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巡禮セレクション 51

2016年02月10日

倭姫は、瀬織津姫なのか?


「ヤマト姫は出雲の向王家の血筋であるので、向津姫とも呼ばれることもあった。」

前回の日記で、こう引用文を用いました。
向津姫とは、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)のことで、瀬織津姫の別名であり、天照大神の荒魂だとされています。

つまり、倭姫が向津姫なら、倭姫は瀬織津姫だということになるのが論理です。


この事を少し検証してみようと思います。

冒頭の引用文は、出雲王家の伝承を元にしています。
その伝承によると、今回のテーマにに関連する三輪山祭祀についてこう伝えられています。

三輪山祭祀の始まる大和王国の初めは、出雲の事代主命の子らが奈良に移住したことが初めです。
その後、丹波王国のムラクモ王が同じく奈良に移住し、事代主命の娘、タタライスズ姫と結婚し、初代大和王に就任します。
ムラクモ王は、神武天皇のモデルとなり記紀に記録されました。

三輪山では、出雲の佐姫山の太陽の女神を勧請し姫巫女が司祭となりました。
姫巫女は、代々の皇女が勤めています。
つまり初代姫巫女は、タタライスズ姫ということになります。


時は流れ、記紀の言うところの垂仁天皇の時代。
物部イクメは、九州より第二次東征を行い大和へ侵入します。
やがてイクメ王は、大和を征服し大王となります。
記紀では、このイクメ大王を垂仁天皇のモデルとして記録しています。

この時代、三輪山祭祀は、大和から追われ丹波へ、そして伊勢へ移され伊勢内宮が創建され天照大神信仰に変わっていきました。
この経過は、倭姫の元伊勢伝説として語られています。


wikiには、倭姫のことを、
「第11代垂仁天皇の第4皇女。母は皇后日葉酢媛命。天照大神を磯城の厳橿之本(笠縫神社、檜原神社比定)に神籬を立てて、(垂仁天皇25年3月丙申)伊勢の地に祀った(現伊勢神宮)皇女とされ、これが斎宮の直接の起源であるとも伝えられている。」

厳橿之本に神籬を立てて、天照大神を祀ったそうです。
この厳橿之本という場所は、檜原神社が比定地となっており、現在、檜原神社は三輪山の大神神社の摂社となっています。

日本書紀では、最初に磯堅城の神籬を立てたのは、崇神天皇の娘、豊鍬入姫命ということになっており、倭姫は、豊鍬入姫命の後を継いだことになっています。


当時の神祀りは、勝友彦著「親魏倭王の都」によると、
「榊を根から抜き取って、枝に鏡を付けた。鏡は神獣鏡であったが、裏面の光る方を参拝者に向けていた。丸い鏡が太陽の女神(ヒルメムチすなわち霊流女貴)の御神体とされた点が、出雲的であった。」
と書かれています。

これがいわゆる神籬で、根の付いた榊を使っていたようです。
姫巫女である倭姫も同じ祀り方をしたと考えられます。

ところで、向津姫こと撞賢木厳之御魂天疎向津媛命の名ですが、どういった意味があるのでしょうか?


札幌市の「新川皇大神社」の神主さんのブログを参考にさせていただきますと、

「つきさかき=榊に宿る
いつのみたま=清らかな魂
あまざかる=天から離れる
むかつびめ(の)=向かう女性(の)
みこと=尊称

「榊に宿り、清らかな魂を持っていて、高天原から降ってきて、天に相対している女神様」ということでしょう。

ただし、「むかつ(原文では『向津』)」が何に向かうのか、字義どおり「向かう」ととってよいのか(ムクは「剥か」かもしれませんし固有名詞の可能性もあります)解釈が分かれるかもしれません。」

引用終わり


向津姫は、何かに向かう姫だと解釈されていますが、他にも意味があるかもしれないと書かれています。
今は、東出雲王家の向家の姫だという解釈で進めています。

その前の部分の意味を取ると、
神主さんは、「榊に宿り、清らかな魂を持っていて、高天原から降ってきて…」と解釈されていますが、少し意味が不明です。
僕は、順序を逆にして、
「天から離れた清らかな魂が榊に宿る」と解釈したいです。
しかし、清らかな魂の部分はちょっと変えてみたいです。

「厳之御魂」の部分は、「厳橿之本」の御魂の意味として解釈したいと思います。
つまり「(太陽の神だから)天から降りて来きて、厳橿之本の榊に宿る」という意味です。

この解釈でいくと正しく、三輪山の姫巫女の祭祀の意味になるではないでしょうか?
すなわち、「天から降りて来きて厳橿之本の榊に宿る女神を祀る向家の姫巫女」という意味合です。

因みに、厳橿之本は、「倭姫命世紀」には、「伊豆加志本宮」と表記されているので、「厳」は、「伊豆」で、出雲の意味かもしれません。

こうなると、倭姫が向津姫だというのも納得できそうな気がします。
三輪山の太陽の女神は、姫巫女と同一視され信仰されたと伝わりますから、姫巫女も太陽の女神とされた可能性があります。
まして倭姫は、天照大神の御杖代だったわけで御杖代とは、神をその身に宿らせる媒体なのです。
つまり、倭姫=天照大神状態であるわけです。

瀬織津姫が天照大神の荒魂と呼ばれるのもこういった意味があるのかもしれません。


瀬織津姫は、祓いの女神とされています。
これは、神に仕える巫女の仕事でもあるように思います。
wikiの巫女の項には、
「巫女となる女性には、穢れを払う、神、貴人にマナを付与する(霊鎮め)、等様々な行為を行なう職掌である」と書かれています。


姫巫女向津姫のこの部分が瀬織津姫の性格に反映されたように思います。
そして、天照大神の前身である出雲の佐姫ですが、かの女神は、幸姫命とよばれ幸神三神の母神です。
三神の父神は、クナト大神と呼ばれ、この父母神は婦夫(めおと)像として性信仰の対象となっています。

そして性神は、日本にとどまらず世界でも邪気を祓う、祓いの神としての信仰を持っています。
それゆえ、祓戸四神を祀り、大祓詞の元となった中臣祓詞が作られた佐久奈度神社(さくなどじんじゃ)は、サ・クナドと呼ばれ、サは幸神を意味し、クナドは、クナト大神の意味を持っています。

この幸神の祓の神信仰も、幸姫命から瀬織津姫に変化する際に、信仰が移ったのだと考えられます。


以上のことを考え合わせると、瀬織津姫とは、三輪山の太陽の女神を祀った倭姫だというのは信憑性があるように思います。
瀬織津姫が縄文の女神だというのは、その祭祀の対象が、幸姫命という縄文由来の女神だからだと思います。
漢字表記で意味がわかる瀬織津姫は縄文時代には存在せず、のちに姫巫女をモデルとして創作されたのだと思います。


ただ、ここで少し疑問を挟みたいと思います。
それは、伝承のとうりに、倭姫は、向津姫と呼ばれたのかどうか?ということです。
なぜなら、倭姫の時代は、向家の事代主命の娘がムラクモと結婚し妃となった時より、記紀の時代にして、10代後の姫なのです。
たしかに、最初は、代々の皇后は向家の娘を娶るしきたりだったので、向家の血が濃くなったようです。

しかし、倭姫だけを向津姫と呼ぶのは疑問に思います。
登美家、磯城家、加茂家らが倭姫の家の名称ですから、登美姫、磯城姫、加茂姫と呼ばれるのならわかりますが、いきなり先祖の向津姫を使われたのか?
それならば、向家事代主命の娘、タタライズズ姫や、次の姫巫女イスズ依姫のほうが、向津姫の名にふさわしいと思います。


そこで、僕は初代より姫巫女は別名、向津姫という別称を引き継いだと考えてみたいと思います。
つまり、向津姫とは代々の姫巫女の呼び名であったというわけです。

なので、結論として、瀬織津姫のモデルは、倭姫に限定せず代々の姫巫女であったと考えたいと思います。


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