つけびの村 を今更

今更ですが「つけびの村」を読了。本になってまとまったものを読み直したかったので読んだのだが、ミステリー作品を読んでいるような錯覚に陥る。起こった出来事は事実であるし、その後のニュースも見ているので、「劇的な結末、あいつが真犯人!!」みたいな事が無いのは解っているのだが、それでも引き込まれて読んだ。

内容は著者・高橋ユキさんのnoteにもあるし、本にもニュースとしてネット上にも散々あるので省きますが、コロナ渦中前半から続く地方移住ブームが起こった後に読むとまた違った味わいである。

僕は都市でしか生活した事が無い。比較的昔ながらの住民が残って居る地域で都市部にしては近隣の顔が色濃く解るし、自治会にも入っているので濃厚な関係性ゆえの煩わしさは理解できるが、それでも逃げ道はたくさんあるし、お互い濃くなり過ぎないような配慮が生まれる。夜中に仕事で出て行くことがあっても「大変やね」「いえいえ」で済むし、「結婚しないのか」などと言われても「したくないわけでは無いんですけどねぇ」などとお茶を濁しておけば相手も「今どきは無理にせんでもね」と言った具合に。

こうした配慮は集落レベルまで行くと関係が密になりすぎて会話のターン数が増えてしまい、言わなくても良いラインを簡単に超えてしまうのだろう。

SNSの心理系アカウントが「心を軽くするために」とか「あなたは弱くない、相手が悪い」などと助言めいた『良い言葉』をつぶやいて、それに助けられる事も、うさんくさく感じることもあるのだけれど「つけびの村」を読んだ後「それって都会でしか通用しなく無いか」と思う。「心が壊れるまで闘うな、逃げろ」というのは僕も実践している自覚はあるが、物理的に逃げた先がつけびの村であった場合、心はどこに逃がせば良いのだろうか。

“ワタル”はお金があれば再度引っ越すことも可能だったかも知れない。トークのスキルがあってコミュニューケーションが抜群に上手ければ結果が変わったかも知れない。密度が濃すぎる集落で心を自由にする術は無かったのか。

2022年下半期後半の現在、SNSでは宗教二世達の連携が多く見られるようになった。同じ境遇を経た話せる仲間が居るというのは心強いだろうと思う。
“ワタル”のような境遇に陥った場合、話せる仲間が居たら救われただろうか。事件は回避できただろうか。当時の村にはインターネットは通じておらず、携帯の電波も入りづらい状態だったという。

学問・経済やエンタメ同様「心のケア」さえ都会用を大量生産しているのかも知れない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?