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巡禮セレクション 45

2014年02月13日

神田明神


神田明神は、天平2年(730年)武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのが始まりと伝わっています。
神田はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称しました。

承平5年(935年)の平将門の乱後、将門の首が近くに葬られ、将門の首塚は東国(関東地方)の平氏武将の崇敬を受けました。
嘉元年間(14世紀初頭)に疫病が流行し、将門の祟りであるとし延慶2年(1309年)に相殿神とされた。

将門の死後、4世紀近く経ってから彼の祟りだと騒ぐのには違和感があります。
祟り騒動は、崇徳天皇の時も死んだ後、随分経ってから騒ぎがおきます。
僕は、これは政治的な計らいであり、実際の祟りではないと思います。

これは、想像ではありますが、
当時の政権を担っていたのは、鎌倉幕府第10代執権、北条師時。
もしくは、その先代北条貞時だと思います。
貞時は、1293年5月29日に平禅門の乱を起こしています。
なぜ、これが乱と呼ばれるのか不思議ですが、
この事件は、時の実力者平頼綱が、主君である9代執権北条貞時によって滅ぼされたものです。
執権が、その従者を殺したのに乱とは不思議です。
しかし、時の勢力は平頼綱が恐怖政治を牽いていました。
その圧倒的実力を恐れた貞時が、鎌倉大地震に乗して起こした事件です。

その少し前1285年には、霜月騒動が起こり、平頼綱の対立勢力であった安達泰盛以下安達一族が、平頼綱に滅ぼされています。
それ以後、天下は平頼綱の思いのままになっていたようです。
平頼綱の政治についてこんな逸話が残っています。
「室町時代に禅僧の義堂周信が、鎌倉からかつて北条氏の所領であった熱海の温泉を訪れた際に、地元の僧から聞いた話を次のように日記に記している。
「昔、平左衛門頼綱は数え切れないほどの虐殺を行った。
ここには彼の邸があり、彼が殺されると建物は地中に沈んでいった。
人々はみな、生きながら地獄に落ちていったのだと語り合い、それ故に今に至るまで平左衛門地獄と呼んでいます。」
このように頼綱の死後80年以上経っても、その恐怖政治の記憶が伝えられていた。」


元寇、政治不安、大地震に疫病が続く時代に400年近く前に死んだ将門の怨霊を鎮めたことになります。
時代的に見るならこの怨霊とは、恐怖の大王のような平頼綱ではないか・・・と思います。
その彼を地獄から復活させないための封印ではないでしょうか?

しかし、師時は1311年9月22日に出家し、同日に死去しました。享年37の若さです。
また、この一か月後に貞時も世を去っています。
将門を祀る2年後のことです。

平頼綱の家系は平資盛を祖と称するが、これは仮冒された系譜であるとされ、実際は平姓関氏の流れとされています。
平資盛は、平清盛の孫です。
平姓関氏は伊勢国の豪族で桓武平氏に平姓関氏があるようです。
因みに関氏の中には、藤原秀郷を祖とする常陸国の藤姓関氏があり、
平将門を討ったのが藤原秀郷というのも不思議な縁です。

また余談ですが、僕が今注目している美濃国を根拠地とする美濃関氏もあるようです。

とすると僕の想像では、平将門は怨霊ではなく平頼綱の祖先として鎮魂に用いられたと思われます。
しかし、平将門はそれ以前から信仰され、関東武士にとっての英雄だったのだと思います。

明治時代までは、神田明神といえば平将門を指していました。
当然、庶民の信仰の対象は将門でした。
ところが、明治7年、明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、
平将門が祭神から外され、代わりに少彦名命が茨城県の大洗磯前神社から勧請されたのです。
平将門神霊は境内摂社に遷されたのです。本社祭神に復帰したのは、戦後昭和59年(1984年)になってからです。

明治の国家神道では、天皇とその祖神、そして忠臣を祭祀する宗教として国民の意識統一を図るものでした。
天皇万歳の世で、天皇に組しないものは、例え神でも抹殺されました。
多くの仏教信仰や民間信仰、修験道は迫害を受けました。
これは、また別の機会に述べてみます。

とにかく江戸の総鎮守神田明神は明治の世に様変わりし神田神社と呼ぶことになりました。


ところで、神田神社境内には、江戸神社が祀られています。
「大宝2年(702)、武蔵国豊島郡江戸の地、今の皇居の中に創建された大江戸最古の地主の神であります。
古くは江戸大明神、牛頭天王(ごずてんのう)或いは江戸の天王(てんのう)と称せられたようであります。

鎌倉時代には江戸氏の氏神として崇敬され、その後江戸氏が多摩郡喜多見村に移住の後、太田道潅築城ののち、
上杉氏、後北条氏と引き続き城内にそのまま祭ったが、
慶長8年(1603)、江戸城の拡張により神田神社とともに神田台に移り、さらに元和2年(1616)、当地に遷座された。

江戸時代中期以降は牛頭天王(ごずてんのう)と称され、明治元年(1868)に須賀(すが)神社と改称され、さらに明治18年(1885)に江戸神社と復称された。」


大宝時代は、不比等の時代です。
神田明神の祭祀が始まった天平時代は、聖武天皇の時代です。
不比等の思いが花開いた時代だと言えるような気がします。
おそらく、江戸の地が最初に変遷されたのが、この時代辺りではないでしょうか。


江戸神社の祭神は、牛頭天王(スサノオの命)です。
 

「江戸神社が西暦702年に創建されたと伝えられているが、当時のことはよく判らない。
よく判らないが、もともと南方系の海洋民族が生活の地を広げていたところへ出雲族が入り込んできたと考えられるので、もともとは南方系の神が祭られ、のちにスサノヲの命すなわち牛頭天王(ごずてんのう)合祀されたのではないかと思われる。

それが江戸神社と呼ばれるようになったのは、江戸氏が秩父からこちらに来て、この神社を氏神として祭ってからのようである。
最初の頃、この神社がどのように呼ばれたかはよく判らない。

なお、江戸氏が秩父盆地から東京湾は今の皇居ないし品川方面にでてきたのは12世紀の前半である。
一般には江戸太郎ということになっているが、その父秩父重継(ちちぶしげつぐ)がその子供重長(しげなが)をつれてでてきたらしい。

その子供・重長(しげなが)が世に言うところの江戸太郎である。

頼朝が鎌倉入りの際、武蔵の国に渡るため太井川(ふといがわ)の東岸に達したが、西岸には江戸太郎が頼朝の行く手を遮って立ちはだかっていた。
最初は徹底抗戦するつもりであったようだが、千葉氏や葛西氏の説得により江戸太郎は頼朝の軍門に下る。
以来、鎌倉幕府のご家人に加えられ江戸氏はおおいに繁栄する。

その後江戸氏は南北朝時代に衰勢に向かい喜多見村に移住するのだが、それまで江戸神社は今の皇居の中にあり江戸氏の氏神として奉られていたのである。

将門の頃はまだ江戸氏はない。神田神社は、江戸神社とももちろん神田神社ともまだ呼ばれていなかったのである。
果たしてどのように呼ばれていたのであろうか。興味のあるところである。」


おそらく元々のご祭神は、スサノオではないと思います。
江戸の神とは、いかなる神だったのでしょうかね?
将門の首がここに祀られたのも意味があるように思います。
もしかすると江戸に幕府を開いた徳川家康や江戸城を築いた太田道潅は、この東国の地霊のことを知っていたかもしれませんね。
今の僕には、見当も付きませんが、伊勢、出雲の民が関東に移り住んだんだと思いますが、それ以前の縄文人も存在していたことでしょう。

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