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鳳虹庵日記 23

2012年01月10日

ロゴス考

最近、ロゴスという言葉を何度か使いましたが、

このロゴスという意味は、なかなかつかみどころの難しい言葉です。

だから、ちょっと自分なりにまとめてみました。

あくまで、自分なりになので、誤解もあるし独自の解釈もあります。

なので、あまりロゴスの意味としての一般的な参考になさらないでください。

因みに、多くはウィキペディアからの情報を参考にしております。

さて、ロゴスということは、一言でいうなら、

「コト」という事だと思います。

「コト」は、言であり、事でもあります。

調べてみると、ロゴスとは、

概念、論理、理論、思考・・・といった意味だそうです。

また、神の言葉や言語、真理といった意味もあるようです。

論理や概念は言葉によって他者に伝えられます。

ロゴスの対比する語にミュトスがあります。

ミュトスは、物語、お話といった意味だそうです。

ロゴスもミュトスも言葉によって成り立っています。

論理は、言葉を使って思考に訴えます。これがロゴス。

物語は、言葉を使って感情(感動)に訴えます。これがミュトス。

しかし、ここに哲学やら宗教がロゴスを使うと難しくなってきます。

それぞれ語る人によって、ロゴスの捉え方が違ってきます。

多分、ロゴスとはそういったものなのです。

個人が世界を構築する、その世界を構築するものが論理や真理であり、ロゴスなわけです。

だから、個人によって世界が違い、ロゴスも違ってくるのかもしれないのだと思います。

したがって、ここに綴るロゴスも僕の世界でのロゴスなわけです。

古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスは、世界の本性アルケー(根源原理)をつなぎ構成する言葉、論理がロゴスだと捉えました。

アルケーとは、「初め・原初・根源」といった意味で、それを、様々な哲学者は、

万物の根源(アルケー)は、水である。とか、

数である。とか、

火・水・風・土の四大元素である。とか、

アトモス(不可分体)である・・・

とか、いろいろと言っています。

アルケーの対比されるものがテロスと言われます。

アルケーは、αであり、テロスはΩなのです。

これが、最初と終りを意味します。

だから、最初である根源を成り立たせているのが、言であるロゴスということだと思いますが、

わかったような、わからないような・・・

仕組みがわからなくて、想像するしかないので、そんな感じになります。

そう、おそらく仕組みなんでしょうね。

ギリシャ哲学のストア派は、神が定めた世界の神的な論理をロゴスと呼びました。

ストア派というのは、ストイックという言葉があるように禁欲的な思想と態度が特徴で、自らが善い生き方とする生活を実践している人達でした。

ストア派の人達は、人間は世界の一部であり、自然本性としてロゴスを持って生まれてくると、考えたようです。

おそらく、人間の中には、ロゴス、すなわち根源的な仕組みが組み込まれていると考えたのだと思います。

それは、もう一つの「コト」である「理(ことわり)」と呼んでも良いと思います。

ロゴスは、理屈で成り立ち、本来仕組まれているもので、言葉で構成されているのです。

ストア派の人達は、ロゴスをヌースやダイモーンと同じようなものだと考えました。

ヌースとは、「理性・知性・精神・魂」といったものです。

人間の持つ根源的なものがそれらを組み立てているというのでしょう。

ダイモーンも人間が本来持っているものです。

しかし、ダイモーンは、人間と神々の間に位置するものと考えられました。

それは下位の神格や死んだ英雄の霊でした。

ユダヤ・キリスト教ではダイモーンはデーモンと呼ばれ悪霊のことを指しますが、これは区別されるものです。

これは、その質が霊であったために混同されたのだと思います。

ヘレニズム期のダイモーンは、善いものをエウダイモーン(天使)といい、悪いものをカコダイモーン(悪霊)と呼んだようです。

エウダイモーンは、守護天使や心理学でいう上位自我に似ていると捉えられています。

この守護神は、人に憑くものであったり、土地に憑くものであったりします。

ヌースは魂、ダイモーンは霊、これらは霊魂というものです。

ロゴスは、言から霊魂でもあると飛躍していったのだと思います。

そして、それらは、人間に本来、内存するもの又は、人間に憑いているものだと思います。

ロゴスは、言(コト)であり理(コトワリ)である。

その自然の理が、人の外にあって人を守護した場合、神や天使となる。

その自然の理が、人の内にあって人を導くものが、霊魂である。

また、その理が悪く発動すると悪魔や悪霊となる。

こんな感じに展開できると思います。

ヨハネによる福音書には

「はじめに言(ロゴス)があった、言(ロゴス)は神とともにあり、言(ロゴス)は神であった。」

とあります。

またキリスト教では、父なる神の言(ロゴス)である子(イエス)の本質をロゴスとも考えられたようです。

イエス自身がロゴスであり、それは父なる神の言だということです。

そして、そのロゴスの担う愛が精霊だと考えられたようです。

しかし、この父・子・精霊の三位一体は、本来その本質は一つでありながら三つの相があるというものです。

だから、結局、子は父のロゴスでありながら、父もロゴスであり、精霊もロゴスなわけです。

だから、父を第一ロゴス、子を第二ロゴス、精霊を第三ロゴスと呼んでその相というか、理を分類されたわけです。

第一ロゴスは、秘教的セフィロトの樹におけるケテルに対応されます。

第二ロゴスは、コクマー。第三ロゴスはビナーです。

この辺りは、難解でまだまだ、研究が必要です。

だから、これ以上は言及しません。

今は、

「ロゴスとは、自然の仕組み、理であり、それは言によって成されている。」

としておきます。

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