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音楽史年表記事編83.ベートーヴェン、人類愛の勝利・交響曲第9番ニ短調

 1811年秋、ベートーヴェンはアントーニアとのシレジア旅行からウィーンに戻り、交響曲第7番イ長調の作曲を開始します。アントーニアとの愛を確信したベートーヴェンはアントーニアとの愛の勝利の3曲セットの交響曲を構想したものと思われます。2曲目の交響曲第8番ニ長調はアントーニアの交響曲であり、舞踏楽章が続きます。
 しかし、1812年9月に突然の破局が訪れます。ベートーヴェンはこのあと苦悩の10年間を過ごすことになりますが、この間のベートーヴェンの苦闘の状況は断片的に日記に記載されています。そして、ボンで出会い当時から付曲を考えてきたシラーの「歓喜に寄す」を思い出したのでしょう。ベートーヴェンは連作交響曲のテーマを「夫婦の愛の勝利」から「人類愛の勝利」に変貌させ、更に祈りのミサ曲と組み合わせた大規模なオラトリオを構想したのではないかと考えられます。すなわち、祈りの荘厳ミサ曲ニ長調Op.123、それに続く交響曲第9番ニ短調Op.125の終楽章にはオラトリオ形式の壮大な人類愛の歓喜の歌を配置します。1824年5/7の初演時には、交響曲第9番の演奏に先立ち、荘厳ミサ曲のキリエが第1聖歌として、クレドが第2聖歌として、アニュス・デイが第3聖歌として演奏されています。交響曲第9番の初演は空前の大成功を収めます。
 ベートーヴェンは1808年の交響曲第6番「田園」と交響曲第5番の初演時には、ミサ曲ハ長調Op.86のグロリア、サンクトゥス、ベネディクトゥスを演奏しています。このミサ曲はラテン語で演奏されたと記録されていますが、教会以外の劇場でのラテン語典礼によるミサ曲の演奏は異例のことであり、史上まれなことであったものと思われます。教会側はミサ曲の教会以外での演奏を厳しく禁止していましたので、モーツァルトもミサ曲ハ短調K.427をウィーンの劇場で上演した際には、ラテン語の歌詞をイタリア語のダヴィデの物語に置きかえカンタータ「悔悟するダヴィデ」K.469として改作しています。恐らく、ベートーヴェンの劇場でのラテン語ミサ曲の上演は相当の非難にさらされたことが想像され、ベートーヴェンはこの後プロテスタントの神学者シュライバーによるミサ典礼文のドイツ語訳をおこない、1812年のライプツィヒにおける出版ではラテン語典礼文にドイツ語訳を併記して、オラトリオとしても演奏できるようにしています。
 ミサ曲の典礼文のドイツ語訳が存在する以上、第9交響曲初演時の荘厳ミサ曲上演において、オラトリオ形式としてドイツ語訳で歌われた可能性もありますが、どちらの言語で上演されたのかの記録は残っていません。
 ベートーヴェンはボンでカトリックのフランシスコ派の宗派であるミノリーテンとして生まれていますが、音楽の師であるオルガン奏者ネーフェはザクセン出身で、ライプツィヒ大学で学んだプロテスタントであり、この関係でベートーヴェンはカトリックの宗派に属しながらプロテスタント・ルター派のセバスティアン・バッハの平均律クラヴィーア曲集を学びました。カトリックとプロテスタントに分断されたドイツでは30年戦争という悲惨な宗教戦争の歴史があり、ベートーヴェンの人類愛の祈りには、宗教的に分断されてきたドイツ国家の統一の理念もあるように思われます。

【音楽史年表より】
1823年3/19献呈、ベートーヴェン(52)、ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)ニ長調Op.123
ベートーヴェンはウィーンに戻っていたルドルフ大公のもとに完成させたばかりの献呈譜を持参する。大司教就任式からはすでに3年経過していた。(1)
おそらく、ベートーヴェンは苦難の淵から救われた者の神への感謝の歌を、生涯の総決算として遺したいと考えたに違いない。すでに日記の18年の項に教会音楽への強い関心がしるされており、これが彼のミサ・ソレムニスOp.123への最初の動機と考えられている。やがて、それはオルミュッツの大司教に任ぜられたルドルフ大公の叙任式を飾ろうという現実的目標を持つが、この作品を単なる機会音楽などと見ることはできない。ベートーヴェン自身、この作品を自分の最大の作品と言っているが、一方で彼は、作曲中のキリエの冒頭の楽譜の余白に「心より出ず、願わくは再び心にいたらんことを!」と書きつけている。そこには、教会向けの典礼音楽の枠を超えて、1個の人間の敬虔な心が、同じように敬虔な者の心に届き、その祈りをさそい出したいという願いが込められている。そして、彼が表紙に書き込んだ「内と外との平和を祈念して」という言葉は外なる世界の平和と人間の内なる心の平和とが、けっして切り離せないものであることを示している。(2)
4月作曲、ベートーヴェン(52)、ディアベリのワルツの主題による33の変奏曲Op.120
1819年に作曲に着手され、中断の後、1822年から23年4月に完成される。ベートーヴェンの変奏曲の頂点にあるこの作品は鍵盤音楽史上、否、変奏曲史のなかにあってバッハのゴールドベルク変奏曲と双璧をなしている。(1)
ベートーヴェンは1823年に完成された作品120の変奏曲をアントーニアに献呈している。ここにもまた交響曲第8番で使われたポスト・ホルンや作品110のピアノ・ソナタの嘆きの歌のメロディーが現れるが、もはや生々しさはなく、すべてが自在で華麗な音のアラベスクとして昇華されている。彼は恋愛というもっとも秘められた情念から出発して、運命に翻弄され、同時にそれに鍛えられながら、「われらの内なる道徳律とわれらの上なる星々!/カント」の心境に至りついたのだった。(2)
1824年4/7初演、ベートーヴェン(53)、ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)ニ長調Op.123
サンクトペテルベルクで初演される。(1)
5/7初演、ベートーヴェン(53)、交響曲第9番ニ短調「合唱付き」Op.125
ウィーンのケルントナートーア劇場で初演される。総指揮者ベートーヴェン、実質指揮者は宮廷楽長ウムラウフ、コンサートマスターはシュパンツィヒ、独唱はSop:H・ゾンターク、Alt:K・ウンガー、Ten:A・ハイツィンガー、Bar:J・ザイペルト、プロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世に献呈される。当日プログラムは祝典劇「献堂式」序曲Op.124、ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)ニ長調Op.123より「キリエ」「クレド」「アニュス・デイ」、続いて交響曲第9番ニ短調「合唱付き」Op.125が初演される。ベートーヴェンが合唱の詩句シラーの「歓喜に寄す」の全篇の作曲しようとの意欲を示したのは、ウィーンに来る直前の1792年、まだボンにいたときである。つまり、最初にベートーヴェンが歓喜を唱おうとした時から32年たって交響曲として結実したのであった。(1)

【参考文献】
1.ベートーヴェン事典(東京書籍)
2.青木やよひ著・ベートーヴェンの生涯(平凡社)

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