本とは出会うもの


かつて『うるさい日本の私』という本があって、でもその時は、私は中島先生のようにはあんまり気にならなかった。
むしろターミナル駅とかでは「ここは左側(右側)通行です!」と連呼してもらえないだろうか、とか、「あなたがホームから見上げた時に下り用階段に人がいないからと言って上らないでください! あなたが上り終わらないうちにその階段を下って来る人達がいます。ここは乗換駅です。数分差で人は来ますから。そして下りてきた人に体当たりせんばかりに登るのは言語道断です!」とか、「ホームはラグビーの試合ではありません。タックルせんばかりに攻撃的に歩くのはやめてください!」とか、ぜひともアナウンスしてもらいたいとすら思っている。私が通勤ラッシュ時に使うターミナル駅では傍らに人無きが若ごとしで歩いてくる人達があまりに多い。
 
そういえば、かつてランチに行った居酒屋で、そこは老夫婦が営んでいたようだが、BGMはスタンダードジャズで、おしゃれな感じだった。とはいえ店内装飾はおしゃれではなく、いかにも飲み屋って感じ。カウンター席とテーブル席が4つ。板壁にはおつまみメニューの短冊と酒屋のものなのか、和服女性が一升瓶を胸元に抱え微笑しているポスターが貼られ、カウンターの奥の棚にも日本酒の瓶がずらりと並んでおり、店内の雰囲気から言ったら演歌の方が似合いそうな店だった。そのいかにも演歌な店内でそこはかとなく流れるビル・エヴァンスの「いつか王子様が」、そのBGMを聞きながら食するお刺身定食とか銀だらとかキンメダイの煮つけ定食とか本当に美味しかった。
が! ある時から、それまではお運びは白髪のおばあ様で、「いらっしゃいませ」だったのが、なんか若いギラギラした感じのおにいちゃんに変り、「っらっしゃい!」の呼び声に変り、オーダーも「さしてい(刺身定食)いっちょう!」に変り、BGMも演歌に変わったのだった…。
確かに演歌が似合いそうな店内ではあった。しかし、あまりに似合い過ぎてしまうと、刺身定食780円のお得感がなくなり、なんか、普通に780円定食居酒屋になってしまった気がしたのだ。
ザ・昭和な居酒屋にそこはかとなく流れるピアノジャズ。そして刺身定食やキンメダイの煮つけという取り合わせが、物凄くお得感を醸し出していたように思うのだ。今にして思えば、だけど。
癒しのランチ、ビル・エヴァンスと共に去りぬ。
飲食店でのBGMって、実はファッションの要と同じくらい大事な存在なんじゃないかと、その時、初めて意識した。
 
逆に、BGMがあってイライラするのが、実は、本屋さん。
私は本屋さんが大好き。本を買うなら本屋さん。平台を眺め、書棚で本の背表紙のタイトルを眺め、心惹かれるタイトルがあれば、手に取って、装丁デザインを眺め、背表紙に書かれた内容紹介を読み、解説を読み、本文の出だしを読み、一旦、棚に戻し、他の本をまた眺め、また手に取って、最初と同じ手順を繰り返し、その中で、どの本が気になったか、心惹かれたのはどの本だったか、後ろ髪を引かれたのはどれだったかをじっくり検討し、心の声を聞き、よし、あの本買うぞ、という儀式を経ないと買えないの笑。
時には家に帰って、それでもやっぱりあれ買えば良かった、とかになる本もあって、そうなるともう気もそぞろ。次の日の仕事でミス出しまくり。例え仕事終わらなくとも明日大残業しますから定時で帰らせて状態になってしまうほど、本が好き。でも、とりあえず気になった本全部買うとかはしないの。だって、本屋で背表紙に書かれたタイトルとの対話をしたいから。そう、背表紙のタイトルがね、そっと語り掛けてくれるわけよ。
どう? 読んでみない? 多分、いまのあなたにぴったりの内容だと思うよ。
ほら、あなたの心が求めているのはわたしよ。ぼくだよ。
そう本の背表紙が語り掛けてくるときがあるのよ。
逆に無言の背表紙もあるの。
だから、私のハートを射止めたこの1冊っていうのを見つけることが大事。
そういう本との対話ができなくなるのよね、本屋のBGM。
一体、ここはどこ? 私は誰? 何しに来たのか分からなくなるんだわ。
スーパーじゃないんだからさあ。買ってえ買ってえ、美味しそうでしょう? わたしを買ってえ! っていう類じゃないでしょ、本は。
心にすっと入り込んで来る何かがあるのよ、本のタイトルには。そのセンサーをことごとく鈍らせてくれるんだよね、あのBGM。
 
そこまで言うなら、耳栓したら? と言われそうなんだけど、実際、そうしたいところなんだけど、本屋に着いた途端におもむろに耳栓取り出したら、なんか、もう「変な人」じゃないでしょうか…。
なにか世間様との境界線を越えるような? そんな気がしてしまうんですが…。
 
あー、図書館と同じくらい、本屋だけは静かであって欲しい、いまこそ中島先生の気持ちが分かったわ。
うるさい本屋のBGMとわたし、と思う年の瀬でした。

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