席から立ち上がり、ロの字型の長テーブルを離れて、会議室の空いたスペースで立ったまま、それぞれ次から次へと名刺交換をすることになる。
もう誰がどれだか分かんなくなっちまうじゃねーかよ! と心の中で悪態をつきながらもにこやかな笑みをたたえて「よろしくお願い致します」と名刺を差し出し、名刺を受け取り、名刺を差し出し、名刺を受け取り、名刺を差し出し、名刺を受け取り、名刺を差し出し、名刺を受け取り、って、これを立ったままやらなければならないって結構、アクロバティックな手の動きを要されるって思うのはあたしだけなのかしら? 
 
大体、研修の時はこちらが先に名刺を差し出せば、相手は受け取ってから、そのあと自分の名刺を差し出してくる、というとても典雅な動作で名刺交換を済ませたのに、実際の現場では名刺を差し出すのは相手先もこちらもほぼ同時。ってか次の人はもう準備して胸の前で名刺もって待ってるもんね。しかもこの名刺交換の仕方に微妙に互いの立ち位置があったりするからこれがまた厄介。
 つまり、立場上は相手が“顧客”ではあるんだけど、企業の格からいうとうちの方が断然上、だったりする場合。そういうことに拘るってうざいよねって思うのはシロウトさんで、会社っていうのは、業界には業界同士のネットワークや、業界業種を超えて大学時代の同窓ネットワークがあって、しかもそれをクロスオーバーさせていたりもするものなの。
要は人脈ってところでビジネスを繋げていったりしてるんだよね。
 
閑話休題。
 
かつて、あたしが某部署にいた時のことなんだけど、某損保会社の取締役の秘書にアポを入れたことがあったのね。その某社の取締役とうちの某役員は大学時代のお友達、先輩後輩の間柄だったの。で、たぶん、その時の秘書もまだ経験値が浅い女性だったのかもしれないんだけど、後になって、というかアポの前日の朝一番に電話してきて、「お車で来られますか?」と訊いてきたわけ。
 笑っちゃうんだけど、うちの某役員、社外でどう振舞っているかは知らないけど、社内においては、っていうか、部内ではめちゃくちゃフランクな人。しかも常に朗らかにしてひょうひょうとしているのよね。時間があると社外視察と称してすぐ日比谷図書館とか行っちゃうし。だから絶対、「お車のご用意」は必要なくて、行くなら自分でタクシー拾ってゆくか、気が向けば電車で行くかのどちらかしかないんだけど、そんなことは先方の秘書には言えないじゃない? うちの社内では軽く扱われている人なのかと推察されてはたまらないから。
だけど、その秘書が電話してきたその日も例によって某役員は社外視察中。なので、秘書には「確認して改めてお電話差し上げます」と言って、一旦は終わったんだけど、その日に限って、すぐに連絡が取れなかったの。そう、その秘書の電話より微妙に先に彼は「今日は立ち寄りで午後、出社するよ」と連絡入れてきてたのよね。それは他の人が受けてたわけ。
立ち寄りってどこよ
おそらく今日は人形町辺りなのでは? 
あ、じゃあお土産は人形焼きかな
などとあたしたちの方は超のんきに構えてたんだけど、10時頃にまた例の役員秘書から電話が来る。で、こちらもただいま確認中、なんて言って、分かり次第、お電話致します、なんて応えていたんだけど、秘書さん、11時にも電話してくるわけ。
 流石にここに至ってあたし達も、これはえらいこっちゃと、うちの役員のケータイに留守電やメールを残すだけでなく、役員は営業の誰かと同行することに予定変更してるんじゃないか(尤もそういうことは滅多に無い。同行する時は事前にちゃんと予定表に明記されている)、あるいはそれ忘れてるんじゃないかと、役員大捜索網を開始した。うちだけじゃなく他の営業部署にも電話かけまくった。でもみんな暢気に、「え? 来てないけど」「いや、その予定ないけど」「あの人がぶらついてるのはいつもの事では?」と返答してくる。
「どこかで倒れてませんよね?」いや、それはないだろう。
「たぶん、人形焼きですよ」「そうそう。どうせならうさぎやのどら焼きの方が今日の気分なんだけど」「浅草とか行ってないかなあ」とあたし達以外はみな、全然、気にしてない。
しかし、例の秘書さん、12時ぎりぎりにまた電話してきて、次が13時。14時の電話ではもう半泣き状態で、「お車で来られるかどうかが分からないと私が困るんですー!」と小声だけど絶叫モード。(役員秘書とは必要とあらば小声でも絶叫モードで話すことができなければならない)
さすがに可哀想じゃない? って思っているところへ某役員、15時ちょっと前にご出社。
やっぱり人形焼きを手土産に。
お伺いを立てたところ、明日は晴れなら電車と徒歩、雨ならタクシー。ま、そうだよねって分かっちゃいたけど。
「秘書にはなんて?」
「気にしなくていいよって」
果たして、それであの秘書が引き下がるだろうか。「半泣きでしたよ?」
「じゃあ、困りますってしつこく言われたら、“気にしなくて良いと〇〇君に言えばいいよ“ってぼくが言ったと言えばいいよ」
これまた至極のんきな調子でノタマッてくれて、あたし達は脱力。
「大体、そんなこと分かってるじゃないか。いつものことなのに」って某役員は笑ったけど、あたし達的には相手は泣く子も黙る某大企業、その昔は大蔵省か〇〇かっていわれたところで、そんなところの役員秘書が半泣き状態になるんだから、そこの取締役ったら、殿上人並みに遇されてるんじゃないの? 万が一にもお粗相があったら、うちの役員の沽券にかかわるんじゃないの?って、いつもは完全、腑抜け状態なあたし達もちょっと気合い入れ始めてた時だったから、ほんとに役員の相変わらずの飄々具合には脱力だった。
 一応、すぐさま秘書に電話してその旨を伝えたところ、非常に安堵した声で「ありがとうございました」と返されたけど、きっと今日1日、彼女のはらわたは煮えくり返っていたことだろう。
でもあの雑駁な役員の朋輩が時間にキリキリお車にキリキリするタイプだとは思えない(だって、基本、類友じゃない? 大学の朋輩なんて)から、おそらくあそこの秘書室にはいろいろ細かいことに厳しいお局が君臨してるんだろうね、なんてことをあたし達と某役員はお喋りしながら人形焼きを食べていた。
「うまいだろう」
「美味しいでーす!」
もう食べ物くれる人、みんな良い人! だよね。
ごめんね、秘書さん。うちってみんな実は社内では結構緩みっぱなしなの。
 
で、名刺交換に話を戻すと、先の場合は企業の格としてはあちらが断然、上だったんだけど、大学時代の朋輩の間柄ではうちの役員の方がどうやら上だったみたいなんだよね笑。でもそういう間柄でトップダウンで商談が成立したりする事もあったりするのよ、企業って。
 
だから例えは格下側の会社さんにとっては、うちと取引しているということが1つのステイタス、社会的信用度に繋がったり、うちと親しくすることによって得られる情報とかもあるよな、という計算も働いていたりするんだわ。となると例え課長や部長でもあたしが先に名刺を差し出すのを待つ、なんて真似はしない、それこそ、名刺出し続けて人生20年から30年なオジサマ方の無駄のない洗練された動きに、あたしの方がオタオタ。そんな場面はしょっちゅうあって、その時こそ、思ったんだよね。新人研修、遊び半分な気持でするんじゃなかった。もっと真剣に真面目にやっていれば、今、こうして冷や汗をかくこともなかったのに、と。
 
たかが名刺交換、されど名刺交換、その時の立ち居振る舞いもその人のこれまでの生き方の表れ、と見抜く人は見抜くから。
 
最後に、かつての例の某役員が語った事を。
 
社名を笠に着て、居丈高に差し出せば、名刺はただの肩書。人はその名刺だけできみを判断する。名前の上に何もなければそれだけの人。主任とあれば主任、課長とあれば、課長と。
だけど、歳を重ね役職がどう変わろうと、常に謙虚に、下からそっと差し出し続けるなら、その名刺をもらった人は、名刺の背後にあるきみの人柄、会社人生の軌跡を考えるようになる。名刺はきみの実績の証なのだと。
 
たかが名刺、されど名刺と思うのは、やっぱりそこに人生があるからなんだよね。

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