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ニューノーマルの居心地の良さ。コロナの福音

お疲れ様です。アヒルです。やっぱり書きたいことができたので、すまんありゃ嘘だったということで更新します。今日は、ニューノーマルの個人的な居心地の良さについて軽く書いてみようと思います。

コロナの感染拡大により、日本社会の様相は、というより世界の様相が一変しました。外出時はマスク着用が当たり前。店に入るときには手を洗い検温、出勤時間は混雑を避けるためできる限り分散、忘年会、新年会は自粛のため取りやめなど、これまでの我々の生活を一変させ、ソーシャルディスタンスの名の下、人と人の距離をあけることが要請されることになりました。

諸外国と比較して、日本のコロナ事情は特殊なもので、もちろん今でこそ病床逼迫と危機的な状況ではありますが、例えば、毎日何万人もの人がコロナに罹患し、何百人もの人が死んでいく英国の現状に比べると、被害が少なく、それに合わせて規制もゆるく収まっています。なので日本版ニューノーマルは海外のそれと比べると、むしろ日本の普段の生活の異常性をあぶりだしている感があり、個人的にはこっちこそが真の「ノーマル」と呼ぶべきものじゃないかと思ってしまいます。

何かと直接集まりたがる癖

日本人は人と人との距離が遠い分、コロナの被害が比較的軽微だったのだという考えがあります。確かに日本人は欧米人と比べるとハグやキスの文化がない分、人との距離が遠く感じます。ですが、その一方で●●会と付くものは多く、新年会、歓送迎会、忘年会、クリスマス会等、ありとあらゆる会があり、飲んで騒いでとなっています。

また学校の教育を見ても何を教えるか、何を学ぶかより、実際にその場所(教室)に行くことが非常に重視されている気配があります。大学の授業でもよく出席率何パーセントで単位が手に入れられるとか、小学校、中学校の教室でも、生徒が学校に行かないとすぐ不登校扱いで問題児扱いされます。

しかし、冷静に考えればなぜ、実際に直接人と顔を合わせて話をする必要があるのでしょうか。直接会うこと、人と集まることのデメリットはたくさんあります。まず移動時間が無駄になりますし、飲み会であれば時間を合わせるだの、店の予約だののセッティングのための手間暇がかかります。また事実上の強制参加の飲み会では、全員が乗り気なわけではないでしょう。学校の授業も同じで、生徒を同じ場所に集めてギュウギュウ詰めにすることで、合わない子にはストレスがたまり、いじめも起こりやすくなるでしょうし、そもそも出席することと勉強することはイコールではないので、勉強しないで、その場にいるだけで済ませようとする輩が横行するはずです。

なのになぜか、人は人と集まることを重視したがります。これが何に由来するものなのかは分かりません。デジタル化の遅れによるものなのかもしれませんし、日本人固有の集団主義が我々にそうさせているのかもしれません。ですが、そろそろ我々はこの集まり癖のデメリットを認識すべきだと思います。

コロナ禍のニューノーマルで学校(少なくとも大学)はオンラインとなり、新年会、忘年会は中止されました。がっかりしている人がたくさんいることを否定はしません。ですが、それと同じくらい、ほっとしている人々もいるのではないでしょうか。会いたくもない人々に無理に会わないといけない、ある種の人々にとってこれらの機会は非常に苦痛で、ストレスや負荷がかかるものです。彼らにとって、コロナはある種の福音かもしれません。

ルッキズムとマスクのありがたみ

日本は人の顔や見た目にとても厳しい社会です。一時はやったチー牛と呼ばれる画像が不細工の代名詞として話題になったり、テレビでもブスや不細工をあざ笑ったりと、人の見た目を攻撃することは、日本では半ば公然と認められています。恐らくですが、顔面偏差値の低い人がにっこり笑って挨拶しても、馬鹿にされることさえあるのではないでしょうか。

そんな中、日本人がマスクに対する抵抗感がないことがコロナ対策に功を奏しています。欧米では笑顔がトレードマーク、にっこり笑うことが重要なコミュニケーションツールになっているため、マスクを嫌がることが多いですが、日本ではマスクに対する忌避感はあまりありません。

この解釈は二通りあって、一つは日本人は目でコミュニケーションを取るから、口元が見えなくともあまり問題はないんだというものです。もう一つの解釈は、(個人的な解釈ですが)日本人にとって、顔をさらすのはリスキーだからではないかというものです。よく道端で歩いていてブスと呼ばれた、不細工と呼ばれたという人がいるというように、道端で歩いている人の顔を見て攻撃する人々はこの国に一定数います。またそういう攻撃をする人たちも、裏を返せば自分たちの顔がおかしく見えないよう、警戒心を心のどこかで持っているはずです。そういう人たちにとって、マスクの存在は、コロナのためでなく、自分たちの顔立ちを隠すための防御服になるのではないでしょうか。

ルッキズム全盛の社会では、マスクは自分たちを他者の攻撃から守る防御にもなりえます。そのような社会では、ある意味では抵抗感なくマスクをつけられるのかもしれません。うがった解釈ですが…。

ニューノーマルってそんなに悪いものだったか?

まだしばらくはニューノーマルは続くと思うので、何も総括するわけではありませんが、ニューノーマルってそんなに悪いことでしょうか。個人の意見ですが、いい機会なので、この際忘年会も新年会もなくし、学校の授業はオンラインにしてしまった方が、ただでさえ多すぎる人と人との軋轢も消えるし、ルッキズムも激しくなくなるし、良いことじゃないのと思えてしまいます。

もっと言うとニューノーマルは新しい普通というよりも、これまでの日本社会の異常性をあぶりだす良い薬になったのではないでしょうか。コロナそのものはなくなってほしいですが、コロナで変わったものがもしあるとすれば、末永く残しておいてほしい、そう思うアヒルでした。今度こそ年内最後の記事になると思います。よいお年を。

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