見出し画像

音楽史年表記事編64.ベートーヴェン、絶望のトロンボーンのためのエクヴァーレ

 1812年9月、ベートーヴェンはカールスバートでゲーテと和睦しテープリッツに戻ります。上機嫌で交響曲第8番ニ長調の作曲を続けていたベートーヴェンのもとに、突然ヨゼフィーネの姉のテレーゼから1通の手紙が届き、ベートーヴェンは人生で最悪のどん底にたたき落されることになります。
 話をヨゼフィーネに戻しますが、1808年ヨゼフィーネは子供たちの貴族としての身分を守るためにベートーヴェンをあきらめ、スイスへ教育者を訪ねる旅に出ます。そして、この地で同行した2人の息子たちの家庭教師としてエストニア出身の男爵シュタッケルベルクを雇います。シュタッケルベルクはその後、イタリアを経由してウィーンにまで同行しますが、ヨゼフィーネと結婚できないなら家庭教師はやらないと条件をつけ、1810年2月にはヨゼフィーネと結婚します。しかし、シュタッケルベルクに経済力は全くなく、ダイム伯爵が子供たちのために残した遺産のすべてを使い尽くし、行方をくらますという事態になります。ヨゼフィーネはダイム伯爵との4人の子供とシュタッケルベルクとの間にできた2人の子供をかかえ、生活費にも事欠くという貧窮に陥ることとなります。(1)
 ベートーヴェンは見るに見かねて約2000フローリン(約2000万円)を持参しますが、ヨゼフィーネはこのような状況となって初めて後悔したのでしょうか。ハンガリーの実家のブルンスヴィク家に頼ることもできたはずでしたが、これまでさんざん自分の意思を押し通してきたヨゼフィーネには、もはやベートーヴェン以外に頼る人はいなくなっていたようです。
 一方、カールスバートでゲーテと和解し上機嫌のベートーヴェンでしたが、突然ヨゼフィーネの姉のテレーゼから手紙が来ます。そこにはヨゼフィーネが神聖な子を宿したと書かれ、自分が養育しようと書かれていたのでした。ベートーヴェンはこのことをフランツェンスブルンのアントーニアに知らせたようですが、アントーニアが夫との間に子供ができ、自分がそれを許したのだから、ヨゼフィーネの件も許してくれるのではないかとの安易な考えがあったのかもしれません。おそらくアントーニアは怒りを爆発させ、ベートーヴェンとのことはすべて清算し、ウィーンのビルケンシュトック邸を売却しフランクフルトに移ることを決意し、直ちにウィーンに移りすべての荷物をフランクフルトに送ったのでしょう、アントーニアはベートーヴェンに約1ヶ月の謹慎を命じ、その間ウィーンには来ないでほしいと言いつけたものと思われます。ベートーヴェンはその後リンツに移りますが、シントラーの伝記に記載されそれが一般に信じられてきたようにリンツの弟ヨーハンの結婚に反対する為ではなく、アントーニアから謹慎を命じられ行き場所を失ったベートーヴェンは、リンツの弟ヨーハンのもとに身を置いたのでした。
 ここからベートーヴェンは苦悩の日々を過ごすことになります。ベートーヴェンには1812年から18年の6年間に渡って書かれた日記が残されています。その冒頭は、「・・・Aとのことは全て崩壊に至る。」で始まります。絶望したベートーヴェンはリンツで葬式のための曲である4本のトロンボーンのための3つのエクヴァーレWoO30を作曲しています。実際にベートーヴェンが亡くなった時、この曲はベートーヴェンの住居のシュヴァルツシュヴァーニエハウスから三位一体教会までの葬列で演奏されることになります。運命に打ちひしがれた孤独なベートーヴェンは日記に、折々の感慨や感銘した詩集や戯曲、あるいはインドの哲学書の抜粋などや、あるいは日常のメモなど書きつけて行きます。やがて、ベートーヴェンは絶望から立ち直り、新たな境地にたどり着くのです。
 なお、ヨゼフィーネは1814年にシュタッケルベルクに3人の子供を連れ去られ、健康状態と財政状態の悪化に伴いダイム伯爵との間の4人の子供はマルトンヴァシャールの姉のテレーゼのもとに引き取られ、自身はひとりウィーンに残りダイム伯爵の残したミューラー美術館の管理を続けるものの、おそらくベートーヴェンの援助のもと1821年に息をひきとっています。ベートーヴェンの遺児となった幼少期のミノナは女総督とあだ名され、シュタッケルベルクが亡くなった後はウィーンでピアノ教師となり生涯独身を通したとされます。ミノナは、ベートーヴェンの遺品を受け継いでいました。そして1949年には奇跡的にベートーヴェンのヨゼフィーネに宛てた13通の恋文が発見されることとなります。ヨゼフィーネの姉のテレーゼは生涯日記の中で、ヨゼフィーネがなぜベートーヴェンと結婚しなかったのかとたびたび述べています。二人が結婚していれば二人とも不幸にはならなかったのにという思いがあったようです。

【音楽史年表より】
1808年8月、ベートーヴェン(37)
ベートーヴェンとの恋愛は悲劇として幕を閉じることとなったが、ヨゼフィーネはその後母親としての使命に生きようと決心したように見える。1808年8月息子たちに理想的な教育を受けさせようと次男のフリッツ(7歳)と3男のカール(6歳)を連れ、その夏カールスバートにいた姉のテレーゼに同道を依頼して長い旅に出る。彼らが到着したのは著名な教育者ペスタロッツィのいるスイスのイヴェルトンであった。ここで姉妹はエストニア出身の男爵クリストフ・シュタッケルベルクと出会って、彼を家庭教師に迎える。一行5人はスイスからイタリア各地をめぐり、翌1809年6月ウィーンに着く。(1)
1810年2/13
ヨゼフィーネがクリストフ・フォン・シュタッケルベルク男爵と結婚する。その年のうちに女児が誕生し、翌年には男児が生まれたが、読書好きで博識であったが生活をまったく省みない無収入の夫と、経済観念にうとく、万事にぜいたく好みの妻という彼らの家庭はほどなく財政的に行きづまる。(1)
1812年5月末か6月初め
財政的に行きづまり夫婦間で争いが絶えなくなっていたヨゼフィーネとシュタッケルベルクは5月末か6月初めに決定的な対立が訪れ、シュタッケルベルクは12月まで行方をくらましてしまう。ヨゼフィーネは30室もある広大なダイム邸に6人の子供と共に残され、信じられないほどの貧窮に直面することになった。(1)
6/27か6/28、ベートーヴェン(41)
ベートーヴェン、ダイム伯爵邸のヨゼフィーネを訪問する。ヨゼフィーネはシュタッケルベルクと再婚していたが、シュタッケルベルクはダイム伯爵の遺産を使いつくし、ヨゼフィーネをウィーンに残し、エストニアに引きあげていた。ヨゼフィーネは生活費にもこと欠く状態でベートーヴェンは約2000フローリンを持参したものとみられる。(1)
6/29、ベートーヴェン(41)
ベートーヴェン、早朝4時にウィーンを出発し、テープリッツへ向かう。(2)
9/9、ベートーヴェン(41)
ベートーヴェン、カールスバートを出発し、テープリッツに到着する。ゲーテと和睦したベートーヴェンはテープリッツにおいてベルリンのソプラノ歌手アマーリエ・ゼーバルト等と交流するなど、上機嫌で交響曲第8番の作曲を続ける。(1)
9/22、ベートーヴェン(41)
テレーゼ・ブルンスヴィク、日記に妹ヨゼフィーネについて記す・・「妹ヨゼフィーネが宿した子どもを、生まれたあかつきには、気高い厳粛な気持ちで子どもに備わる神性を何もそこなわないように自分が養育しよう」・・生涯ベートーヴェンを敬愛していたテレーゼは、ヨゼフィーネの子供たちの養育にあたり、ヨゼフィーネの死後にはベートーヴェンがヨゼフィーネに書いた恋文13通や遺品を、翌年4月に生まれたミノナに託したのであろう。ミノナは後年ウィーンでピアノ教師をして独身で過ごしたが出生については秘匿していた。ベートーヴェンの遺品はミノナの家政婦によって持ち逃げされアメリカに渡り、散逸していたが、恋文13通が1949年突然アメリカで発見された。(1)
10/5、ベートーヴェン(41)
ベートーヴェン、リンツの弟ヨハンを訪ね、約1ヶ月間滞在する。ヨハンとテレーゼ・オーバーマイヤーとの結婚をめぐり、ベートーヴェンはヨハンと対立したといわれる。テレーゼ・オーバーマイヤーはヨハンの家政婦として雇われていた。この間、ベートーヴェンは交響曲第8番ヘ長調の作曲を進める。(2)
11/2頃作曲、ベートーヴェン(41)、4本のトロンボーンのための3つのエクヴァーレWoO30
エクヴァーレとは同種の声または楽器のための曲のことで、18~19世紀のオーストリアでは特にトロンボーン合奏による葬儀用の音楽として位置づけられていた。作曲のきっかけはベートーヴェンが1812年10月~11月に弟を訪ねてリンツに滞在した際、親交を持った同地の大聖堂楽長フランツ・クサーファー・グレッグルに求められてのことだった。ベートーヴェンが当地の葬儀で演奏されるエクヴァーレを聴きたがったので、グレッグルはある晩彼を夕食に招待した折に3人の奏者にその例を吹奏させた。ベートーヴェンはその場で1曲を書き上げ、グレッグルは早速3人に試奏させた。第1番と第3番は1827年3/29ベートーヴェン自身の葬儀でも、葬列の際に男性4重唱を加えて演奏された。第2番はちょうど1年後の同日、ベートーヴェンの墓石除幕式でグリルバルツァーの詞による男声合唱で歌われた。(2)
11/3
キンスキー侯爵が落馬のため急死し、ベートーヴェンへの年金が停止される。(2)
11/4
アントーニア一行、ウィーンを出発し、フランクフルトへ向かう。(1)
11/6頃
ベートーヴェン、リンツを出発しウィーンへ向かう。(1)
11/8、ベートーヴェン(41)
ベートーヴェンの弟ヨハンがテレーゼ・オーバーマイヤーと結婚する。(2)

【参考文献】
1.青木やよひ著・決定版・ベートーヴェン「不滅の恋人」の探求(平凡社)
2.ベートーヴェン事典(東京書籍)

SEAラボラトリ

作曲家検索(約200名)、作曲家別作品検索(約6000曲)、音楽史年表検索(年表項目数約15000ステップ)からなる音楽史年表データベースにリンクします。お好きな作曲家、作品、年表を検索ください。

音楽史年表記事編・目次へ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?