露天風呂にて

 頭の裏からジャリジャリと音がする。この日、僕らは河川敷の露天風呂に身を沈めていた。湯船から数歩離れたところには川が流れていて、その流れの元を目で辿っていくとそそり立つ壁が見える。小雨がぱらつく曇り空の三月、見えない太陽が沈もうといている時刻では、油断するとすぐに身体が冷えてしまいそうだ。よって僕らはその身体を肩まで沈めて温もろうとしていた。
「なんか、気持ちわりいというか不思議な音やな」
「おん、頭の裏の、その中で鳴りよる」
「良かったわ、最初おれの頭がおかしゅうなったんかと思ったわ」
「なんか鳴ってそうやもんな、自分の頭」
 僕らは温泉街に来ていた。温泉街のご多分に漏れず、しかしその小さな町にもたくさんの温泉や宿が存在していた。その内の一つに、24時間無料で入れる露天風呂があるというので、金もない僕らはいそいそと遠方はるばるやってきたのだった。この露天風呂は混浴だというので、邪な気持ちがあったことも否定はできなかった。
 実際に目の当たりにしたこの露天風呂は、想像していたよりもとてもワイルドなものだった。穏やかな川の、至って普通の河原にくぼみができて、そこに偶然水が溜まっただけのような印象だ。人が入ってなければ、それが温泉だなんて分からない気がした。川を辿るとすぐに巨大なダムが建っていたのも、その光景の異様さに拍車をかけていた。僕らは人工物と自然が両立する景色、そしてそこに突如設けられた露天風呂という施設の奇妙さにすっかり魅了されて、早々に服を脱ぎ捨て、小雨もちらつこうとしている中、湯船に飛び込んだのだった。(実際はおずおずという様子で入ったのだけど)
 そうして僕らはそれぞれこっそりと感傷ごと身体を湯につけながら、空を眺めたり、川を眺めたり、あるいは巨大なダムに圧倒されたりしていたのだが、不意に僕は妙な音が聴こえることに気づいた。刃物を研ぐときのようなシャリシャリという音。中音域以下をバッサリ切り捨てたその音の奇妙さは、音そのものではなく、その出どころにあった。首の真後ろ、頭の中、耳の裏、明確に断言することは難しかったが、とにかく僕の身体の内部から響くような不思議な感覚だ。僕が身体を大きく動かすと、後頭部からは何かを大きく何かをこすり合わせるような音がした。今度は首周りの違和感を確かめるように上半身をかすかに揺らすと、今度はパチパチと、後頭部で泡が弾ける音がした。僕は自身の身体に優しい生活を送っていたとは言い難く、そのためとうとうガタが来てしまったのかと思いゾッとした。首の関節に異常が生まれたか?それとも脳みその方なんか?僕がみんなに悟られぬよう自分の身体の異常を探っていると、突然、友人のSが口を開いた。
「なんか変な音せえへん?」
もうひとりの友人Tがそれに答える。
「なんの音?どゆこと?」
「いや、ほらこの辺で頭動かしたらさ、鳴んねん」
「ああ、分かるわ、なんか鳴りよるよなあ」
Sが譲った場所でTが首を捻りながら音を確かめている間に、Aが驚きと嬉しさの混ざった表情で相槌を打った。思わず僕もそれに乗っかって「やっぱり!鳴っとるよなあ」と大きな声を出してしまった。
「なんか、気持ちわりいというか不思議な音やな」
「おん、頭の裏の、その中で鳴りよる」
「良かったわ、最初おれの頭がおかしゅうなったんかと思ったわ」
「なんか鳴ってそうやもんな、自分の頭」
僕はすっかり自分の不摂生を棚に上げて、いかにも頭で何かが鳴っていそうなAをからかった。それに対してAは「そうなんよなあ、怖かったわ」と深刻そうな顔でうなずいた。根っからのスポーツマンで好青年といった風貌のTに比べると、僕やAは貧弱そのもので(Sも大概不健康そうな見た目だったが意外にも昔はスポーツマンだった)いつでも何かしらの不調を抱えていた。僕らの貧弱さを語るエピソードとして、Aが提案した市のマラソン大会への参加のために行っていた特訓で、僕は足の甲を疲労骨折し、Aは腰、足首の不調によりドクターストップをかけられた、というものがある。わざわざ払った費用がもったいなくて、僕は意地になって参加したものの途中で棄権をしてしまった。結局、ハーフマラソンを完走できたのはTとSだけだった。
 このような貧弱を極めた僕らが、自分の身体の内部から異音がすれば、まず自分の頭が炭酸になって骨や脳みそが溶け出し弾けていることを疑うのは極めて自然なことだったと言える。しかし実際の異音の原因は身体の不調にあらず、この奇妙な光景の中に置かれた露天風にあった。(もし健康優良児たるTがこの異音を感じ取れなかったなら、そう結論づけるのは難しかったかもしれない)それでもどうしてこの音が鳴るのか、なぜこのように奇妙な聴こえ方がするのか、という問題は解決しないままだった。
「Yくん、なんでなん。教えてや、理科得意じゃろ」
Aが至って率直な疑問を僕にぶつけた。
「理科関係あるんかあ?」
「音の反響とか、物理の範疇やないん?」
「そうやけども、ていうかお前らも理系やんけ。考えぇよ」
僕は、どの動きでどの音が鳴るか無邪気に調べているため、もぞもぞと身体を揺らしているTとSを顎で指した。
「ええ?そやなあ、まず、この辺の石がを動かしたら音が鳴るやろ」
Sは足の先で湯船の底に溜まった砂利を動かした。その位置から僕のところまで、少し距離はあったが、Sが足を揺らすたびに頭の裏、その内部で微かな音がした。
「あとは、わからん。わからへんよ」
「でもあれやね、壁を背にしとった方がよう聴こえるね」
Tは風呂の縁に肩を預けながら、Sを真似るように足先で砂利を撫ぜた。確かに壁を背にした方が音量は大きくなり、まるで頭蓋骨が後ろからヤスリで削られているような錯覚がした。いつの間にか僕らは円形になった風呂の四方に均等になって、それぞれ足で砂利の底を撫ぜながら、体内で鳴り響く音に耳を傾け続ける奇妙な一団になっていた。奇妙な景色に奇妙な音、奇妙な集団がそこになった。
「つまりやな、砂利の擦れる音が水面とか、石を伝っておれらん背後から聴こえとるんじゃ。自然のサラウンドシステムってことやな」
僕は分かったようなふりをして、何の説明にもなっていないような結論を付けた。Aは「ほーん、そうかそうか」と言いながら身体を包む湯のぬくもりと、内部から響く謎の余韻に浸っているようだった。結局僕らが理解したのはどうすれば音が出るか、その一点だけだった。雨足が強くなってきた。「そろそろ出るか」誰ともなくそう言った。雨音は僕らの身体の外で大きくなり続けた。

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