好きに言わせて(映画の話)

やっぱりミステリーは肌に合わない
 
TVで「容疑者Xの献身」を見た。
堤真一さんの演技は素晴らしかった。松雪泰子さんも健気で可憐な感じが出ていて、そりゃこういう女性なら好きになっちゃうよね、とその存在に説得力があったわ。(ってわたしったら何様? すみません)
 
ただ…。
石神哲哉の人生の履歴を想像すると、そんなことするものなのかなあ、とはどうしても思ってしまったの。
TVで見てた限りでは数学者への道を諦めて父親だったか? を介護(父子家庭?)に専念、その後(でいいのかな?)高校の数学教師となり人生に絶望していた。ってことのようだけど、そこで躓いちゃったの。これがね、天才とかじゃなかったら、分かるの。
子供の頃から神童と呼ばれ、自分もその気になっていたけど大学に入ったら、そこは神童ばかりいて、なんだ自分、優秀な連中ばかりの中にあっては普通じゃんって。それでも研究者への道を諦めきれず院に進むつもりでいたらまさかの父親介護勃発。その時、父親が何歳か分からないけど65歳前、50代半ばか後半辺りだったら、同居在宅介護だとして、介護費用と生活費は障害年金と預貯金取り崩しと後は哲哉は赤ペン先生のバイトとか? で食いつなぐ生活かな? と想像し、介護生活は10年くらい? その後は高校教師になっても、介護生活で精魂尽き果てて、もう生きる希望もありません、ってか親が死んで天涯孤独、オレ、なんで生きてんのかな、と思っても、まあ、そうなるかもしれないなって思わなくもないの。
だけどね、哲哉は自称じゃなくて、湯川も認める数学の天才だったんでしょう?
だったら、親が死んで、自分、まだ30代。いくらでもやり直せると思うのよ…。
ラマヌジャンをみてごらんって。
面倒見なきゃならない親は亡く、養わなければならない妻子無し、の30代。
どこへだって行けるでしょう。数学の天才なら、ケンブリッジにでもオックスフォードにでも数学の教授連に片っ端から手紙出してみたって良くない? 自分を諦めるのはそれからでも良くない?
TVで見る限りはアパートでつましい生活をしてるようだけど、数学の学術図書を買ったり登山費用を出したりできるところを見ると、親の介護で介護破産して借金抱えて今も絶賛返済中ってわけでもなさそうだし。どう考えても絶望する必要があるとは思えないのよ。
首を吊るのは早すぎよって、思ってしまうんだけど。
それはともかく。
百歩譲って、絶望した人生を送っていた石神が、花岡母娘に出会って、彼女達の健気さ、つましい生活の中でも明るく朗らかに生きる彼女達の中に、もしかしたら自分も得られたかもしれない人生の喜びの一切を見たというのはとてもよく分かるの。
そうだよね、もうほんと松雪さん可憐で素敵。
ただね…(まだあるのか!)。
なんでホームレス殺害する必要があるのかな、と。
だって、富樫。DV夫だったわけでしょう?
そこでまた思っちゃうの。
離婚した元妻の所へ金を無心するような無職男って、どんな履歴?
もし富樫に親兄弟姉妹がいたら、普通はまずそっちに行かない? 行っても相手にされないから元妻の居場所探し出して金無心ってことなのでは? と思うのね。
だったら、富樫は親兄弟姉妹親戚一同からは厄介者ってことよね。音信不通なんだと思うの。一族の厄介者。無職の住所不定男。そんなだったら、行方不明になったって、捜索願を出される心配なくない? 私が富樫の親族だったら、絶対、捜さないわ。どこかで野垂れ死んでてくれたらラッキー、だわ。
捜索願を出せる人は限られるわけだから、それなら後は宿泊代だけよね。
でもね、帝国ホテルや皇室御用達の名だたる旅館だったら、いざ知らす、それだって、宿泊者以外が宿泊代を支払うことは可能なことを思うと、たかが簡易宿泊所。
簡易宿泊所の支払いこそ、宿泊者以外の人が支払いをしてもなんの問題も無いから。
そもそも石神はいよいよとなったら自分が罪を被るつもりでいたんだから、だったら、友人に頼まれて宿泊代支払いに来ましたと堂々と女将に言ってなんなら名刺も渡して宿代精算した方が良くない?
万が一、富樫の遺体が発覚して事件になれば、宿屋の女将が警察に「友人が払いに来ました」って言うでしょうし。それで、自分に注意を向けさせたらいいのでは?
富樫と花岡は離婚してたんだから、遺体発見後、いきなり、怪しいのは元妻だ! さあ元妻宅へ直行だ!ってならないと思うし。
石神は普通に隣の花岡母娘の部屋で男の怒鳴り声が聞こえたから、自分が仲裁に入って、富樫を連れ出し説得を試みたけれど、口論になり暴力を振るわれ、必死で抵抗するうちに殺害してしまいました。怖くなって遺体は隠しました。花岡さんには自分が話をつけたので富樫はもう来ないから安心して生活しなさいと言いました、で良くない?
後はそれで庇い通せば良かったのでは?
それでも花岡さんは耐え切れず自分がって言い出すでしょうって、だったら、それはホームレス殺害にしたってそうでしょう。
っていうか、そもそも富樫を殺害した所へ石神を部屋にあげちゃってるわけで。
大体、そこで石神が遺体は自分が始末しますって言い出した時点で、それに乗ってる方がどうかしてるって思うのよ。
っていうか、それを言ったら、そもそも遺体を始末する提案をする石神もどうかしてると思うのね。だって、天才なんでしょう?
だったらそこは冷静にまず状況を聞くよね。富樫はDV夫。それゆえの離婚。なのに付き纏われ、金をむしり取られ暴力を振るわれること度々、今度ばかりは自分達を守るための殺害。そういうことから考えない? 正当防衛が成立するか、過剰防衛を問われるか、巧くいけば執行猶予がつくかも。問題は腕の良い弁護士を雇えるかだ! そういう判断をするものじゃないの?
 
それだとミステリー小説になりません。トリック命です。
そうかもしれないけどさあ。
 
人間ドラマとして考えてみてさ。仮によ。花岡の気持ちになってみて考えて、気が動転してて、石神の遺体は処分しましょう、にその時は乗ったとしても後から後悔すると思うの。
石神が想像したように警察から追及されたら持たないような精神の女性なら、警察が追及する以前に、人を殺した事、富樫の遺体の始末を石神にさせたこと、それ自体に精神病むと思うの。(ホームレス殺害を知らないことを前提として)
それに石神の立場になっても、彼も気が動転して、弁護士より遺体を処分だ! と思ったにしても、それに花岡さんが乗ってきたら、やっぱりそこで愛は冷めない?
だって、彼はそれまで花岡母娘をある意味、神聖視してたんじゃないの? 彼女達の生活を清らかなものとして大切にしてたんでしょう?
それが、いざ、殺人を犯したら、遺体を隠そう提案にまんまと乗っちゃうって、そこ気にならない? 聖女にして悪女? なんか、違くない? それこそカエル化現象起こらない?
彼女もしょせんただのどこにでもいる女だったんだなって思わない?
にしてももし花岡母娘がおかめ顔母娘だったら、どうだったんだろうね、とふと思う。その時は、引っ越しの挨拶が済んだら、首吊り続行だったのかしら。純愛って、美女とセットなのかしらね。
それはともかく。
愛による究極の自己犠牲、献身って言われても、殺害を隠す為に更なる殺人を犯してって、しかもホームレスだったらいいでしょって、それエゴイズムの間違いなのではと思えてくるんですけど…。って、そう思う私の方がどうかしてるのかしら。
まあ、あくまでTVで見てたから、色んなことが端折られているのかもしれないし、原作読んだら、感動するのかもしれないけど。
 
ただ、献身といったら、むしろディケンズの「二都物語」のカートンこそ、究極の自己犠牲を捧げていると思っちゃうのよね…。とはいえ、あれも瓜二つの赤の他人ってところで、そうそうそんなことがあってたまるか、と思わなくもないけど…。って、もう! わたしったら! 心が汚れているのかしら!
まあ、そんなことを思わされた映画だったかなあ。

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