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ままならないまま生きる

さて、初めてこういうものを書く身としては、差し当ってどう書いたものか良く分からないのが本当の所だ。右往左往して彷徨う様な文章だろうが、読む方はどうか慣れてくれとしか言いようがない。若しくは私の文章力だかが上がるのを待って欲しい。いつ文章力が上がるのか、いつ完璧な文章を見せれるかは不明なので、余程の物好き以外はこの辺りで引く事をおすすめしたい。 

さて、ほんの少しの気遣いにも似た何かを綴って居たら思い出したのだが、自分自身を言葉で、或いは態度で示した事は幾度もあれど、こうして文で自身を、自身の気持ちを表現したことはほぼ無かった。
気持ちを文で、となると(一般的がわからないので何となく例を挙げれば)ラブレターや手紙、感謝状などを想起する。

そこへ来て、例えば今時はLINEでラブレターの代わりなどをするらしい。が、そも恋をして告白するのが無理だった私が、そして何より告白したくなってもそもそも携帯が無かった私が、手紙すら書く事が出来なかった私如きがそんな甘酸っぱい青春じみた真似をする筈もなく、ずっと燻りながら生きて来た私が【自らの気持ちを文章に出力する】という行為をする事はやはり無かった。

気持ち。或いは感情。何時になっても、何処に居ても私が苦手として、それでありながら無くなると困るもの。矛盾を常として、人と共にあるもの。人によって程度はあれど、時に足枷になりゆるそれは、私にとってはほぼ狂う原因だったと今更ながらに思う。

とち狂って悲しい時に泣き笑い、怒り狂って泣き叫んだ時はいよいよ自らが生きづらい人間なのだと悟った。丁度、中学だかから高校の時分の話だったか。
教室や部室に居る時には毎回感情の波が激しくなるにつれて死にたくなったし、いっそ急に死んだら話題になるかとも思っていた。 

結局その時期に遭っていたいじめのせいで、いじめで死んだと思われても癪だったので死ねなかったが、今こうして生きていると生きていて良かったと感じる事も多々あった.......いや、死んでりゃ良かったとも何度も思ったが。
兎に角、今私はここに居る。感情に殺されかけ、日常に殺されかけ、人間関係に傷付きながらもまた人間関係を築き上げ、苦しみながら、呪いを背負いながら、ままならない人生を、呪詛を吐きつつ歩き続けている。


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