なんにもいらないよと書いた人のことで書くことについて思うこと

いくつかの小説投稿サイトを利用して思った事。
基本的に投稿するって事は作品を読んでもらう事を目的にしてるんだろうと思っていて、更にできれば「いいね」ボタンとか押してもらえるともっと嬉しいってハナシだよね、と思っていたのだが、世の中には必ずしもそうじゃない人がいる。
そう、感想とか、コメントとか、いりませんから~、な人がいるのだ。
これは私には結構、衝撃的だった。
その人がどれくらいその態度を徹底しているかと言うと、投稿した作品にコメントが付こうものならその作品だけでなく自分のアカウントも削除してしまうのだ。これには驚かされた。
注目してくれるなって人なのだ。
巧いのに。言葉の選び方とか、もう美し過ぎて。ああ、世の中にはこんなふうに言葉を紡ぎ出す人がいるのだなあ、と。その人の作品を読むと、心が透き通ってゆくような気がする、と。そう思っていたのだけど、褒めると消える。なので、もうずっとただ読むだけにしてそっとしておいている。
一方で、注目されるためなんだろうけど、やたらに攻撃的なコメントをつける人もいる。
この人は書いているうちに興奮してきてしまうのか、頭の中でめぐる思考にキーボード変換が追い付かないのか、字面から湯気立ってますね、状態な長い長い書き込みの連続投稿が凄い。それも朝から晩までというか明け方近くまで続く日は続く。
さすがにそれは目立つので結果的には注目の的になっている。
注目されるとアカウントごと消えてしまう人と注目される事を主眼としている人と、小説を書く人の個性は幅が広い。
とはいえ、プロになりたくて小説を投稿する人と、リアルでは知り合う事もないだろう人達との交流を求めて小説を書くというスタイルの人もあるようで、そういう人達は小説が交流のツールなんだろうな、ということが最近、分かり始めてきた。そういう人達の書いたものは自分の心の中の割無い思いのあれこれを形にしてるのかもしれないな、という内容が多い。
以前、シナリオの学校に通っていた頃、そこの講師が機関誌に、いつも必ず嫌味な姑が登場するシナリオばかりを書いてくる主婦の事を取り上げていて、その女性は最初は自分の生活の中でままならない軋轢をシナリオにしていたのだけれど、ある時、なぜ自分はこんなにも悪辣な姑ばかりを描くのだろう、と思うようになったのだそうだ。そしてなぜ姑はこんな意地悪をするのだろう、と。なにが姑を苦しめているのだろう、と。そして段々と意地悪をする姑の心模様に気を配るようになったそうだ。そうすると姑自身も若い頃、長男の嫁として嫁入り先で息の詰まるような生活を強いられたこと、昭和の始めの頃ゆえ、今ほど女性の生き方に選択肢が無かった事、嫁ぐ前の娘時代から、家庭でも、例えば女子なんだから高卒で良い、行っても短大まで、とか、会社に就職しても25歳迄には寿退社が花道とか、社会的抑圧が沢山あった事、そういう時代が見えてきたのだそうだ。そこに思い至ってからの主婦の描くシナリオの登場人物たちは姑に限らず俄然、深みが出てきたそうだ。
物語を物語るのではなく、人間を描く事。そういうことなのかもしれないなあ、なんてその紙面を読みながら思ったりした。でもその前に、ただ、なんとなく思っている事を吐き出したくて書くっていうのでも良いのかもしれないな、って思ったりもする。
書くことで自分の中の形にならないものを吐き出せることもあるし。吐き出す事で気持ちの整理がつくこともあるから。
ある文筆業の方が、樋口一葉の「たけくらべ」を例にして、本当に良い小説と言うのはどこか読む者の心のもっとも柔らかい部分を傷つけるものだ、と書いていた。
美登利の将来を思う時、切ない物語だけではない、ざわりとしたものが背景にはあるのだ。彼女は遊女になるのだから。
遊女になった美登利がいつの時か、老いてから、宮部みゆきの小説に出てくる黒白の間で、語って語り捨て、聞いて聞き捨て、をお約束に語りたいことはこの少女時代のことだろうね、なんてふと思う。それは怪異では無いけれど。
そんなことを思うと、人は皆、確かに、語って語り捨て、聞いて聞き捨て、そうしてください、というものを生きてゆく中で、いくつも抱えてゆくことになる。だから多分、もしかしたら、小説を書く人と言うのは、この語って語り捨て、聞いて聞き捨て、となるもの、想いをそっとすくって、文字として残してゆく人なのかもしれないなあ、なんて。そんなことをちょっと思ったりしている。文字にすることで、その想いは永遠になり、いつか、どこかで、誰かの魂をゆさぶることになるんだろう。

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