小説「ザリガニの鳴くところ」

「ザリガニの鳴くところ」(ネタバレしてるかも)
 
良い小説でした。
ただ、多少のファンタジーはあるとは思うんです。
例えば学校を1日でリタイアした少女が善意の少年によって読み書きを覚え、長じては学者顔負けの知識を習得し、世間に認められ、本を出し、名誉博士号まで授けられるとか、名声を得た後も湿地で愛する人とだけ暮らしてゆけるとか、その湿地だけでなく、約1.3平方キロメートルもの土地が、そもそも自分(祖父)の物だったとか。
 
実際、現実にはこの日本でだって、今も格差社会は続いていて、差別やいじめ(自分たちとは“違う”から、違う者を排除する)も続いているわけだし、また格差の中で持たざる者たちの多くは「無理ゲー社会」に落とし込まれていることを思うと、果たしてこのファンタジーの部分をどう思うんだろうね、というあたりで、ちょっと考えさせられるというか。
とはいえ、まず、貧困層から抜け出す為のたったひとつの冴えたやり方、シンデレラストーリーは特にハリウッド映画が得意とするところで、例えばそれがボクシングであれ、フットボールであれ、スポーツの世界では他の人より優れた身体能力を持っている、スポーツでなければ、数学などの頭脳明晰さ、どちらであってもその能力に気づいた大人が機会を与え、主人公たちは己の類まれなる天賦の才を武器に貧困層から這い上がってゆく。その手の物語には枚挙にいとまがないので、今更それ持ち出されてもねって言われてしまいそうですけど。
だって、そこだけでみれば「ザリガニ」だって、物語の王道ですから。
そこにごちゃごちゃ言うの、野暮なのでは? ですよね。
でもね、先に挙げたシンデレラストーリーが数多く制作されたのって、おそらく60年代から80年代辺りまでなのでは? と思うんです…。調べたわけじゃありませんけど。
私が見たり読んだりしてないだけで、今でもそういう物語、喜ばれてますよ、だったら、私の勘違いでごめんなさい、ってとこなんですけど、あくまで、私の皮膚感覚では、格差社会と言われるようになって、社会全体を閉塞感が覆うようになってから、そういう貧困層から這い上がって成功するストーリーって、あまり見かけないよなあ、と。
でね、そこで思ってしまうんです。事件にしろ、小説にしろ、ドラマにしろ、映画にしろ、それが作品として出来上がってくるとき、そこには先立って、言葉では表現しがたい社会の空気があるんじゃないのかな? と。その社会の空気、つまりは「無理ゲー」「親ガチャ」とかに象徴される“何か”が、もしかしたら、「ザリガニ」の主人公の成功譚の部分とは呼応してないかもしれないなあ、と…。そこ、そんなふうに思わされたりはしました。
 
思うんですよね、実際に人生における“湿地”に生きる者たちは、こう思うんじゃないかな、と。人よりも優れた才能があるなら、それが自分を守る砦になるって。だけど、その砦すら持たずに生まれてきたからこそ、“湿地”にいるんじゃないのか、と。
特に今、生きる価値、存在価値の尺度が「社会的生産性があるか」になっている世の中を思うと。
そう思うと、シンデレラストーリー描くところのスポーツ界で成功する能力も、頭の良さ、も、実は何よりもこの社会的生産性で計れるものなんですよね。
湿地の少女もそうなんですよ。村人に気づくチャンスが与えられてなかっただけで、彼女は辺鄙な田舎町の彼らより、はるかに社会的に優れた人たちのいる世界へのパスポートを手に入れた存在なんです、その頭脳によって。
彼女が学者顔負けの博学さを持っていなかったら、本を出していなかったら、たぶん、弁護士は、「今こそ、この湿地の少女に公平な判断を」と熱弁を振るわなかったんじゃないでしょうか。そう思うと、何をもって“公平”だったんでしょうね。
もし、湿地の少女が、善意ある少年が読み書きを教えてもその努力は実らず、長じても野生児だったら、日本でいうところの“ケーキの切れない”女性だったら、果たして、弁護士は同じ弁論をしただろうか。
また善なる少年がなぜ彼女を裏切ったのか。そこもとても秀逸なんです。彼の胸に渦巻いた思いを私は否定できません。だからこそ、彼が戻った時、その決心の裏にあるものは、彼女自身、つまりbeではなくhaveだったというところにおおいに考えさせられもしたんですよね。才能は“もっているもの”ですから。真に無償の愛を体現していたのは黒人夫婦ではなかったか、と思わされています。
社会的に有用な存在じゃなかったら。そういう点で、差別や格差とともに考えさせられるなら、私としては山本周五郎の「プールのある家」の方がよほど心をえぐってゆかれました。
 
では、なにゆえ、「ザリガニ」良かったんですか、と問われれば、そのファンタジー的設定、社会的生産性のある存在かどうかを割り引いても、主人公カイアの、1人の女性としての生き方には胸打たれるからです。そして性愛について。
彼女を愛する男性が2人いて、ここ、読む側がどう思うかってところなんですが、私はチェイスもやっぱり彼女を愛していたのではないかな、と思うんです。彼女の手製の首飾りを肌身離さずつけていた、というところで。
自分のテリトリーではじゃじゃ馬馴らしと吹聴してたとしても、自分と同じ世界に住む裕福な家庭のお嬢さんと結婚するにしても。
そして、だからこそ、カイアは決断したんじゃないのかな、と思うんです。
チェイスの方だって、もし、青春の武勇伝の為だけに彼女の初めての男になったのなら、目的を果たした時点で、捨てても良かったわけで。だけど身に着けていたということは、本文にもある通り、愛していたんでしょう。
でもその愛は所有欲でもあった。婚約したことがバレても所有物だからこそ手放さなかった。あくまで自分が飽きてから、捨てる。主導権はオレ。それ以外ないからオレ様。そういうことだったのかもしれません。
でもなあ、と。そこでまたちょっと思うんです。そういうタイプの男って、彼女のお手製の首飾り、いつまでも首からぶら下げてます? 例え戦利品だったとしても。彼女以外の女性もとっかえひっかえしてる男なんですよ? 
持たざる者が作ったお手製の首飾りですよ? 粗末で貧相だったと思うんですよ、アクセサリーとして見た場合。貝殻に革紐通して作っただけなんですから。しかももらってから何年か経ってるわけだし。革紐だって皮脂や汗で大分汚れてたと思うんですよね。でも外さない。
それに、そもそも村社会ですよ。そしてカイアは変人扱いされ、ゴミ扱いされていた少女。それは周知の事実。どうでしょうか。そういう環境であれば、例え、美女に育ったとしても、処女を奪ったら、はい、それまでよ、じゃありません?(多分、ケッチャムなら、そうすると思う。『隣の家の少女』のむごたらしいこと)。
それをいつまでも戦利品ぶら下げてたら、仲間内では、それこそ逆に「キモくね?」と陰でひそひそ言われかねないと思うんですよ。だって、もう彼女の価値は落ちきっているわけだから。それでも首飾りを身体から放さなかったってところに、振る舞いや言葉以上の、カイアと離れがたい“何か”、自分でも分からないものに彼も絡めとられていたのでは?
そう思うと、それ、もう常識では認められないけれど、やっぱり、“愛”、それも原始的な愛、だったんじゃないでしょうか。
で、そう思ってしまうと、この作者って凄いって思わされてしまうんです。
やってくれるわけですよ。愛について。
最下層に位置する変人で野生児のような少女がいつの間にか知性を身につけ美しい女性に変貌を遂げていた。確かにそれはまぶしいでしょう。ある意味、神秘的ですらある。でも、男と女、やることやったら、それまでよ、じゃありません? だからチェイスはそうした。
はじめは文明社会の人間の雄として、目の前に魅力的な雌がいるのだから、言葉巧みに洗練された振る舞いをもってカイアを魅了し、誘惑し、手に入れてからは社会の規範から外れ婚前交渉を持った女として、彼女をモノのように扱った。
だから、カイアもそうした。自然の摂理に従って、チェイスに対して、自然の雌として、その役目を終えた雄に対して、すべきことをした。
性愛は性愛、ただ、そのレベルが昆虫レベルか哺乳類レベルかで返す愛もまた決まってくる。
そう思うと、ある意味、文学の永遠のテーマでもある「悪女にして聖女」を超えたよね。
 
でも何より胸打つものがあるのは、それはやはり、観念的な世界観に支えられたものではない、ちゃんと肉体を持った、ひとりの少女がただひたすらに持てる力のすべてでもって己の人生を生ききった、そこなのかもしれません。
知性ある人間として自らを生みなおし育てなおしてもなお、老いて最期の時は野生の呼び声とともにその魂はあった、そう思うと、なにか、知性があるから人間というものの見方も考えさせられます。いえ、知性があるからこそ人間なんですけど。
ただ、今の社会はあまりにそこに偏り過ぎている、なんとなれば身体性を無視しすぎて、あなた人間なのかAIなのか、もはや文字だけでは区別できませんから、な人、いますよね、実際。
 
で、この小説、ミステリーの部分でいえば、殺人事件については、ヒントは後半に何回か出てくるので、犯人はやっぱりね、ってなると思うのですけど、でも、たぶん作者もそこはそうしておいたんだろうね、とも思うんです。もう1つの方こそ、「お!」と思わされました。そことの合わせ技がお見事です。哀切と余韻があるので。
 
そして善意の少年だった彼は、最後、すべてを胸に秘めてどうするのかな。だって、すべてを悟ったとき、彼もまた既に老いているわけだから。
そう思うとタイトルが胸に迫ってきます。
 
ただ、それでもなお、最初に言ったように、今の世の中、食べる為に生き、生きることで人生をすり減らす、そういう生活を強いられている者達にとって、この小説は心にどう響くんだろう。
その思いは残りますが。
 
とはいえ、こういうのが、“小説”なんだよね。
そう思わされた1冊でした。(って、相変わらず口幅ったい物言いですみません)
 

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