なりたくない大人になりたくなかった話
僕は自分の親に対して隔意があります。
それを親のせいだと割り切って生きてるあたり親不孝者なのかもしれませんがそれはそれとして。
だから、『なりたくない大人』の姿が割と明確にイメージできるんです。
子供の意見を感情論と屁理屈でねじ伏せるような親になりたくないとか。
自分の落ち度を認められずコロコロ言い分を変える大人とか。
人の好きなものに対して「〇〇だから自分は好きじゃないな」と本人の目の前で言ってしまう人とか。
エトセトラ、エトセトラ。
そうはならないぞ、と気をつけていたつもりだったのですが、僕もそういうなりたくない大人、反面教師の仲間入りをしていたようです。
最近の話です。
国公立に行くか、私立大学に行くか。決めあぐねている人がいまして。
僕ならブランドもあるし、国公立を選ぶと言いました。
学歴なんて社会に出てしまえば大した意味はありませんが、それでも憧れとか、偏見があったのでしょう。
多分、その人は本当は私立大学で学びたい事があって、私立への後押しをしてくれる人を求めていたんだと思います。
僕は気がつく事もなく、好き勝手言って満足したわけですが。
それは、世間体を気にして相手を見ない、毒親のような視点で、つまりは僕が一番なりたくなかったモノの考え方だったのだと、気が付きました。
なんというか、なんでしょうね。
自分ってこんなやつだったのか、と失望したし、失望した癖に相変わらず自分、自分、自分。
独裁者のように相手を見ていない。今も。
嫌いなものほど印象に残りやすかったり、楽しかった思い出はすぐに消えてしまったり。
そういうのって人間が生き残るために進化した結果だ、という話を聞いたことがあります。
印象に強く残るのはいつだって反面教師たちの姿で、違う何かであろうと身を引き締めてきたつもりでしたが、どうやら僕は彼らの方へと歩み寄ってしまっていたようです。
いつぞやの結婚しない、しても毒親にならないために子供は育てない、という自分ルールは死んでも破れないようです。臆病者。
心のどこかで、自分は間違ったことは言っていない、と思ってることにも気が付きました。
考えを正直に述べただけなのだと。
正直が美徳だったことなんてどれだけあったでしょうね。
正しいから間違ってないとか小学生でも言わないんじゃないですか?
なりたくなかった大人に僕はなってしまった。
子供は大人になって、大人は……なんになるんでしょうね。
少なくとも僕はダメになってしまったようです。
挽回できる日を手繰り寄せるためには、何を学んだら良いのか。
まずはそこに目を向けてみようと思いました。
ハッピーバースデー、僕。