「悪医」という小説 

凄い小説を読んだ。
2人の主人公。かたや52歳の末期がん患者小仲辰郎。かたや35歳の外科医森川良生。
死ぬとはどういうことなのかをめぐる2人の人間の魂の軌跡と邂逅。
この小説を読んで、つくづく思ったのは、読書とは、その小説に出会うまでに自分が日々の中で、何に興味を持ち、何を経験し、何を心に残して生きてきたか。その全部をバックボーンにして、描かれる世界と向き合う事なんだな、ということ。
そしてそういう気持ちにさせられるものこそ、小説なんだという事。
読み手の人生を引きずり出させる力があるんだ。本物には。
そんなふうに思わされた。
勿論、全ての人がそうなるとは限らない。それは人生の中でどういう経験をしてきているかで、やはり全然違うと思うからだ。
作中に森川妻、瑤子が「それは理屈ね。患者さんには理解してもらえないわ」という場面がある。森川は医師だから、がんに対しても今の医療の現状とあわせてとても合理的に考えているし、それは正しい。だけど、死にゆく人にとっては、合理的判断や説明は意味をなさない。だって死ぬんだから。観念的に考える先に死があるわけじゃないから。

そう思えるのは例えば私には2つの経験がある。
ひとつは職場の友人の兄嫁の話。彼女は卵巣がんでステージ4で亡くなった。
友人は「ステージ4でも治る」と言い続けていたが、兄の方と義姉の方は余命宣告を受けていたそうだ。彼女はそれを義姉が亡くなった後で兄から聞かされた。
義姉が亡くなって、病室の姉の私物を整理しているとき、日記が出てきた時だった。ノートには生きる事への渇望、なぜ自分が死ななければならないのか、呪詛の言葉がのたうつような字でびっしりと綴られていて、それにショックを受けたとき、兄から打ち明けられたのだそうだ。彼女と母親が「きっと治るから」と言い続け、兄も兄嫁も、うんうんと頷きながら、頑張るよ、と言っていたのに、どこか諦めていたようなそぶりがあったのは、余命宣告を受けていたからだったのだ、と思い当たった時、しかしその一方では、「何が何でも死ねない」「今、死ぬわけにはいかない」とノートには激しい心情が綴られていた、そのギャップに、彼女は呆然としたそうだ。
兄嫁の心情を思うと、たまらない気持ちになる。
なぜなら、私も第二の母と言って過言ではない友人をやはり乳がんでとられたからだ。
初期の発見だったのに、5年目に再発して、その1年後に亡くなった。
小説の中でも、小仲ががん患者のブログを見つけるくだりがあるが、私も友人の彼女が闘病中のとき、がん患者の人達のサイトをみつけ、そこで多くのブログを読んだ。
小説と同様にその中の多くが、やがて更新されなくなり、ひっそりと消えてゆく。その中で、何度も再発しながらも命を繋ぐ人達は、母親たちが一番多く、次が父親達だ。
そう、これが親なんだ。生きる事への凄まじい執念は自分の為と言うより、この子達を遺してゆくわけにはいかない、この一点なのだ。
友人の兄嫁にも小学生の息子と娘がいた。
 
そのことを思うと、小説の中の森川医師の末期がん患者への説明が、妻瑤子の言うように「理屈」はそうなんだけどね、になるのがよく分かる。
ただ、だからと言って、森川医師に心が無いわけではない。むしろとても良心的な医師だ。
「もし、自分のがんが転移して、余命三カ月などと告げられたら……。森川はふと、胸に迫るものを感じた」という医者だからだ。
とはいえ、日々、身体の中に絶えずがん細胞が増えている状態を生きているわけではないのだから、健康な身体で普通に生活していれば、末期がん患者の心情を察するにも限界があるし、寄り添い続けていたら、精神的にもたなくなってしまうだろう。
そう思うのは私自身はたったひとりの女性を看取った経験しかないのだけれど、職場の上司の友人が、やはりがんと知らされた時の事があるからだ。友人もかつては同じ会社の人だったので、上司と私と同僚1人とで彼を見舞ったあとのことだ。上司が私に訊いたのだ。「どう思う? どれくらい持つと思う?」
上司は私が友人を過去に看取った事があると知っていたので、そう訊いたのだ。私は、そのとき、「……3か月ぐらいでしょうか」とつい言ってしまった。そしてそれは当たってしまった。
勿論、ただの偶然だ。
ただ、上司の友人の顔色、身体つき、歩き方が、私の友人の最期の3か月の時の様子にあまりにも似ていたことを覚えている。ずっと、10年以上も前の事だったのに私は友人のその時の様子を忘れてはいない。
だから、ただの偶然に過ぎないにしても、友人を看取った時の記憶があったから、そう応えてしまった自分の事を思うと、これが病院に勤めて日々、患者に接している職業の人達であれば、その経験則が教えてくれるものはもの凄いだろう、それをいちいち意識していたら、心が壊れてしまいそうだ。だから、距離を取るんだろう、とも思えるのだ。告知する時も、その後でも。
私の友人の時も、彼女がホスピス病棟(最上階に近い階)に移ってから、1階の、外来病棟から入院病棟へ移る廊下で、たまたま向こうから歩いてくるかつての担当医を見つけたとことがある。
距離は大分離れていたけど、私は目が合ったと思ったから、会釈しようとしたのだけれど、彼はさっと脇の階段を駆け上がって行ってしまった。
あの時は、あらら、気づかなかったんだわ、と思ったけれど、もしかしたら、私に呼び止められて、あれこれ、訊かれたら、と思ったのかもしれない、。彼女が亡くなった後でそう思い返した。
当時、私は友人がホスピスに移った事は理解していても死ぬことを意味するとまでは分かっていなかったので、そういう立場の者を相手にして、医者は一体、何をどう話せば良いというのか。そう思ったとしても不思議じゃないし、そういう場面を回避と思ったとしても責められない。逆の立場だったら、私だって逃げたい。
自分の人生丸ごと失う相手に、自分の人生丸ごとで寄り添えって、それは無理だから。
そんなふうに今は思うので、森川医師の振る舞いを、患者から一歩、心の距離を置く、というのも、心の防御反応の1つでもあるよな、とも思えるのだ。
 
そして、小説のラストは圧巻だ。小仲の境地には思わず号泣してしまいそうになった。
森川の心情も胸を打つ。
 
言葉は、思いは書くことによって、決定されてしまう。
だから、わたしはこの小説に限っては、感想の総括めいたことはしたくない。
なぜなら、書いてしまえば、それはそれだけのものになってしまうから。
 
よく、作者がペンを置いたところから読者は始める、という。
まさにその通りだと思う。
これは読み終えて、あー、良かった。感動した。そんなレベルのものじゃない。
読み終えたからといって、終わらせることは出来ない。
ふたりの主役の魂の軌跡が、この先も、わたしの人生に、絶えず、問いを発し続けてゆくことになるだろう。

そして、そういう存在になるものこそが、小説なのだと思う。

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