シン・エヴァ感想(ネタバレあり)~見捨てられた人たち~
こんにちわ。アヒルです。この前たまたまシン・エヴァを彼女とみる機会がありましたので、その感想をば少し書いてみようと思います。
前置きと率直な感想~少年ジャンプか、これ?~
初めに言っておきますが、僕はエヴァのガチファンではありません。エヴァについてはきちんと見たのは新劇場版の序破急のみで、旧劇場版などの過去のエヴァンゲリオンシリーズについてはいい加減に内容を聞き及んでいる程度です。にもかかわらず、今回の作品を見て思うところがあったのは、やはりエヴァンゲリオンという作品は賛否両論こそあれ、名作であったという証でしょう。ちなみに彼女は手放しで大絶賛。三回目も見に行くと言っていました。実際素人目線の僕からしてもド迫力の戦闘シーンと胸の熱くなるシンジの成長、覚醒シーン。熱い友情と胸が熱くなりました。あれ、ちょっと待って。
エヴァンゲリオンってこんな作品だったでしょうか。友情・努力・勝利って、私の聞き及ぶエヴァンゲリオンというよりは、少年ジャンプの漫画みたいです。実際、こんなことを言ってしまうと何ですが、僕個人的には、鬼滅の刃の煉獄さんのシーンの方が心が熱くなりました。なぜか?両者は同じ土俵で勝負していたからです。友情・努力・勝利、希望が絶望に打ち勝つ。いやいや、それであれば他にも作品はいくらでもあります。何もエヴァである必要は全くありません。確かにこの作品はよくできているなと思いましたが、はっきり言って別にエヴァじゃなくてもいいなという冷めた感想が心の中で出てきてしまいました。自分がいわゆる「にわか」であることを置いておいても同じように感じる人はいたと思います。
いや、面白い。それを否定するつもりはないのです。ただこれは王道の面白さであり、邪道を行く作品の面白さではありません。これは恐らく庵野監督自身も理解しておられたところだと思います。そうであれば、なぜ今回のエヴァはこのような形で書かれているのか?
希望が絶望に勝つ物語~置いてきぼりにされた人たち~
今回の作品は希望が絶望に勝つお話です。希望の具現化たる初号機と絶望の具象たる十三号機にのって、成長したシンジとゲンドウは闘い、最終的には、ミサトさんの犠牲もあり、希望の槍を手にしたシンジがゲンドウを打ち破ります。そこから、物語は、これまでの全ての悲劇を開放するかのように、一つ一つのキャラクターの絶望や闇を取り払っていきます。そして最後には、新しく日常に向かうシンジとマリ。現実風景が現れ、まるで、ほら、全ての悲劇は取り払われたよ、現実に戻りなさいと言わんばかりの演出が繰り広げられます。希望は絶望の闇を友人たちの助けを借りて追い払います。
ですが、ここで面白いのは、このきわめて少年漫画的な演出に、メタ的な世界観を組み込んでいることです。これにより、置いてきぼりにされる人が出てきてしまいます。現実はエヴァが語るよりはるかに残酷。多くの人々(オタク)は、アスカやマリ(恋人や友人)の助けを得ることもなく、それでも生きなくてはいけません。彼らにとっての唯一の救いはゲンドウの生き方です。他人とのつながりを否定しつつも、一人の人間に心を許し、かつて救済された男。ところがその男の生きざまは残酷な希望によって打ち砕かれてします。これは本当に希望の物語だったのでしょうか。この希望の物語は、生き方を否定され逃げ道を奪われたオタクたちの死骸の上に成り立っています。
希望こそが絶望へとつながる~円環の物語~
エヴァンゲリオンは円環の物語です。先ほど言ったように、エヴァという作品は希望と絶望をウロボロスのようにつなげてできています。今回は希望が勝利しましたが、この希望は現実世界という名の絶望につながることで、旧劇場版のエヴァンゲリオンの世界観へとつながっていきます。この物語は解放の物語ではなく、エヴァという作品を永遠と続く円環へとつなげるための最後のピースだったのです。かくて物語は終結し、円環として永遠と紡がれることとなりました。これが庵野監督の真の狙いだったかは分かりませんが、この作品が後に残すものは、絶望への道筋かもしれません。そして、その絶望もまた、希望へとつながっていくのかと。以上感想でした。