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音楽史年表記事編93.ウィーン・アウガルテン奏楽堂

 ウィーンの旧市街の北のドナウ運河の対岸にはアウガルテンと呼ばれる広大な庭園があり、皇帝ヨーゼフ2世の開放政策により一般市民に開放されていたようで、モーツァルトは毎朝アウガルテンやプラータの庭園などを乗馬での散策を行っています。庭園内には奏楽堂があり、モーツァルトはたびたびピアノ協奏曲などを演奏しています。ここでのコンサートはお昼にマチネーとして奏楽堂内あるいは奏楽堂前で行われていたようで、皇帝ヨーゼフ2世が臨席することもありました。なお、現在庭園内にはウィーン少年合唱団の寄宿舎があります。
 1803年5月、ベートーヴェンはアウガルテン奏楽堂でバイオリン・ソナタ第9番イ長調「クロイツェル」Op.47を初演しています。ベートーヴェンの弟子のフェルディナンド・リースの記録によると、リースは演奏会当日の朝4時半にベートーヴェンに呼び出され、バイオリンのパート譜の筆写を頼まれており、作品は演奏会当日の朝に仕上がったことが分かります。もともと第3楽章はバイオリン・ソナタ第6番イ長調Op.30-1のために作曲されていましたが、1楽章2楽章との釣り合いから放棄されていたものを利用し、アウガルテンでの演奏会のために前2楽章を追加作曲し仕上げられたとされます。初演時バイオリンを演奏したのはポーランド人の母と黒人の父との混血児のブリッジタワーで、イギリスのウェールズ公の首席バイオリン奏者を努めていました。現代の常識では考えられませんが、ベートーヴェンはブリッジタワーが混血児であることを茶化して、このソナタを何でもありのごちゃ混ぜソナタと呼んでいます。ベートーヴェンは自由にあらゆる手法を駆使してソナタを作曲したことが伺え、自由な発想と新たな手法によって作曲されたことによって古今の最高峰に位置づけられるソナタが完成したといえるでしょう。出版にあたっては、ベートーヴェンはブリッジタワーともめ事を起こしたためブリッジタワーへの献呈を行わず、ウィーン占領統治のためにウィーンに駐留したフランス全権大使ベルナドットに同行したフランスのバイオリンの名手ロドルフ・クロイツェルに献呈を行います。
 1808年5月、ベートーヴェンはアウガルテン奏楽堂でピアノ、バイオリン、チェロのための三重協奏曲ハ長調Op.56を初演します。この三重協奏曲はベートーヴェンの作品の中でも人気がないものですが、恐らくピアノ協奏曲やバイオリン協奏曲の壮大さに比べると三重協奏曲の割には迫力に欠けるからと思われます。ベートーヴェンはピアノ、バイオリン、チェロの構成による室内楽のピアノ三重奏曲を生涯を通して作曲しており、三重協奏曲をオーケストラとピアノ三重奏で演奏される協奏交響曲のような室内楽作品と考えれば、なかなかの名作のように思われます。

【音楽史年表より】
1803年5/24初演、ベートーヴェン(32)、バイオリン・ソナタ第9番イ長調「クロイツェル」Op.47
ウィーンのアウガルテン奏楽堂で行われたシュパンツィヒ主催の演奏会で、ブリッジタワーのバイオリン、ベートーヴェンのピアノで初演される。ベートーヴェンのバイオリン・ソナタの中で最大の規模であるばかりではなく、古今のこのジャンルでも最高峰に位置する作品である。かつて鍵盤楽器とバイオリンを表現手段としてこれほど劇的な葛藤が表現されたことはなかった。2つの楽器は文字通り対等なペアとなり、このジャンルのサロン音楽的な性格を完全に払拭している。作品はブリッジタワーの来訪後にブリッジタワーの演奏スタイルと技量に触発され急速に作品としての形をなしたが、作曲は初演の直前まで続けられた。弟子のフェルディナンド・リースの報告によれば、「ブリッジタワーは演奏会の日取りが既に決まり、自分のパートを練習したかったので、ベートーヴェンをとてもせきたてた。ある朝ベートーヴェンは私を4時半に呼び出してこう言った・・・この冒頭アレグロのバイオリン・パートを急いで書き写してください・・・ピアノ・パートはまばらに記譜されているだけだった。朝8時のアウガルテンの演奏会でブリッジタワーはヘ長調の素晴らしく美しい主題と変奏をベートーヴェン自身の手稿から弾く羽目になった。写譜する時間がなかったからである。」(リースの伝記的覚書から)。初演は緩徐楽章がアンコールされたほどの大成功だった。第3楽章は本来バイオリン・ソナタ第6番イ長調Op.30-1のために1802年に作曲された。しかし、他の楽章とのバランスから、この楽章は使用されず、1年後の1803年春ベートーヴェンはウィーンを訪れたバイオリニスト、ブリッジタワーの演奏会のために急いで前2楽章を加えてソナタを仕上げることになる。ブリッジタワーはポーランドでアフリカ黒人とヨーロッパ人の母の間に生まれた混血児で、当時イギリスのウェールズ公の首席バイオリン奏者をつとめていた。1805年4月の出版にあたっては、ベートーヴェンとブリッジタワーとの間である娘をめぐってといわれる問題が生じ、ベートーヴェンは当時パリ最高のバイオリニスト、ロドルフ・クロイツェルに献呈を行った。ベートーヴェンは1798年にこの名バイオリニストがウィーンを訪れて以来、その人柄と演奏に好感を持っており、また、1803年当時ウィーンを去りパリに行く計画も立てていた。ところがクロイツェルは曲に全く理解を示さず、一度も演奏したことがなかったといわれる(1844年ベルリオーズのドイツ、イタリア音楽旅行による)。(1)
1808年5月初演、ピアノ、バイオリン、チェロのための三重協奏曲ハ長調Op.56
ベートーヴェンがこの作品に着手するのは1803年頃で「エロイカ・スケッチ帳」の最後の3ページにこの曲のスケッチが登場している。また、1804年の「レオノーレ・スケッチ帳」にはいたる所にこの作品に連なるスケッチが見られ、1803年から04年にかけて作曲され、04年末あるいは05年初めには作品は成立したとみることができる。弟カールを通してあるいは自らの出版交渉も難航し、初版は1807年、また初演は1808年5月のアウガルテン演奏会まで待たなければならなかった。この作品は協奏曲であると同時にオーケストラ付きのピアノトリオという性格を持つが、この作品に対する人々の関心は薄く、もっぱら編曲譜の形態において注目を浴びていく。(1)

【参考文献】
1.ベート―ヴェン事典(東京書籍)

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