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音楽史・記事編116.セバスティアン・バッハの創作史

 本音楽史年表データベースは原稿作成、EXCEL入力、システム化の手順で開発を進めてきており、原稿作成から約20年経過しました。音楽史においても作ってみて分かることがありますが、例えばバッハのカンタータの作品番号(BWV)はドイツ語の曲名のABC順となっているため、創作順ではばらばらになっていることから創作過程は分かりづらくなっており、バッハのカンタータの作曲およびその上演はライプツィヒ時代初期には激務であったといわれていることが、本音楽史年表により明らかになります。
 今回はセバスティアン・バッハの年度別分類別作品数を集計し、生涯及び創作活動を振り返って行きます。本編の楽曲の分類方法は音楽史年表データベースの分類に従っており、分類別作品数はデータベースに掲載された作品によります。

 グレゴリオ聖歌以来、長く音楽は純正律で演奏されてきましたが、バッハは画期的な平均律という調律法ですべての調性で演奏できることが可能であることを実証し、音楽史においてはかつてない改革を行ったことから「音楽の父」と呼ばれています。バッハの平均律によって音楽はその表現力を劇的に拡大し、以降の古典派期、ロマン派期の多様な音楽を生み出し、さらに現代においてもクラシック音楽の他にもポピュラー音楽、ジャズやロックそしてミュージカルなどあらゆる音楽が平均律で演奏されます。バッハの音楽は奥深く、その音楽を語ることは容易ではありませんが、年度別分類別作品集計をもとにその創作史概要を見て行きます。

〇バッハ、北ドイツのリューネブルクでさまざまな音楽を学ぶ(リューネブルク時代)
 バッハは1694年、1695年に母エリーザベトと父アンブロジウスを相次いで亡くし、オールドルフの長兄ヨーハンのもとに引き取られます。そして兄が秘蔵するフローベルガーやパッヘルベルの作品集を筆写したとされます。1700年15歳になろうとしていたバッハは自立を決意し、オールドルフの学校を退学し、友人エルトマンとともにリューネブルクへ行き、聖ミカエル教会の付属学校に在籍し同教会の聖歌隊員になり北ドイツのオルガン音楽を学び、さらにハンブルクのオペラ劇場でイタリアオペラを学び、近郊のツェレの宮廷ではフランス音楽を学んでいます。(1)
〇アルンシュタットで最初のカンタータを作曲する(アルンシュタット時代)
 1703年にはワイマールを経て、アルンシュタットのオルガン奏者となり、コラールの伴奏などを行っていたようです。1705年には北ドイツのリューベックを訪問し、ブクステフーデのオルガン音楽や「夕べの音楽」に大きな影響を受け、この頃にはオルガンの名曲のトッカータとフーガや小フーガト短調などを作曲し、さらに初めてのカンタータ第150番を作曲しています。1885年ブラームスは交響曲第4番第4楽章にバッハのカンタータ第150番の終曲パッサカリアの主題を使用しています。
〇ミュールハウゼン、ワイマールでオルガン奏者、宮廷音楽家となる(ミュールハウゼン、ワイマール時代)
 バッハは1707年ミュールハウゼンのオルガン奏者となり、1708年にはワイマールのオルガン奏者兼宮廷音楽家となり、ワイマールでは多くのオルガン曲を作曲し、またイタリアのヴィヴァルディの協奏曲の様式によるクラヴィーア協奏曲を作曲しています。この時期、バッハの名声は高まり、ワイマール公エルンストとは良好な関係を持ち、月に1曲はカンタータを作曲し、ワーマールでは20曲のカンタータが作曲されます。しかし、謹厳実直なバッハはエルンスト公の叔父のヴィルヘルム侯と軋轢を起し、エルンスト公の義兄のケーテン侯の依頼でケーテンへ招聘されたようです。この招聘はバッハが作曲した「狩のカンタータ」をケーテン侯が聞き、感嘆したからともいわれています。
〇ケーテンでは管弦楽曲を作曲する(ケーテン時代)
 バッハは1717年12月、ケーテンの宮廷楽長となりケーテンに赴任します。ケーテン侯レーオポルトはプロテスタントのカルヴァン派に属し、カルヴァン派では教義上、教会で音楽が使われることはなく、この時代にバッハは教会のためのオルガン曲やカンタータの作曲を行うことはなく、一方でブランデンブルク協奏曲や管弦楽組曲、無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ、無伴奏チェロ組曲、平均律クラヴィーア曲集第1巻などの器楽曲の名曲を生み出しています。
〇平均律クラヴィーア曲集第1巻の作曲(平均律の実証)
 バッハは1722年にケーテンで平均律クラヴィーア曲集を作曲します。従来の純正律では調性ごとにクラヴィーアを調律することが必要でしたが、平均律では調性が変わっても調律する必要はありません。平均律は1691年にヴェルクマイスターによって提唱された音階を均一に調律する調律法で、この調律法では3度の音程を1/16音程度シャープにしますが、3度の和音の純正度を犠牲にすることにより、従来の純正律の欠点であった移調、転調を可能にしています。すでにフィッシャーやパッヘルベルによって平均律は試みられていたとされますが、バッハはこれまでの作曲家が試みなかった調性も含めて24の全ての調性によって作曲された曲集が、調性ごとに調律することなしに全曲を通して演奏することが可能であることを示します。そしてバッハは1724年に大曲であるヨハネ受難曲を、1727年にはマタイ受難曲を初演し、これらは平均律で上演されたとされます(2)。また、作曲においていつでも転調することが可能となり、古典派のソナタ形式が生まれ、さらに大規模な音楽や転調を多用する交響曲が作曲されるようになります。
〇ライプツヒでカントールとなり、多くのカンタータを作曲する(ライプツィヒ時代)
 1723年バッハはライプツィヒのカントールに就任します。カントールの仕事としては聖トーマス教会と聖ニコライ教会それぞれで、毎週交代でカンタータを演奏すること、さらに毎年それぞれの教会交代で受難曲を上演すること、またトーマス教会付属学校で音楽を教えることを義務として課せられたされます。特に、1723年から27年の5年間にバッハは生涯に作曲したカンタータ200曲余りの3/4にあたる約150曲を作曲しており、さらに大曲のヨハネ受難曲やマタイ受難曲も作曲するという激務ぶりです。
〇ラテン語のロ短調ミサ曲の作曲
 プロテスタント・ルター派のバッハが何故カトリックの典礼に基づくミサ曲を作曲したのかについては、長く議論されてきています。バッハのカンタータやモテットはドイツ語で作曲されていますが、ロ短調ミサ曲はラテン語で歌われます。バッハはザクセン選帝侯に宮廷作曲家の称号を申請しており、ザクセン選帝侯はカトリックのポーランド王でもあり、カトリックに改宗しますので、この関係でカトリック典礼ミサ曲のキリエとグロリアを献呈したようです。しかし、晩年のバッハは典礼の残りの部分を完成させます。ドイツはライン川とドナウ河を境にカトリックとプロテスタントに分断され、宗教戦争である30年戦争を経て、約300の大小の国が乱立していました。プロテスタント・ルター派はドイツ語の聖書使用を教義とするものの、もともとカトリックのラテン語を否定するものではなく、バッハは宗派を越えた祈りの曲としてロ短調ミサ曲を生涯の最期に完成させたように思われます。
〇ゴールドベルク変奏曲の作曲(主題労作の探求)
 バッハは平均律の実証を行い、また対位法の探求を行っていますが、主題労作あるいは主題彫琢といわれる手法の分野でも探求を行い、1741年には主題労作を集大成したゴールドベルク変奏曲(アリアと30の変奏曲)を作曲しています。古典派のソナタ形式では展開部で主題の彫琢、変奏をおこないますので、特に音楽史における最高傑作の交響曲を残したベートーヴェンは、自身の主題労作作曲術の向上を図るかのように多くの変奏曲を作曲しています。
〇バッハは生涯、対位法の探求を続けた(対位法の探求)
 バッハは北ドイツでブクステフーデのフーガなどを学び、前奏曲とフーガやトッカータとフーガなどのオルガン曲やクラヴィーアのためのフーガやインヴェンションなどの作曲を通じて対位法の探求を続けています。晩年に至っても、フーガの技法などの作曲を行い、生涯にわたって対位法の探求を続けました。一方で、ベルリンのバッハと呼ばれたバッハの3男のエマヌエル・バッハはバッハの平均律による転調技法や主題労作技法をもとにソナタ形式の理論化を行い、さらにマンハイムのシュターミツやウィーン楽派によって古典派の様式が確立するなど、バッハの存命中にすでに前期古典派は始まっており、前期古典派の作曲家によって膨大な数の交響曲が生まれています。そして、1757年以降、ヨーゼフ・ハイドンは個性的で革新的な作曲様式を試しながら、古典派交響曲としての様式を確立して行きます。

【音楽史年表より】
1685年3/21、J・S・バッハ(0)
ヨハン・セバスチャン・バッハ、アイゼナハに生まれる。バッハ一族は16世紀後半以来数多くの音楽家を輩出していた。(3)
1695年6月頃、J・S・バッハ(10)
バッハ、オールドルフへ移住する(オールドルフ時代)。父が死去した後、セバスチャンは兄ヨーハン・ヤーコブとともに、オールドルフの長兄ヨーハン・クリストフのもとに引き取られる。(3)
1700年3/15、J・S・バッハ(14)
バッハ、オールドルフの学校を退学し、友人エルトマンとともにリューネブルクヘ向かい聖歌隊員となる(リューネブルク時代)。15歳になろうとしていたバッハは自立を決意し、兄のもとを離れて、北ドイツのリューネブルクへ向かう。この地では聖ミカエル教会聖歌隊に所属しながら教会附属学校にも給費生として在籍する。ハンブルクでヤン・アダムス・ラインケンのオルガン演奏や、ハンブルク鵞鳥市場のオペラ劇場ではラインハルト・カイザーを頂点とするオペラ芸術に接した。また、リューネブルクからの小旅行は南へ約80kmに位置する小都市ツェレを目的地とすることもあった。ツェレの領主ゲオルク・ヴィルヘルム公は若い頃イタリアからフランスを歴訪し、公妃エレオノーレも由緒正しい貴族の出だったから、ツェレの宮廷はフランス文化一色に染まっていたのである。(3)(4)
1703年3月、J・S・バッハ(18)
バッハ、ザクセン・ヴァイマール公ヨーハン・エルンストの宮廷(通称「赤の館」)に楽師として仕える(第1次ヴァイマール時代)。宮廷楽団ではバイオリンあるいはビオラを演奏する。(3)
8/14、J・S・バッハ(18)
バッハにアルンシュタット新教会オルガン奏者就任の辞令が交付される(アルンシュタット時代)。日曜日、祝日その他の礼拝の際にコラールの伴奏をすることがバッハの職務であった。(3)
1705年10月頃、J・S・バッハ(20)
4週間の休暇を取りリューベックに旅行する。目的は聖マリア教会オルガン奏者のディートリヒ・ブクステフーデの音楽、特に待降節の時期に催される「夕べの音楽」を体験し、「自分の芸術の中で把握する」ためであった。ブクステフーデの音楽にすっかり魅了されたバッハは無断で休暇を延長しリューベックに滞在した。(3)
1706年頃作曲、J・S・バッハ(21)、オルガンのためのトッカータとフーガ ニ短調BWV565
あらゆるバッハの作品の中でも、もっとも有名なもののひとつ。アルンシュタット時代ないしはワイマール時代の初期作と見られ、青年バッハのオルガンにかける熱意をいかんなく伝える。(3)
1706年?初演、J・S・バッハ(21)、カンタータ第150番「主よ、われ汝を求む」BWV150
1706年あるいは1708年以前に初演する。バッハ最初期のカンタータのひとつ。ファゴット・パートが短3度高く記譜されていることからワイマール時代に演奏されたと考えられる。ブラームスが第4交響曲の終楽章の手本とした。(3)
1717年12月末、J・S・バッハ(32)
バッハ、ケーテンヘ移転する。(ケーテン時代)バッハはアンハルト=ケーテン侯レーオポルトの宮廷楽長として任務にあたる。新年、侯爵の誕生日、その他の冠婚葬祭、貴族の来訪などの折に、また、侯爵の希望に応じて音楽を作曲することが仕事だったと考えられる。ケーテン侯はカルヴァン派に属していたため信仰の妨げになるとして音楽を制限した。このため、この時代のバッハの筆からは、教会カンタータなどは生まれなかった。一方、世俗音楽は多数書かれ、たとえば「ブランデンブルク協奏曲」「無伴奏バイオリンソナタとパルティータ」「インヴェンション」「平均律クラヴィーア曲集第1巻」などがこの時代の自筆譜で伝承されている。ただし、それらのほとんどは浄書であり、作品自体がこの時代に成立したとは限らない。ケーテン時代の正確な作品成立年代記はバッハ研究上の課題のひとつである。ケーテン侯は当初、バッハを非常に優遇し、高額の年俸を与えた。しかし、1720年頃宮廷楽団の規模が縮小されはじめたのを契機に、バッハは転職を考えるようになる。(3)
1722年作曲、J・S・バッハ(37)、平均律クラヴィーア曲集第1巻BWV846~869
平均律クラヴィーア曲集を完成する。純正律について簡単に話したいと思います。各音の振動数の比が整数である時、その音程は純正に響いているといいます。振動数の比が1対2であればオクターヴ、2対3であれば完全5度、4対5なら長3度です。純正律で鍵盤楽器を調律すると、ハホト、ヘイハ、トロニの間隔がまちまちになるため、その他の和音は耐え難い響きとなります。音楽の領域をすべての方向にわたって探求し、自己の音空間を広げたいと願っていたバッハは、12音階の上に成り立つすべての長調、短調すなわち24の調を使いこなしたいとの意志を持っていました。1691年ザクセンのオルガニスト、アンドレアス・ヴェルクマイスターは著書「調律法」において「心地よく整えられた調律(wohltemperiert)」を提唱しました。この調律では3度音程を純正3度にせず、ほんの少しシャープにすることによって、どの調への転調も可能となり、また各調整の個性も聴き取れるというものでした。純正に固執したのでは24の調すべてを1台の鍵盤楽器で演奏することは出来ず、24全てを弾こうと思えば、純正を放棄し、ややシャープな長3度を持ってよしとせねばならぬという苦しい選択でしたが、バッハは未来を考えてヴェルクマイスターに賛同し、この調律を選び、1722年にプレリュードとフーガが1組となった全24曲からなる平均律クラヴィーア曲集第1巻を仕上げたのです。(2)
1723年5/13、J・S・バッハ(38)
ライプツィヒの聖職会議、バッハの採用を確認する。(ライプツィヒ時代(第1期))ライプツィヒ時代は3つの時期に分けることができる。第1期(1723年~1729年まで)トーマス・カントルとしての職務が中心。第2期(1730年~1735年)コレギウム・ムジクムの指揮者として活躍。第3期(1736年以降)ドレスデン宮廷作曲家の称号を得たのち。トーマス・カントルの職務には聖トーマス教会附属学校の教師と市の音楽監督という2つの仕事があった。音楽監督としてのバッハは主要教会であるニコライ教会をはじめトーマス教会、新教会、ペテロ教会の市内4教会の音楽上の責任を負う。 (3)
1727年4/11初演、J・S・バッハ(42)、マタイ受難曲 BWV244
ライプツィヒの聖トーマス教会で初演される。受難曲は聖金曜日の晩課として、すなわち人間が神のいいつけに背いて犯した罪を賠うために主イエス・キリストが十字架上で息をひきとられたことを記念する金曜日に演奏される。その翌々日の日曜日(次の週の初めの日)が復活祭となる。作品は独唱、合唱を伴う2つの管弦楽群によって演奏される。17世紀半ばにハンブルクで始まったオラトリオ受難曲の様式による。ルター訳のマタイ福音書をレチタティーヴォ化した楽曲を中心に自由詩による合唱、アリア、レチタティーヴォと種々のコラールを折り混ぜる形で進められる。聖句楽曲においては語り手がテノール、イエスがバスに割り振られ、他の登場人物はそれぞれの声域の独唱者に、また弟子や群衆は合唱に委ねられる。(3)
1733年7/27献呈、J・S・バッハ(48)、ロ短調ミサ曲BWV232
フリードリヒ・アウグスト2世にキリエとグロリアのパート譜を献呈する。バッハは1733年7/27ドレスデンのザクセン選帝侯アウグスト強王(1733年2/1逝去)の皇太子であり、ポーランドの王になるためにルター派からカトリックに改宗したフリードリヒ・アウグスト2世に、宮廷作曲家の称号を請願します。このときに請願書とともに提出されたのが、このいわゆる「ロ短調ミサ曲」のキリエとグロリアのパート譜でした。(2)
1741年10月出版、J・S・バッハ(56)、クラヴィーア練習曲集第4部「ゴールドベルク変奏曲(アリアと30の変奏曲)」ト長調BWV988
クラヴィーア練習曲集第4部として出版する。バッハの最初の伝記学者でドイツの音楽家かつ理論家のフォルケルによれば、この変奏曲はザクセン駐在ロシア大使カイザーリンク伯爵が依頼したもので、伯爵は付き人のハープシコード奏者でバッハの生徒でもあるゴルトベルクに演奏させて、頻繁に悩まされる不眠症を和らげようとしたといわれている。(3)
1742年頃作曲、J・S・バッハ(57)、フーガの技法BWV1080の第1曲~第9曲
バッハの遺言音楽ともいえる「フーガの技法」はニ短調の主題1つと5つの付随的主題、および12あまりの対主題で構成されている。全22曲のうちわけは、4声フーガ15曲、3声フーガ3曲、2声フーガ4曲で、フーガ百科事典というにふさわしいが、とくにクラヴィーア用に書かれたとは考えられていない。19番目のフーガでは、対主題の最初の4つの音がB・A・C・Hの名に対応しており、未完に終わっている(5)。
1742年頃から46年頃作曲、J・S・バッハ(57~61)、フーガの技法BWV1080の第10曲~第15曲、第18曲、(3)
1748年8月~49年10月作曲、J・S・バッハ(63~64)、ロ短調ミサ曲BWV232の「ケーア信教~」、(3)
1748年8月~49年10月作曲、J・S・バッハ(63~64)、フーガの技法BWV1080の第19曲、(バッハ事典より)
1750年7/28、J・S・バッハ
午後8時過ぎに、ヨハン・セバスチャン・バッハ、ライプツィヒにて死去する。(3)

【参考文献】
1.フォルケル著、柴田治三郎訳・バッハの生涯と芸術(岩波書店)
2.淡野弓子著、バッハの秘密(平凡社)
3.バッハ事典(東京書籍)
4.樋口隆一著、作曲家写真文庫・バッハ(新潮社)
5.ブノワ他著、岡田朋子訳・西洋音楽史年表(白水社)

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