雑記♯1

 冬が来ました。
 いや結構前から冬なんですが、最近はさらに寒さが増して、コートを着込まねば外に出るのもままならないくらいです。

 頬を刺す冬の空気は、何かが凍り始める温度なんだと理屈を超えて直感させます。そういう空気と彩度のない寂しそうな空の中では、小沢健二の音楽がやけに心地良く聴こえます。そんなことを友達に話したら、「きっと小沢健二は仔猫ちゃんたちが寂しくならないように、冬の歌をたくさん書いてるんだよ」というようなことを言われました。なるほどそうだなあと納得するのと同時に、小沢健二の思惑通りにまんまと励まされて、晴れやかにステップを踏むのもなんだか癪に思ってしまいます。かといって露悪的思想に身を寄せて、彼の歌の軽薄さを嘲笑おうとすれば、それはそれで大変みじめな気持ちになりますし、僕には打つ手がありませんでした。せめてもの抵抗として、あたかも最初からずっと晴れやかで、健やかで、強かなムードだったかのように振る舞ってやりました。別にあなたの歌に励まされて嬉しくなってるんじゃないんだよ、って腕を大きく振り、膝をいつもより3cm高く上げていたように歩きました。

遠くまで旅する人たちに あふれる幸せを祈るよ
ぼくらが旅に出る理由/小沢健二

 ある冷えた朝。僕は身を縮こまらせながら朝食を食べていた。朝のニュース番組は何かを扇動するような含みがあって苦手だったので、テレビは点けなかった。少し固くなった米を咀嚼する間にふと、僕の好きな音楽・絵・人たちって「Let it be」だ、と思った。それはかつてポール・マッカートニーが受けた天啓ほど劇的で、運命的でもなかったが、少なからず僕にとっては一つの真理であるように思わせる響きがあった。「あるがままに」というのは楽観的に言えば、超然とすべてを受け入れる強さであるし、悲観的に言えば、何もかもを諦めてしまう弱さでもあるように思える。強さは弱さで、弱さは強さだなんて使い古された二面性を語りたいわけではなく、僕の人生の中で、僕の好きになるもの・人たちはみんな、流れに逆らわず、何かを許し、あるいは諦めているような大らかさがあった。

いいたいこともない つたえたいこともない
やみもない ひかりもない ましていたみもない
ソフトに死んでいる/ゆらゆら帝国

 今、僕は少し固くなった白米を半ば機械的に口に運んでいる。

 さきほどのことで、ディスコードというアプリで作業をしながら友達と通話をしようとしていました。分かる人には分かると思いますが、そのアプリではボイスチャットをするためのクローズドのサーバーを作ることができて、招待用のリンクでのみ新しいメンバーを追加することができます。そのときは新しい友人を迎えるため、招待用のリンクを一時的にオープンにしていました。(といっても、twitterのリプライに記載したので見ようと思わなければ見ることができないくらいのものです)誰か暇な友人が来ないかと、ボイスチャット用のチャンネルに接続し待ち構えていると、急に7人ほどの新しいメンバーが追加されました。どのユーザー名、それらはここで文字にするのにも憚られるような名前でしたが、見覚えはありません。彼らはボイスチャット用のチャンネルに一斉に接続され、これまた文字に起こすのも躊躇われるような下品で粗野な言葉を口々に叫びだしました。僕が唖然として何も言えないでいると、やがて反応がないことに飽きたのか、すぐに皆消え去ってしまいました。僕は通り雨に打たれたときよりも惨めで、裸足で虫を踏み潰したときよりも苦々しい気持ちになりました。
 間もなくすると、友人の一人が入室してきて、僕は先の災害から疑心暗鬼になっていましたが、それでも優しく気遣ってくれました。非常に情けない話ですが、僕は恐怖と困惑で比喩ではなく身体が震えてしまい、上手く声も出せなかったと思います。それからさらにもう一人の友人が入室すると同時に、おそらく先に入室した友人のアイコンを見て「標的」と捉えたのか、「彼ら」が再び接続されました。何やら罵詈雑言とすら呼べないようなことをわあわあと叫んでおり、僕らは文字通り閉口してしまいます。陰鬱な気持ちが押し上がってくるのと同時に、友人らをこんなことに巻き込んでしまったことに、また情けないやら申し訳ないやらで混乱してしまいました。しかし、ただなされるがままになるわけにもいかず、おそらく使うこともないだろうと思っていた追放機能を慣れない手付きで作動させていきました。すぐに(というにはかなりもたついてしまいましたが)彼らはいなくなり、痕跡も消えてしまいました。
 その後はさらに集まった友人らと、まさに歓談と呼ぶべき歓談をして夜を更かしました。さきほどのことを愚痴りながら、僕の怒りや悲しみに同調してくれたり、なんでもない風にくだらない冗談を飛ばしたりして(それが自覚的にだったか無自覚的にだったかをみんなに問うのは野暮ですよね)いつの間にか僕の心臓もすっかり元のように働いています。それから散々夜を更かして、通話も終えて、空が白み始める時間になっても、僕は上手く寝付けずにこうして文章を書いているわけです。

 今までのそう長くもない人生でこうして悪意に曝される経験はほとんどなかったと思います。そう考えると、随分幸せな人生を送ってこれているとも思います。だからこそ、さきほど遭遇した悪意がいつまでも尾を引くような感覚がありました。この世界で善いものを信じてきたし、なんだかんだで信じてこれるぐらいには人に恵まれていました。しかし、面白半分で他人を傷付けたり、嘲り笑うような人たちも確かに存在して、それは遠く知らない世界の話だと思っていたけど、実際に直面してみると僕は誰に何を言えばいいのか分かりませんでした。自分自身になぐさめを?友人たちに感謝と謝罪を?彼らに呪詛を?いつも好んで聴いてる歌たちが急に白々しく思えてしまいます。小沢健二は、遠くまで旅する人たちにあふれる幸せを祈りましたが、インターネットを漂流する悪意の塊に祈る幸せはあるのでしょうか、なんて彼らに対する罰や報いのことを考えていると、自分の正義が担保されたような気がして心地良くなり、またその薄っぺらな心地良さがくだらなくも思えます。自分を正義を執り行う側に置いて、他人をもっともらしく非難する行為は、一時的に晴れやかな気持ちになりますが、すぐにひどく空しく、自己嫌悪に襲われるだけでした。結局のところ、彼らの愉快犯的行為に腹を立て、報いを与えようとすることも、彼らの思惑通りになっていそうで癪に思ってしまいます。せめてもの抵抗として、あたかも最初からずっと晴れやかで、健やかで、強かなムードだったかのように振る舞ってやろうと思います。別にお前らの悪意なんて全然気にも留めてないんだよ、って腕を大きく振り、膝をいつもより3cm高く上げていたように歩いてやろうと思います。

神の手の中にあるのなら その時々にできることは
宇宙の中で良いことを決意するくらいだろう
流動体について/小沢健二

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?