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巡禮セレクション 3

2017年02月11日(土)

穢れなどなかった。

前回の日記にスサノオの母について書き、それに付随してアメブロで黄泉神のことを書きました。
一つのヒントから、いくつも連鎖してパラダイムが起きることがあります。
つまり、信じていたことが覆され真実が現れるという現象です。
今のテーマは、祓戸の神なのかもしれません。
この祓戸の神は、いわゆる大祓詞の主神、祓戸四神のことではなく、イザナギが小門の阿波岐原で禊したときに現れた神々のことです。
もちろん、記紀には記載されていませんが、祓戸四神もそのうちに数えられます。
そして、天照大神や素戔嗚命といった禊のクライマックスに現れた三貴神のことも言います。


さて、最近、僕の好きな作家の高田崇史氏の作品を読み返しています。
彼の本は、推理小説なのですが、事件に巻き込まれた主人公が殺人事件を負う傍ら歴史の真実を追求するという形で物語は進行します。
今、読んでいるのは「竜馬暗殺」という作品です。
この中で意外なことが書かれていました。
講談社文庫P229・P230に書かれているくだりです。
登場人物の言葉として書かれているのですが、内容はこうです。
穢れとは、「殺生・肉食」のことであり、これは天武天皇時代以降、すなわち七世紀以降に仏教の影響で唱えられた概念であるということ。
つまり、それ以前の日本には穢れの思想がなかったということです。
この穢れ思想の生まれた背景には、政治的な思惑があったということです。


ウィキの穢れの項には、
「穢れという観念が日本に流入したのは、奈良時代後期または平安時代だと言われる。
死、出産、血液などが穢れているとする観念は元々ヒンドゥー教のもので、同じくインドで生まれた仏教にもこの思想が流入した。
特に、平安時代に日本に多く伝わった平安仏教は、この思想を持つものが多かったため、穢れ観念は京都を中心に日本全国へと広がっていった。」

やはり外来の思想のようです。
僕は、神道の奥義は、穢れを祓うことにあると考えていましたが、その穢れは7世紀以降の概念ということで、我々の知っている神道とは、縄文から続く思想ではないことがわかります。


先ほど言及した政治的判断で穢れ思想を用いた背景に関して「竜馬暗殺」では割愛していますが、こちらのブログに書かれていることで説明できると思います。
Merzbow Official Site 肉食禁止の歴史」より一部引用させていただきます。

「日本が肉食禁止の歴史を積み重ねてきた理由のひとつは、日本人が米を主食とする民族だったからです。
天皇は現在でも宮中で田植えをしています。
宮中の田で収穫された米は、新嘗祭で天皇家の祖神アマテラス大神に捧げられます。
古来、天皇は米を司る祭司でした。つまり、米を主食とする民族の中心にある存在が天皇でした。
大雑把に言うと、この天皇の勢力を中心とした米文化(定住性の稲作文化)に対立するものが、肉文化(非定住性の狩猟文化)です。
この「米」と「肉」の対立が肉食禁止の歴史を生み出したとも言えるでしょう。では、天武天皇に始まる肉食禁止令が具体的にどのようなものであったかを見てゆくことにしましょう。

六七五年(天武四年)四月、天武天皇は「肉食禁止令の詔」を出しました。
これは牛、馬、犬、猿、鶏といういわゆる五畜(仏教用語で「五畜」は「鶏、羊、牛、馬、豚」とも「牛、羊、鶏、豚、犬」とも言われています)の肉食を禁止しました。その理由としては、牛は田畑を耕す、馬は人を乗せて働く、犬は番犬となる、鶏は時を知らせる、猿は人間に似ているからだとしています。
禁止期間は四月から九月までの農耕期に限定されていました。当時は耕作期に狩猟を行い、田畑を荒らす動物を殺して豊穣を祈願したり、雨乞いのために牛や馬を供儀にしたりという、残酷な土俗民間儀礼があったようです。
ですから、耕作期に肉食を禁止するというのは、こうした野蛮な民間儀礼における動物虐待行為を禁止する目的もあったと言えます。もちろん天皇制国家としては、古い民間信仰を駆逐しなければならないという政治的使命もありました。」以上引用終わり。


天武天皇の時代は日本が律令国家として成り立つ最初の時代です。
日本は、稲作文化で稲作により天皇が統治する国家でした。この稲作より以前にある肉食という食文化を穢れているという理由で否定し農耕を優位に置くことが穢れ思想の目的だというわけです。

こちらのブログ「肉食鍼灸師の食養ブログ 穢れの思想」には、そのあたりの事情が端的に説明されているので、一部引用してみます。
「農耕民族の特徴は、分業が進み、貧富の差や身分の差ができることです。分業が進むため武器や兵法が発達し、戦争にも強くなります。日本の場合、支配者は米を『税』として徴収しました。『税としての米』を生産することが庶民の仕事です。。

中世の荘園領主などの支配者層はより多くの米を生産させるために、米を神聖化し『米中心の価値観』を作っていきました。

いっぽうで、農耕に役立つ牛や馬を殺すことを禁じ、
仏教の影響もあって『殺生』そのものを忌むようになります。」以上引用終わり。


これで神道の概念であったと思っていた穢れという概念がいつどんな理由で生まれたかというのが理解できたかと思います。

となると、どういうことがわかるかというと、イザナギの禊によって生まれた祓戸の神々がいつ生まれたのかということ。
もっとも、大祓詞の前身、中臣祓詞は、天智天皇時代に中臣金によって佐久奈度神社で生まれましたから、天武天皇の時代より少し前になります。
いずれにせよ、天智・天武時代より神道の概念が随分と変わったのかもしれませんし、仏教の影響というのなら、その少し前の蘇我時代に変わったのかもしれませんね。

さて、イザナギが穢れた原因である黄泉の国についてですが、この話からも見えてくることがありますが、それはまた次の機会にしましょう。

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