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巡禮セレクション 35

2014年08月26日(火)

屋船神

屋船1

屋船2

屋船3

一つのピースが嵌ると、つづけていろいろなピースが繋がることがあります。

伊勢巡礼の最初、予定外であった豊川茜稲荷神社にお参りした時、ここは今回の最も重要なポイントかもしれない・・・と思いました。

今朝、伊勢巡礼の画像を見ていて茜社の掲示板を読んでいると今まで気付かなかった文面に出会いました。
かいつまんで書くと次のとうりです。(画像参照)
「豊川茜神社の御祭神、宇迦之御魂神は、須佐之男命の御子にして・・・亦の名を豊受毘賣命なとど申し上げ伊勢外宮の大神と御同体にて・・・又その幸魂は屋船神と申して家屋のことを守り給い・・・」


豊受大神の幸魂が屋船神!

屋船神のことを初めて知ったのは、2011年の四国旅のことでした。(七色堂「○金の神」参照)

○金と書かれた扁額の掲げられた神社に祀られていた神です。(画像参照)
二柱祀られていた一柱は、屋舟豊受姫大神と書かれていました。
もう一柱は、かすんで判読できなかったものの、当時は、「屋舟久寿・・・・文字がにじんで読めない。
おそらく、クスミ(クスヒ)か・・・
スサノオのことだと思った。」
と記録しています。

しかし、これは間違っていました。今、この神は、ククノチだとわかりました。
玄松子さんのHPには、
「久久能智神(くくのちのかみ)
別名
句句廼馳神:くくのちのかみ
屋船久久廼遅命:やふねのくくのちのみこと
屋船神:やふねのかみ

伊邪那岐・伊邪那美二神より生れた木の神。風の神の次、山や野の神の前に生まれた神。

久久は茎のことで、智は男性を表わす接尾語

屋船久久廼遅命は、大殿祭祝詞に記された木の神。
家屋の守護神として、屋船豊受気姫命とともに信仰されている。

木の神である久久能智神と、野の神である草野比売神を総称して屋船神といい、御殿の神である。

木の神は、久久能智神の他に、木俣神、大屋毘古神、五十猛神など。」

とあります。


屋船神とは、久久能智神と、野の神である草野比売神を総称だということです。

これで、はっきり解りました。

○金の神とは、ヤーウェだというのが四国旅での解です。
そして、これは屋船で表示されています。

木の神は、スサノオまたは五十猛命です。
これは徐福一派です。

ヤーウェ信仰をもたらしたのは徐福一派ということになります。

いわゆるトンデモ本の中には、徐福はユダヤ人だという説があるようです。
僕は、この類の本は読まないので詳しくはわかりませんが、僕の探求の解もこれに同意してしまうことになります。
しかし、少し違うのは、徐福自身がユダヤ人なのではなく、徐福一派の中にユダヤグループがいたのだと思うことです。

もしかすると、このユダヤグループがハタチームなのかもしれませんし、尾張氏なのかもしれません。


丹後に着いたユダヤチームは豊受大神をヤーウェとして祀ります。
豊受大神とは、マナを与えてくれる神、すなわち食物を与えてくれた神なのだと思います。
だから、真名井神社という名が残っているのだと思います。
後に稲荷神と習合したため水神の性格を得て井の神にもなったのだと思います。


屋船神は屋敷神として祀られていますが、屋敷が船なのは理解できません。
きっと、徐福一派が七福神へと変化したように海から船に乗ってきた神の意味があったのだと思います。


ここに、草野姫が乗りかかりました。
木と茅葺の屋根を足して屋敷になるからだと思います。
余呉巡礼でカヤノヒメは、伽耶の姫だと解を得ています。
この余呉の伽耶の姫が丹後で、豊受姫という天女に習合したのだと思います。

徐福渡来から数世紀後、伽耶人は渡来し徐福の信仰を上書き習合していきました。
ここに、ククノチ+カヤノヒメ=ヤフネ神が出来上がったのだと思います。


巡礼でよく見られる天神さんも、同じ様式だと思います。
今は、天神さんといえば菅原道真ですが、その前は朝鮮由来の天の神なのだと思います。
これが牛神になったわけです。
そして牛頭天王と合わさり、スサノオ→牛頭天王→天神に変化していったのだと思います。

伊勢の蘇民の森では、素戔嗚尊と菅原道真と不詳神の三柱が合祀されていました。(画像参照)
もしかすると、不詳神は徐福なのかもしれないですね。

ちなみに余談ですが、玄松子さんの前述の解説に、「智は男性を表わす接尾語」とあります。
朱智神社の朱智とは、朱の男を意味するなら、やはり素戔嗚尊(朱砂の王)ということになりますね。
だから、朱智神社は、朱智天王社として牛頭天王を祀っていたわけです。

さて、話を戻して構図は、こうです。
最初に徐福一派が渡来し、その中のあるグループがヤーウェ信仰をもたらしました。
その後、伽耶人がそこに天神天女信仰を重ねます。
もしかすると6を聖数を持つ者同士、同じような信仰を持っていたのかもしれません。

そして、さらに後、四国の何者かによって、屋船神は、船神として金比羅信仰が重なっていきます。

もう少し、深めると、徐福一派は素戔嗚尊、五十猛命のモデルであり、その末裔はおそらく物部氏。

そこに重なっていったのが、アマノカヤネ(天児屋根命)を祖とする中臣氏。

僕の世界では少しずつピースが埋まってきました。


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