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巡禮セレクション 33

2013年10月24日(木)

紀の国のウズヒコ


「武内宿禰の父は、屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)で、莵道彦(うじひこ/宇豆比古)の娘影媛(かげひめ)を妃とし武内宿禰を儲ける。 」
http://sns.prtls.jp/junrei/diary.html?id=1&did=c4f101cd7dda141

と書きました。
もう少し掘り下げてみます。

莵道彦は、紀の国の紀直の後裔だそうです。
紀氏は和歌山県にある日前国懸両神宮の社家で、古代から紀伊国に威武をふるっていた出雲族の王家で『古事記』や『日本書紀』『古語拾遺』『紀伊続風土記』などの記録によると、神武天皇が近畿内平定ののち紀州の国王(国造)に封じられた天道根命の直系子孫だそうです。


この紀氏の系図には、大名草彦命という名が見えますが、大名草彦命は『国造次第』に紀伊国の第5代国造として見える大名草比古(命)と思われ、『紀伊国造系図』には大名草比古命の子としては宇遅比古命(うじひこのみこと)がいます。


大名草比古は、ウズヒコの父ちゃんですから、
武内宿禰の曾爺ちゃんということになるかも??です。
が・・・

前の日記にこう書きました。

『草香の戦いでナガスネヒコに破れたイワレヒコ(のちの神武天皇)の軍団が再戦のため紀ノ川から吉野を迂回して背後から攻撃を図った際、名草戸畔軍との戦いになった。地元の伝承によれば、熊野古道を現・海南市に少し入ったそばのクモ池周辺が戦場である。名草戸畔はここで戦死。遺体は無惨にも頭、胴、脚が切り離された。』

この名草戸畔の話は日本書紀にも載っていますが、

『彼女の死は長く悼まれた。和歌山市のいくつかの神社は名草姫命(名草戸畔)と名草彦命を祀り、その本社は吉原の中言神社である。日前神宮・國懸神宮の摂社になっている。』
http://ameblo.jp/amahiko/entry-11217073340.html

神武天皇の敵であり女族長、名草姫と同じ名を持つ男性、名草彦が紀氏に名を連ねこれより日前国懸両神宮神官の始まったようです。


素直に考えると、神武天皇の東征に抵抗した女王名草姫の家族が、神武天皇に恭順し亡き女王の霊を弔ったと。
そして見返りに名草彦は紀の国の国造となった。


もしそうなら似た話がまだ神武東征にあります。

それが磯城(しき)氏です。
磯城氏の祖は、弟磯城です。
神武東征譚で語られる兄磯城、弟磯城の兄弟です。
兄磯城は、大和(奈良県)の磯城地方を支配。神武天皇の大和進攻のさい、弟の弟磯城(おとしき)が帰順するなか戦って殺されました。

弟磯城は、この戦いで兄より神武側につき神武天皇を勝利に導きます。
そして、その功績で「磯城県主」となります。
この『同じ記事の中に倭国国造に「椎根津彦」を、葛城国造に「葛城剣根命」を任じたとある。この「椎根津彦」の裔が「大倭氏」となり、その末裔が大和神社で倭大国魂神を祀ったとされている。』そうです。

この一族は、欠史八代の天皇の妃を出し続けることになります。
そして、9代開化天皇から物部系にその座を譲り消えていきます。
開化天皇の子が崇神天皇ですね。


実は、神武=崇神と考え、崇神+日槍による大和征服を考えてきましたが、ちょっと時間的に無理があるように感じていました。
崇神以前と以後では、磯城氏を見る限り時代は違っているように思います。
そして、その時間的感覚を得るカギにこの磯城氏はなるのではなか・・・と予感しております。
けど、それは今後の課題です。
因みに、磯城の地には、崇神天皇の磯城瑞籬宮(みずがきのみや)、垂仁天皇の纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)、景行天皇の纏向日代宮(ひしろのみや)、欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)などが営まれていました。

話を紀国に戻すと、天の岩戸の時
『石凝姥を以て治工として、天香山の金を採りて、日矛を作らしむ。又真名鹿の皮を全剥ぎて、天羽鞴に作る。此を用て造り奉る神は、是即ち紀伊国に所坐す日前神なり。」とあり、このとき鋳造られたのが、伊勢神宮奉祀の八咫鏡、日前神宮奉祀の日像鏡、国懸神宮奉祀の日矛鏡である。』

石凝姥が国懸神宮の日矛鏡を作っています。
この時、天香山の金から日矛を作っています。

金の竹から生まれたカグヤ姫
カグヤはイカグヤ、伽耶の金氏か・・・
みたいな話しと、

倭宿禰は、天村雲命と伊香里姫の子で、
倭宿禰=天御影命=天日楯とするなら、
天村雲命の父が天香久山ですから、
なにやら天火明の血族を喩えているような気がしないでもありません。

石凝姥は、作鏡連(かがみづくりのむらじ)らの祖神で別名 櫛石窓神、豊石窓神です。
櫛石窓神、豊石窓神とは、門神です。
この門神は、アラハバキ神として祀られている場合があります。
http://ameblo.jp/amahiko/entry-10884060442.html

石凝姥の名前は、石の鋳型を用いて鏡を鋳造する老女の意味だそうです。

アラハバキ神であり老婆である神です。
なんだか、老婆と言えば背折の神、瀬織津姫を思い出してしまいます。


日前、国懸神宮の前身は、伊太祁曽神社です。
http://ameblo.jp/amahiko/entry-11217246614.html
御祭神は、五十猛命又の名を大屋毘古命とその姉妹。
大屋津比売命と都麻屋津比売命です。

大屋毘古命といえば、大禍津日神であり、
大禍津日神と瀬織津姫は同神だとされています。

五十猛命は、韓神だと言われていますし、天日槍とも繋がる可能性があります。
また、天日槍=天火明とするなら、瀬織津姫とのカップルも考えられるかもしれません。

伊太祁曽神社は、今の地に移る前に亥の杜に最初に移りました。
亥というのもまた別のカギだと思います。


とにかく、神武軍は和歌山、奈良を支配下に置き、その反抗する土着民の王の怨霊を封じるために神祀りをし、その氏族を厚遇しています。
どうやら名草族は、和歌山の名草山に住んでいたようです。

神武+ウズヒコは、和歌山で名草族を倒し国懸神宮を作ったのかもしれませんね。

もし紀国のウズヒコと丹後のウズヒコが同一人物なら、もしかするとウズヒコの父が大名草彦命とするのは、國懸大神の日矛の鏡と自らの血で、大名草姫の怨霊を封じたのかもしれませんね。
なんせ、大名草姫は、無惨にも頭、胴、脚が切り離されていますから、よほど恐ろしい敵だったんだと思います。


その母方の血から武内宿禰は生まれてくることになります。

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