歴史創作の話
自分と同じように、創作をしているけれど
まだプロではない人に、訊いてみたいことがある。
「ご自分の、作家としての強みって何だと思いますか?」
そんなこと自分で言うのは恥ずかしいとか
おこがましいとか、そういう思いを捨てて、
ぜひぜひ教えてほしい。
創作なんて楽しいばっかりではない。
書き手としての自分を思いきり肯定してやらないと、
やってられないこともある。
そんな中、自分だけが自分を褒めていても虚しいので、
ほかの人にも、「自分の長所」を
思いきりアピールしてほしくなってしまうのだ。
自分の良さを認めて、頑張っていこうよね!という気分だ。
私がみずから厚顔無恥に、自分の信じる
「自分の強み」を挙げるならば、
端正な文章が書けることと、構想力があることだと思う。
逆にいえば、そのほかは苦手なことだらけだ。
苦手なことを挙げたらきりがないが、たとえば、
歴史に関する知識とか、緻密な時代考証とか、
そういうのは、はっきりいってお粗末である。
そんな人間がなぜ無謀にも歴史創作をしているのか。
なんか好きだから、としか言いようがない。
言い訳をするわけではないが
(で始まるすべての文は言い訳である)、
そもそも、歴史創作というのは、
「史実」を原作とした壮大な「二次創作」の場だ
と思っている。
『平家物語』も、『太平記』も、二次創作だ。
必ずしも史実を伝えてはいない。
面白ければOKという精神で話を作っている。
世阿弥に至っては、その二次創作から創作してたりする。
(いやあの人の場合はミュージカル版の脚本を作ってるのか?)
それでも、史実とかみ合わないからといって、
偉大な古典作品の価値が否定されるわけではない。
もちろん、歴史創作をする人の立ち位置も色々ある。
現代の漫画などで二次創作をする人の中でも、
原作にめちゃくちゃ忠実な立場の人もいるはずだし、
一方で、好き勝手に改変を楽しむ人もいるだろう。
私は、圧倒的後者だ、というだけの話だ。
埼玉文学賞を受賞した「入間川」は、
そもそも坂口安吾が足利基氏と邂逅する物語なので、
だれにも「史実が」とか言われようがなかった。
が、『世尊寺殿の猫』は、一見して歴史に忠実っぽい。
なんなら「歴史上の謎を解きましたよ」みたいな面をしている。
でも、読んでくれる人は、忘れないでほしい。
ねえから。そんなわけ、ねえから。
世尊寺行尹は足利高国と出会わないし、
ふにゃららはほにゃららなわけないし、
あれもこれもそれも全部、そんなわけないから。
ぜんぶ、手術台の上の傘とミシンの出会いみたいな話だから。
面白ければいいとしか思ってないから。
(面白くすらなかったら…ごめんな)
歴史小説家の方の中には
「自分の作品を通して、歴史を知ってほしい」
とか思ってる人もいるのかな…(え、そっちが普通なん?)。
私は全く思ってない。むしろ、
「私の作品を読んで、歴史を知れると思うなよ」
と思っている。
ただ、「お話を楽しんでもらえるといいなあ」
ということだけは、いつも望んでいる。