たまとリコーダー

 先日、誕生日プレゼントを頂いた話を書きましたが、さきほどまた新たにプレゼントが届きました。例によって欲しい物リストに入れていたものなんですが、「リコーダー」がやってきました。小学校で使うあのリコーダーです。ご丁寧にケースには学年クラス名前を書く欄もあり、懐かしい気持ちで胸が一杯になります。

 昔から音楽は好きでした。子供の頃、エレクトーンを習っていたので小学校の音楽の時間では他の子たちより、楽器の上達が早くって、それなりに自尊心を満たせたものです。とはいえ、曲を作るようになった今でさえそうなのですが、僕はリズム感も音感もなくて、しっかり音楽を練習してる人たちに比べれば全然下手くそでした。それでも、演奏する楽しみは負けじと知っていたつもりです。(当時の僕の得意技は2本リコーダーを咥えて一人でユニゾンすることでした。これは結構みんなにウケた)

 改めてリコーダーを手にしてみると何とは言えない気持ちが胸に満ちていきます。当時、使い方も分からなかった掃除のための棒とか、整備用のグリースだとかを眺めると、懐かしさで少し寂しくなります。さて、早速吹いてみようと思いますが、意外と運指は覚えているもので、ドレミファソラシドだって滑らかに鳴らすことができました。低いドを出すための微妙な息遣いも難なく出せて、小学生の自分に対して優越感を抱きました。
 それで今度は何か一曲吹いてみようと思い、自分の曲に合わせてリコーダーを構えました。(分かる人には分かると思いますが、リコーダーは演奏できるキーが限定的なので、それがよく分かっている自分の曲は都合が良かったのです)ところがいざ音楽に合わせてリコーダーを鳴らそうとすれば、指はおぼつかなく、呼吸は乱れてへろへろの演奏になってしまいます。スマートフォンで録音して聞き返せば、千鳥足で転げ回るような笛の音に苦笑いしてしまいました。これは練習が必要だな、と思う一方で、小学生の僕が自信満々に吹いていたそれは、もしかすれば聞くに堪えないような演奏だったのかもしれないと恥ずかしい気分になりました。「他人に演奏を聴かせる」という意識が働いていないことが、小学生の僕の自信を裏付けていたのかもしれません。

 それからリコーダーといえばアレだな、と思い「たま」というバンドの曲を演奏しようと思いました。「たま」というグループは不思議なバンドで、おおよそ日本のバンドが脈々と連続性を持ちながら生まれていく中で、そのルーツを感じさせにくいバンドでした。ビジュアルも音楽も奇天烈で、かなり独特な存在です。僕は世代じゃないので知らなかったのですが、そんな存在でありながら昔には社会現象になるほど世間に知れ渡ったそうです。しかし、このグループにフォロワーらしいフォロワーは現れなかったように思います。僕は今「たま」の音楽を聴きながら「この人たちが社会現象になる時代や社会は少しおかしな時代だったんじゃないかな」と考えてしまいます。一方で、確かに「たま」の音楽は完全にスタンダードから外れていますが、それでいてあらゆる『人』に突き刺さるような普遍的な要素を持っていて、心を溶かしてくれるような温かさがそこにあることを考えると、さもありなんとも。

 「たま」はとうの昔に解散してしまいましたが、メンバーのそれぞれはソロで音楽を続けています。それぞれのメンバーのライブにも足を運んだことがあります。ところで、過去に社会現象にもなった彼らですが、(言い方は悪いですが)今では、少なくとも世間では過去の人ということなのか、露出も少なく、僕らを含め若い世代には知名度もあまりないようです。ライブ会場は大抵小さな箱で、とても満員とは呼べないような客数の中で、パフォーマンスは行われます。(これは僕が足を運ぶ会場が地方ばかりなのが原因かもしれませんが)それぞれのメンバーは、それぞれが作った歌を歌うのですが、それぞれみな一様に、アコースティックギター一本だとか、よく分からない打楽器だとかで、ほとんど弾き語りの形式でやっています。ときには鍵盤ハーモニカの吹き口に膨らませた風船を取り付けて、曲芸じみた演奏をしたりします。しかし、彼らの音楽は間違いなく素晴らしいもので、痛みを知る故の優しさと、うらぶれた僅かな狂気がそこにあります。

 もちろん演奏は素晴らしいものなのですが、僕が好きなのはライブに来る客層でした。彼らが演奏する場は一般的なライブハウスだけでなく、よく分からない、本当によく分からない施設で演奏したりするのですが、そこに集まる観客は浮世離れしていて、客と演者、場所が絶妙に噛み合い、夢うつつの世界を作っています。なんだかライブが終わって、もう一度その場所を訪れたら、そこは実はとうの昔に潰れた廃墟でした、なんてことがあるような気持ちになります。
 ある古民家でのライブのときには、カーキー色のスーツに合わせた中折れ帽の老紳士と、パールの首飾りにシックなドレス姿の老婦の組や、臙脂色の巾着を片手にした浴衣姿の女性、丸メガネに坊主頭、文庫本を抱えた甚平の男の子が客の中にいて、僕はまるで冗談みたいだと思いました。その会場ではドリンク代わりの冷やし飴が販売されていて、僕はそれをちびちびと飲みながら、軋むパイプ椅子に腰を掛け、古い木材と埃とお香の匂いを感じながら演奏を楽しみました。その夜は本当にこの世のものとは思えなくて、僕もなんだか死んでしまったような気分になります。
 またあるライブのときは、こちらは普通のライブハウスだったのですが、まだようやく歩けるような子供連れの家族だとか、腰の曲がりきったお婆さんだとか、普通のライブハウスでは出会えないような人たちが多いです。その中には以前、浴衣姿だった女性もいました。彼女は今日は品の良い洋服に身を包んでいます。甚平の少年もいました。彼の方は以前と全く変わらないような姿です。僕の住む県は地方も地方なので、こうしてニッチなアーティストのライブで見かける顔ぶれが固定されるのは珍しくもないのですが、それにしても奇異な面々が集った気がします。
 ライブのあと、一緒に行った友達に「そういえば見知った顔も多いよなあ」と言えば、「そうじゃなあ、よう見るわ」僕は、甚平姿の冗談みたいな少年を浮かべて、「あの男の子もなかなかイカしとるよなあ、すごくええセンスじゃ」と言えば、友達は不思議そうな顔をします。僕は前回のライブでもいた少年のこと、それからその子が今日もいたことを説明しますが、友達はキョトンとしたままです。「そんな子は見とらんけどなあ」
 僕はすっかり見てはいけないものを見てしまったような、あるいはあまりにも良く出来すぎた馬鹿馬鹿しい怪談を聞いたときのような気持ちになり、恐ろしさ半分、もう半分はなんだか笑いたくなってしまいました。怪談としては三流だな、と思いつつも、この不思議な体験を誰かに話したいようにも、話したくないように思いました。

 さてなんの話だったか。僕は「たま」にまつわる記憶を自分の中でさらいながら「さよなら人類」に合わせて下手くそなリコーダーを吹いています。彼らの音楽を聴いていると、僕は幽霊とかお化けの存在を信じてる訳じゃないのに、「たま」の音楽が惹きつけるものは『人』に限らないかもしれないな、なんて考えてしまいます。

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