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れば面白い

趣味について

巷には数多の趣味が転がっており、拾うも捨てるも人様々だ。
たまたま拾ったものが、今後の人生を左右するほどの情熱や興奮を与えるものもあるだろう。
結果的に幸か不幸かはわからない。ただそういったものに巡り会えるというのは誠にうらやましいものである。

お見合いなどで「ご趣味はなんですか?」など聞かれようもんなら、間髪入れずに「週末はオペラ鑑賞を少々」や「知り合いの起業家セミナーへ」などと、高尚な趣味を嗜んでいる様を揚々と語りたいところではあるが、実際には映画鑑賞や読書といった平々凡々な趣味に落ち着いてしまう。

理想と現実……現状に甘んじている事に悶えていると、ふと自分の趣味は一体何なのか疑問に思うことがある。
はたして自分には趣味と言えるものはあるのだろうか。
好きなものは言える。
ただし趣味だと言えるのだろうか。そもそも趣味とは何なのだろうか。
仲の良い友達を親友と呼んでいいのかと同様の葛藤を滲ませる。
早速意味を調べてみることにする。

趣味(しゅみ)は、以下の3つの意味を持つ。
1.人間が自由時間に、好んで習慣的に繰り返しおこなう行為、事柄やその対象のこと。
2.物の持つ味わい・おもむきを指し、それを観賞しうる能力をもさす。調度品など品物を選定する場合の美意識や審美眼などに対して「趣味がよい / わるい」などと評価する時の趣味はこちらの意味である。→#美学用語の「趣味」
3.人間が熱中している、または詳しいカテゴリーのこと。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

なるほど、「好んで習慣的に繰り返しおこなう行為」というのがしっくりくる。「好き」+「習慣的」が趣味の定義だとすれば、目の前に希望の光が差し込む。普段の生活からこの2つが一致するものを探していけばよいのだ。
記憶を辿ってみようと思う。

釣り

まずは「釣り」だ。
魚を釣るという行為の起源は、少なくとも約4万年前の旧石器時代まで遡るという。趣味の中では最古と言っても良い程のもので、元々は食料を得るための行為が、娯楽に派生したものである。

学生時代からの友人から釣りに誘われて、しばしば行くことがある。
頻度としては三ヶ月に1回ほどだ。
これが習慣的と言えるのか、ひとまず置いておいてほしい。
朝4時頃から竿を振り出すのだが、この時点では夕飯の心配をしなくてよいという期待感と、これから体感するであろう大物との死闘を想像しており、気分は最高潮となっている。
そう、この時が最高潮なのである。

第一の難関。
パック内でひしめき合っている奴。噛むミミズでお馴染みの「アオイソメ」という生命体との闘いを強いられることになるのである。
よく素手で触れるものだ。ましてや手で千切るなど常軌を逸した行為を目の当たりにすると、釣人への尊敬の念を抱かずにはいられない。
始めは抵抗がありつつも不思議なもので、人間に備わっている最強のシステム「慣れ」が発動するのに時間はかからなかった。
最初は抱いていた愛護精神は徐々に薄れ、太陽が頭上を照らす頃には針を通す手に躊躇は無くなっていた。

第二の難関。
虚無との闘いである。
周りがすっかり明るくなった頃、何度バケツの中を覗いても動く影はない。
ただただ一点、水面の揺れをじっと見つめるのである。
時間とともに姿を消していく「アオイソメ」とは裏腹に、様々な考えが頭に浮かんでいく。
竿だけを握りしめて。

一体いつまでやるんだろう。
フナ虫って古代からいそうだな。
あーテトラポット登って♪

次の瞬間友人は言った。
「釣れなくなってきてからが本番だ。」
何を言っているんだ。
元から釣れていないのだ。だとしたら初めから本番なのではないか。
長時間本番を維持できるほどの精神力を備えているわけではない。
豪勢な夕食も、夢見た死闘も完全に忘れていた。

一つの結論に至る、完全に飽きたのだ。
よく考えたら釣りはそこまで好きじゃない。
釣れた時の感覚は知っている。

釣れれば面白い。

パチンコ

次はパチンコだ。
大学生時代に初めて触って以来、長らくやっていたものである。
好んで習慣的に繰り返しおこなう行為そのものだった。
だったといういうことは、現在進行形ではない。
今はほぼやっていないのだ。
付合い程度でやることはあるが、自らやりたいという衝動はどこかに消えてしまった。

なぜやめてしまったのか。
そこには明確な理由がある。

第一の理由。
単純に金銭的な余裕の無さである。
年齢とともに金銭的な余裕が出てきたと思えば、支出もそれなりに増えていく。また生活の安定を求めるとギャンブルへの依存は減っていくものだ。
また、未来志向になると、今の金の使い方について考える余裕が生まれる。
結婚や投資といった新しいギャンブルへの興味が勝ったと言っておこう。
結婚生活については賭けに負けたのだが、詳細は割愛させて頂く。

第二の理由。
虚無との闘いである。
外はすっかり暗くなった頃、何度後ろを振り向いても箱が積まれていない。
ただただ一点、画面の演出をじっと見つめるのである。
時間とともに姿を消していく「ユキチ」とは裏腹に、様々な考えが頭に浮かんでいく。
ハンドルだけを握りしめて。

いつになったら当たるんだろう。
遠隔操作って本当にあるのだろうか。

短時間にして小金を稼げるという魅力もあるが、当たった時の感覚が癖になり、辞められないという話は良く聞く。
俗に言う「脳汁が出る」と言われるやつだ。

逆に何が辛いって、何もない時である。
今では演習も派手になってきているが、それはそれで壮大な煽りであり、苛立ちも増す。
だが、これだけは言っておきたい。

当たれば面白い。

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