珈琲屋にて

 連日、雨が降りしきる中、この日は久しぶりの曇りだった。天気予報では明日からまた一週間雨が降り続けるとされている。よって僕はこの唯一の、しかし気持ちの良いとは言えない曇りの日に、自転車の修理に出かけることにした。先日忘れ物を取りに、そしてそのついでに変哲もない田舎町を写真に収めるために一日30kmも乗り回したせいか、自転車は前後輪共にパンクしていた。パンクした後も帰路に着くため強引に働かされ、歪んだタイヤのくたびれた彼に一抹の申し訳なさを覚える。


 自転車屋が言うに、少なくとも後輪、状態によれば前輪も交換しなければならないらしい。ボロボロになった自転車に僕は労いの意味も込めて、両方とも交換してもらうようにお願いした。修理代のことを思うと頭が痛むようだったが、とにかく、自転車の修理が終わるのは明日以降だ。修理を待つために使おうと思っていた時間が不意に空いてしまった。ならばと、僕はフィルムの現像をしてもらうためカメラ屋に足を向けた。


 カメラ屋には先日、モノクロフィルムを預けたばかりだった。どうやら普通のフィルムと違い、メーカーに送る都合などがあり現像は二週間ほどかかるらしい。今日預けようとしているのは一般的なカラーフィルムなのでそう待たずに写真を受け取ることができる。これで写真を現像してもらうのは四度目になる。春先から始めたカメラ趣味だが、使用しているのがハーフサイズカメラのため、200枚以上の写真を撮ったことになる。(大体一つのフィルムにつき、50~70枚ほどの写真が撮れる)その割にはあまり上達しない腕前だが、少し鮮明さを失ったフィルム写真の色合いは僕を魅了していた。フィルムカメラで撮られた写真はそこにあった色を失い、そこになかった色を加えて、まさしく脚色された風景を切り取る。それは全く現実には即していないが、人間の記憶にだけ存在する景色を形に残すような趣があった。

 今度は現像を待つための時間を持て余すことになった。およそ一時間。そこで小腹も空いていた僕は、ずっと気になっていた旧商店街通りの、本当に小さなコーヒー屋で時間を潰すことにした。用水路沿いに立ち並ぶ公営団地の洗濯物に睨まれながら路地を抜けて商店街通り(アーケードも何もない本当に小さな商店街)に出る。シャッターの朽ちかけた薬局や電気屋を通り過ぎ、古民家を改装したようなその”いかにも”なコーヒー屋に足を踏み入れた。瞬間、香るコーヒーの匂い。なるほど思った通り店内はとても狭い。客は誰もおらず、綿生地で白のシャツに、デニム地の黒エプロン姿の男性がカウンターの向こうで退屈そうにしていた。しかし店主らしきその男性は僕に一瞥くれただけで、すぐに目線をカウンターの上に戻してしまった。
「あれ、やってますか?」
「やってますよ、どうぞ」
店主は唇だけを動かすような器用なしゃべり方で、ぽつりと言う。僕はてっきり、この手の店は奥さんと一緒に脱サラした気前のいい旦那が愛想と伊達を売りに構えていると思っていたので少し面食らった。カウンターの向こうのキッチン、そのさらに向こうには生活の匂いが漂っている。僕の予想は当たらずとも遠からずのはずだ。気を取り直して一つ注文しようとする。カウンターの隅っこ、狭苦しそうに置かれたレジの横に手作りのメニュー表が置いてあった。「それじゃあ……」など言いながら、メニュー表を眺める。そこには見知った豆の名前がいくつかと、季節になぞらえたオリジナルのブレンドメニューが並んでいた。それぞれの名前の脇には、「苦味・酸味・コク・果実感」といった項目が並んでおり、さらに星の記号でその強さを表しているようだった。こういった表を見るたび、「苦味・酸味」は分かるとして、「コク」、ましてや「果実感」だなんてのはどういうものなんだろうと思う。コーヒーは好んでよく飲んでいるが、せいぜい「苦味」が強くて「酸味」が弱いやつが好き、程度にしか考えたことがない。その中でもなんとなく、より美味しい、そうでもないぐらいの区別はつくが、それが「コク」によるものなのかどうかは分からない。大体、「コク」なんてあればあるほど良いものじゃないのか?カレーの味を評するときだって、決まってコクがありますね、だなんてテレビタレントは喋っている。僕の舌が特別馬鹿なのか、はたまたインチキ化学商品のように、みんな情報に踊らされながらしたり顔で「コク」があって美味しいわ、なんて言っているのか。コーヒーならびに、それを商売にしている方々にとって大変不条理な文句を胸の中に秘めながら、メニュー表の前で悩んでいると「お好きな味はありますかね?」と店主が尋ねる。僕が先に述べたような好みを伝えると、「こちらのブレンドがおすすめですね」と漢字二文字で表されたメニューを指さした。「果実感」は星六つだった。


 代金を支払い、コーヒーを待つため僕は二人掛けのテーブル席に座った。その席は、入り口横に置かれた何かしらの大きな機械が正面に見えた。それが何の機械なのか全く見当もつかなかったが、少なくとも昭和以前の品だろうと思った。その独特の形状や色味が持つ野暮ったさは現代にはそぐわない。というより、こういう店にはこういった品が置かれてしかるべきなのだから。木製の壁には同じく木でできた小棚が取り付けられていて、そこにはおそらくジャズのレコードや、墨で漢数字の書かれた不明の木版、ブリキ製のおもちゃなど、おおよそ意味のありげで、しかし全く意味のないであろうものたちが並んでいた。僕の肉体はそれを眺めて「いい雰囲気ですね、写真を撮ってもいいですか」と言っていた。


 コーヒーが運ばれるまでのわずかの間だったが、狭い店内を写真に収めるには十分な時間だった。どうぞ、と不愛想に運ばれたコーヒーカップは不思議な楕円状の皿に乗せられていた。黒々とした水面を見て、僕はこれも写真に撮ろうなんて思いついてしまった。せっかくだから、今読んでいる文庫本を横に置いて真上から写そう、なんて。椅子から立ち上がり、カメラのフィルムを巻いて、ファインダーを机に対して垂直に覗き、右の人差し指でシャッターを切った瞬間、取り返しのつかないことをしてしまった気分になった。続いて強烈な自己嫌悪に襲われる。意味のないことをしてしまった。これは意味のないことだ。しかし意図はある。自分の肉体と、それを取り巻くこの店、コーヒーの香りがすべて嘘くさく思えた。僕はたまらず飛び出したい気持ちになったが、僕の甘ったれた自意識がよすがとなって、寸でのところでこらえることができた。それでも、いつもの三倍のペースでコーヒーを飲み干し、僕は足早にその店を立ち去った。意図があった。何かを良く見せようとする嫌な意図がそこにあり、それを辟易するのは僕の愚かしい性分だった。そしてその性分が一層恨めしく思えた。

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